アララギの帰還

 春になって、おやしろの外、山道の桜も花をつけた。


 それが散って葉桜になり、雨の季節がやってきても、お社を囲む桜の森は、やはり満開のままだった。

 降り続く雨に打たれても、吹き寄せる風に煽られても、まるでそこだけ現世うつしよから切り離されているように、いつまでも冴え冴えと白い、花の盛りを保っていた。

 そうしてずっと、はらはら、はらはら、花びらを散らせ続けていた。


 ずっと泣き続けているみたいだと思った。


 炭と化した御神木様おみきさまを悼み続ける桜様はきっと、御神木様が焼けたあの春に、心を置いてきてしまったのだ。だからそのときの姿のまま、もうどこにも動けないのだ。


 御神木様の骸を見ている桜様からは、いつだって深い悔恨と、哀しみが伝わってきた。

 とぷりとぷり、呼応するように、黒い水面が揺れていた。


 フヨウが留守居役るすいやくとなって半年以上、お社の主であった御神木様が燃えてから、一年以上が過ぎていた。

 それでもお社は、神域の清冽さを失っていなかった。

 境内は、よどんだ思念を煮詰めたような、黒い沼で満ちているのに。そこから薄黒い靄や影が、染み出してきているほどなのに。

 かつて里長が恐れていたような、主を失ったことで荒れた社に、ここはまだ、なっていない。澱んだ臭いを嗅ぎつけて、よそから妖がやってくることもない。


 それはきっと、桜様がいるからだった。

 根を幹を黒い沼に沈めてなお、白々と咲く桜の森が、すんでのところでまだお社を神域に押し留めている。それが唯一のよすがであるかのように。

 足下の穢れなど知らぬという顔で、いつも凛然と咲いている。フヨウが初めて見たときは淡紅色をしていたはずのその花は、周囲の黒に抗うように、日毎ひごとに白さを増していた。


 黒く澱んだ沼のただ中で、元は純白だったのだろう、今は胸あたりまで墨に浸ったような色合いの衣を身にまとい、ゆらゆら瞳を揺らしながらもまっすぐに立ち続ける桜の精は、胸が痛むほど美しかった。


   ◇


 木枯らしが吹き始めたある日、アララギがお社に戻ってきた。

 フヨウの存在は知らなかったらしい。里長が知らせなかったのか、里に寄ってはこなかったのか。どうやら後者のようだった。

 虚ろのようなその細面が警戒の色を浮かべる前にと、フヨウは深々頭を垂れた。


「フヨウと申します、当代様。ご不在の間の留守居役を仰せつかっておりました」


 そう、あなたの立場を脅かすことも、邪魔をするつもりもないと言外に告げれば、アララギはたちまちこちらに興味をなくしたように、フヨウの脇を通り抜けた。

 そして、御神木の骸の前に立って、深く息を吐いた。


(ここに来てはじめて、深く息ができるような感覚)


 それはフヨウにもわかる気がした。

 ふと気になって、視線をめぐらす。

 境内に、桜の木精の姿はなかった。




 粛々と日々の掃除を続けながらも、フヨウは内心、追い出されるのではないかと危惧していた。

 けれど、里長はアララギの帰還を知らないのか、訪ねてくることはなかったし、当のアララギはといえば、フヨウなどまったく存在しないかのように振る舞った。

 フヨウどころか、彼の目には、炭となった御神木以外何も映っていないように思われた。

 アララギは黙って、日がな炭の骸の前にいた。抜け殻のようだった。

 社務所の食糧は減っていなかったし、水も飲んでいるふうがなかった。このまま死んでしまうのではないかと、まるでお供え物のように水と食糧を置いてみたけれど、手をつける気配すらなかった。


「桜様は」


 境内を掃き清めている途中、ふと、背後に感じた気配に問うた。


「当代様には会われないのですか」

「――意地の悪いことを言うね」


 気づいているだろうにと、暗に含ませて、桜が言った。

 アララギが戻ってから、桜はなりを潜めていた。

 ふたりの間に何があったのか、フヨウは知らない。

 わかるのは、アララギと桜が御神木の骸に向ける視線が、そっくりだということくらいだった。

 どちらの視線も、思慕と悲嘆と、哀傷を湛えて。

 それから、深い悔恨に濡れていた。


   ◇


 そんな日が十日ほど続いた後の、白い月が皓々こうこうと照る夜だった。

 玉砂利の小さな境内を囲む、やはり満開の桜の森が、花びらの一枚一枚に真珠のような月光を蓄え、夜陰に白く浮かび上がっていた。


「宮司様……! まさか、真にお戻りであったとは!」


 里の若者が、境内にかけ込んできた。


 若者は、肩に矢を受けていた。血の臭いが、境内の冷えた空気に染み出していた。

 息を呑んだフヨウの視界の端で、相変わらず御神木の骸の前に、足を投げ出すようにして座っていたアララギが、わずかに眉をひそめた。


「都から、軍勢が押し寄せております! 新たな都主みやこぬし様の命令で、宮司様を匿う里は諸共に滅ぼすと……! いったい、何がどうなっているのですか!」


 れるように、恐怖するように、若者はアララギに詰め寄った。


絡繰灯龍からくりどうろうを倒されたはずではないですか。都は浮かれ騒いでいると、噂がここまで流れておりました。それが……なぜ追われる身に落ちている! なぜ……おまえのために、里が焼かれた!」


 憎悪を宿した若者の目から、次の瞬間、光が消えた。

 若者の背に、いくつもの矢が、深々と突き刺さっていた。


「いたぞ!」


 声が聞こえた。鳥居の向こう、夜の闇に沈んでいるはずの山道が赤々と燃えていた。

 手に手に松明をかざした兵士と、狩衣の人間が大勢、社に向かって上ってきていた。兵士たちの掲げる槍の穂先が、ぎらりと月光を反射した。


 夜風にのって、死臭がした。兵士たちを取り巻いている、血と煙と無念の臭いだった。

 その臭いで、里が焼かれたというのは事実なのだと――わかってしまった。


「かかれ!」


 号令が響いた。槍を構えた兵士たちが叫び声を上げながら、山道をかけのぼってくる。アララギがゆらりと立ちあがった。

 そのまま、鳥居の外、向かいくる軍勢のほうへ出て行こうとする細い背中に、フヨウは思わず呼びかけた。


「当代様」


 何を言おうとしたわけではない。ただ、行かせてはならないと思った。

 行かせたら、取り返しがつかなくなる気がした。


 一度は足を止めた背中が再び歩き出そうとするのを、引き留めたくて、いたずらに言葉を続けた。


「どうなさるおつもりですか」


 アララギも、先代の老神官も、呪符じゅふで妖と戦っていた。

 呪符を操る符術師は、対妖の戦いにおいては、武装兵より遙かに強い。

 けれども人に対しては? それを、フヨウは知らなかった。

 効果があっても、効果がなくても。恐ろしいことになると思った。


 風を切る音がした。


 槍を構えて突撃してくる兵士たちの頭上を越えて、無数の矢が飛来する。そこへアララギが呪符を放った。三羽の白い鳥のように飛んだ三枚の呪符は、中空で矢とぶつかるや、それぞれ派手に爆発した。夜空が一時、真白く染まった。

 折れて砕けた矢の残骸が、ばらばらと地に降りそそいだ。山道がどよめいて、槍兵たちの速度が落ちた。


 懐から新たな呪符を取り出し、五指に挟んだアララギが、ひどく静かにつぶやいた。


「――社に手は出させない」




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