六  古の霊桜

香神木に仕えるもの

 桜に意識が生まれたときにはもう、香神木こうしんぼくは、完全な形であの場にあった。

 空に向かって真っ直ぐに枝葉を伸ばし、おいそれとは近付きがたい、高潔で静謐な神気を放っていた。

 その気高さに惹かれて、従うように、控えるように、香神木のまわりに桜の森を広げた。


 いつしかそのさまを、人が崇めるようになった。香神木を「御神木様おみきさま」と呼び、かの木の周囲に玉砂利を敷いて、やしろを建てた。

 社の管理のために神官一人だけを置き、桜がそうしたように、畏敬をもって決して近づきすぎることなく、触れてはならない尊きものとして崇めた。


 桜は、その静粛を愛していた。

 境内に厳然と満ちる、香神木の神気を尊んでいた。

 同じ場所にあることが誇らしかった。


 しかし、時は流れ、時代は下る。


 遠く離れた地で、とある神木が、人の願いを叶えた。


 その神木は人里離れた森の奥、現世と地続きの幽世かくりよに存在していたが、ある日そこに、ひとりの若者が迷い込んだ。足を怪我して難儀して、このままここで朽ちるのは嫌だ、里に帰りたいと泣いた。神木はそれを哀れんで、若者を人の世に帰してやった。


 無事帰郷した若者は、その後再び神木の下を訪れて、助けてもらった礼を述べた。


 そして人々の間に、願いを叶えてくれる神木の噂が、その在処ありかとともに広まった。それぞれの願いをたずさえて、我も我もと、人が神木に押し寄せた。


 往来する人の足で踏み固められたその結果、人里から隔たった森の奥にあった神域に、人の世に通じる道ができてしまった。道ができればなおいっそうに、各地から人が押し寄せた。

 どうかどうかと、熱をもって、欲をもって、痛みをもって、かけられる願いを、その神木は叶えて、叶えて、叶え続けた。


 願いが叶ったと、喜ぶ人が増えるごとに、神木の神域に詰めかける人も増え、その神域は人いきれで満ちた。満ち満ちた人の気に押され、もともとその神域にあった冷涼な神気は消えていった。幽世であったその神域は、あまたの人が出入りしたことで俗世となった。


 そして神木も、枯れてしまったらしい。もともとその神域にいた、神気のある場所を好む形なきものたちが、人気に追われるようにして、香神木の社まで流れてきた。そんな彼らが嘆くのを、桜はじっと聞いていた。――人の世に、近付きすぎたばっかりに。此方こなたもお気をつけなされませ、と。


 香神木の社がそうなることなど、考えたくもなかった。


 けれど古来、気高く遙か隔たった存在であったはずの香神木は、時を経て、慈愛に満ちた気配を漂わせるようになっていた。

 何もかもを認め、受け入れるようなまなざしで、世の移り変わりを、神官たちの暮らしを見守っていた。

 その懐の深さが心配だった。

 そして、桜の抱いた漠然とした不安は、程なく的中することになった。


 ある代の神官が、香神木に不相応な欲を抱いた。

 もともとは、よく仕える、物静かな男だった。しかしいつからか、繊細優美な香神木の精の姿を、じっと目で追うようになった。

 視線は日増しに熱を帯び、その神官は香神木に恋着した。

 桜には、神官の目から生々しい熱気がにじみ出て、香神木に絡みつき、侵していくさまが見えるようだった。人の願いに応え続けて、みずからは枯れ果てたという、神木の話を思い出した。


 ――もし、もしも。香神木が、神官の思いに応えたらどうなる?

 そう考えて、ぞっとした。


 そんなことになったならきっと、かの神木の二の舞だ。神官という人に近付きすぎて、香神木が毒されてしまう。


 何より恐ろしかったのは、そうなることを当の香神木が、厭わないかもしれないということだった。生きたとておよそ五十年そこらの人間の一時的な願いを叶えるために、あっさりみずからを捧げてしまった、噂の神木同様に。かの神官が、昼夜を問わず不遜ふそんにもお姿を見せてくださいと乞うたびに、ためらいもなく姿を現してやるくらいには、愛おしみ甘やかしていたから。


 そして桜は社の外で、その神官を排除した。


 一本きりの香神木と違い、群れ咲く森である桜は、その根を周囲に張り巡らせていたから、近場であれば社の外にも顕現できた。香神木の心を乱さず、密かに片をつけるにはうってつけだった。


 ふいに神官が消えたことに、香神木が戸惑ったのを感じた。


 けれど、もともと人の一生など、神霊にとっては一時いっときに過ぎない。今回の神官は、いなくなるのが少しばかり早かっただけのことだ。香神木もそう思うはずだと、桜は己に言い聞かせた。


 そして桜はそれからも、香神木に恋着する神官が出るたび、密かに排除し続けた。香神木をわずらわせることのないように、社の静謐を揺るがすことのないように。けれど、香神木はいつからか、神官が消えたことに戸惑うのではなく、さびしげに目を伏せるようになった。


 香神木に奉仕するべき神官でありながら、分不相応な欲など向けるからいけないのだ。香神木に害となる者の排除は、香神木の社に控える存在として当然の務めだと、そう心中で釈明しつつも、香神木のさびしげな顔を見ると、後ろめたさが募った。


 それがいけなかったのだろうか。


 桜の森全体が、黒く陰りはじめていた。


 ――我らは、執着してはいけないのです。


 かつて噂の神木の下から逃れてきた草精の、さびしげな声が甦った。


 ――あらゆる情に囚われず、清流に乗った一葉のごとく流れのままに流れればこそ、我らは精霊であるのです。ひどく脆くて儚くも、至極軽やかであるのです。ひとたび情に捕まれば、我らとてまた重くなる。重くなり、うまく流れぬ木の葉には、汚泥や塵が絡みついて清流を汚す。そしていずれは、清流の流れそのものもき止めかねぬ、大きなよどみとなりましょう。


 ――ゆえに我らは逃げました。居心地の良い神域が失われたことに心痛くとも、こだわることはしませんでした。なれど、神木様をことさら敬慕していた夕菅ゆうすげの精だけは……。


 神木が枯れたことを受け入れられず、神域が侵されたことを認められず、神域に立ち入る人間たちを祟って、悪霊と化したのだと聞いた。


 ――人を祟る、悪霊。

 その言葉が、陰った己と合致した。


 愕然として、桜は咄嗟に、黒い陰りを根へと送った。香神木を囲む森に似つかわしくない不穏な陰を、地中深くに埋め隠した。


 それ以降、神官を排除するごとに桜の森が帯びる陰を、桜は、根から地中へと送り続けた。


 そうしていれば、地上に見えている桜の森は今まで通り、冴え冴えと美しいままだった。


 しかし地中では、たしかに変化が起きていた。




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