夢の終焉

 フヨウは立ちすくんでいた。

 夜気を通して伝わってくる、怒号に悲鳴、狂気と高揚。すべてが鋭く肌を打ち、フヨウを揺さぶっていた。

 けれど一番恐ろしかったのは、ひとり淡々と呪符じゅふを振るう、


「――あれはもうほぼ化生けしょうだね」


 ふいに、かたわらで衣擦れの気配と、水の匂いがした。

 見上げれば、青白い月の光を浴びた桜精が、鳥居の向こうに静かな瞳を向けていた。


 そこではアララギが単身、頼りない紙の呪符だけを手に、槍を突き出す兵たちを、呪符を放つ符術師たちを、時折降りそそぐ矢の雨を、羽虫でも払うように蹴散らしていた。今もまた、アララギの放った一枚の呪符が一人の槍兵に張り付いて、まわりの十数人もろとも、山道の彼方へ吹き飛ばした。


 放て、と叫ぶ声が響いた。


 号令一下、今度山道から放たれたのは、赤々燃える火矢だった。


 夜陰を燃やす火矢の群れは、ほとんど、鳥居の前に陣取るアララギによって落とされた。けれど、一部はうまく風にのり、アララギの頭上をすり抜けた。

 そして、数本の火矢が鳥居のこちら側、境内にまで飛んできた。


 玉砂利の地面に落ちた火矢は、燃え広がることはなかった。しかしうちの一本が、まるで吸い寄せられるように、御神木の骸に突き刺さった。


 鳥居の向こうで八面六臂の動きを見せていたアララギが、勢いよく振り返った。そのきんいろの瞳が、火矢に射られた御神木を映して、愕然と見開かれた。


 ――ふつり。何かが断たれた音が、聞こえた気がした。


 獣のような叫びが上がった。呪符が一閃、夜空に舞って、兵士たちが吹き飛んだ。その行く先を見届けるより前に、次なる呪符が放たれる。獣のように吠え叫びながら次々呪符を繰り出し続ける、今度のアララギの攻めは明らかに冷静を欠いていたけれど、それを補って余りある明確な殺意が乗っていた。


「放て、殺せ!」


 恐慌状態の火矢が乱れ飛ぶ。流れ矢が飛んでくる。ひとつが桜の枝に落ち、見る間に赤く燃えあがった。


「桜様!」


 叫んだフヨウの目の前で、またひとつ、桜の花枝に火矢が落ちた。花から花へ、枝から枝へ。その炎はみるみる移って、森全体に広がっていく。


「待ってください、今水を」


 鳥居を入った脇には手水舎ちょうずしゃがある。走り出そうとしたフヨウを、桜の声が呼び止めた。


「およし。そちらに行けば矢が届く」


 その声の静けさにぞっとして、振り返って、愕然とした。


 桜の木精の姿が、左の袖口から焼け焦げたように赤黒く変色し、ぼろぼろと崩れ落ちていっていた。

 にもかかわらず、桜精は微動だにしていなかった。受け入れて、燃えていこうとしていた。ひどく凪いだ静かな目を、御神木の骸に向けて。


「桜様、でも!」


 フヨウの声は、ひどく幼く響いた。ふっと視線をこちらに向けた桜精が、目元だけで苦笑した。


「おまえに水を運ばせなくたって、私は燃えない。その気になればね」


 ――知っている。わかっている。この境内を浸す黒い沼には、それだけの念が蓄積されている。思いや念はすなわち力だ。とくに、人にあらざる存在にとっては。


「でも、この力を振るったらもう言い訳が効かない。境内を囲む私が堕ちれば、ここも完全に、やしろではなくなる」

「だから、甘んじて燃えてしまうおつもりなのですか」


 フヨウの問いには答えずに、桜の木精は、すいと境内を見渡した。


「――この社が好きだった。香神木こうしんぼくのいた社。澄んだ神気に満ちた静謐」


 歌うようにつぶやいた、その口角がゆるりと上がった。


「香神木がいなくなった以上、失われるのを待つばかりなのはわかっていた。こうして終わりが来た以上、しがみつくつもりはない」


 桜の精がフヨウを見る。目が、合った。


「美しいものは儚く消えるんだよ」


 桜精の背後で、周囲で、桜の森が赤く、黒く、揺れて燃えていた。


 視界が灰色に煙っていく。もう桜の森のすべてに炎が燃え移っていた。満開の白い桜が、炎の中に黒く消えていく。はらはら、はらはら、雪のようだった花びらのかわりに、黒い煤が降ってくる。


 桜の精もすでに半身が赤黒く崩れて、それでもなお美しかった。炎に照らされた白い顔は、まるでこの時を待ち望んでいたかのように、今までで一番生き生きと無垢に輝いていた。


「――おまえはお行き。裏からならまだ外に出られる」


 煙を吸って咳き込んだせいで、フヨウの目には涙が滲んだ。


 消えてしまわないでほしいと、望んではならないのだとわかっていた。フヨウがそう望むことは、桜の妨げにしかならない。


 だってもう、ぎりぎりのところで保っていたのだ。一面に満ちた黒い沼にいつ呑まれてもおかしくなかったのに、御神木を失ってなお、社はまだ神域だった。桜が、「美しいもの」であろうとして、保っていた。


 その桜に、黒い沼が蓄えた、桜が拒絶し続けた、よどんだ力を振るってでも生き延びてほしいだなんて、言えなかった。フヨウはしょせん、桜の邪魔にならなかったから社にあることを許されて、気まぐれにかまってもらえたにすぎない存在なのだから。たとえ、炎に包まれた桜の森を見て、胸が引きちぎられるような気持ちになろうとも。


 いっそ砕けろとばかりに、強く奥歯を噛みしめた。


 桜の木精の瞳はもう、フヨウを見てはいなかった。最期の最期まで焼き付けるように、崩れ落ちる御神木を見ていた。

 太陽の下では陽光を透かす若葉のようで、月光の下ではうずみ火のようだったその双眸が、炎に爛々と輝いていた。


 殉ずることすら、おこがましかった。


 唇から血の味がした。深く深く、頭を下げた。そしてフヨウは背を向けて、兵や符術師が詰めかけているのとは逆側の、山の中へと逃げていった。




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