アララギの帰還
春になって、お
それが散って葉桜になり、雨の季節がやってきても、お社を囲む桜の森は、やはり満開のままだった。
降り続く雨に打たれても、吹き寄せる風に煽られても、まるでそこだけ
そうしてずっと、はらはら、はらはら、花びらを散らせ続けていた。
ずっと泣き続けているみたいだと思った。
炭と化した
御神木様の骸を見ている桜様からは、いつだって深い悔恨と、哀しみが伝わってきた。
とぷりとぷり、呼応するように、黒い水面が揺れていた。
フヨウが
それでもお社は、神域の清冽さを失っていなかった。
境内は、
かつて里長が恐れていたような、主を失ったことで荒れた社に、ここはまだ、なっていない。澱んだ臭いを嗅ぎつけて、よそから妖がやってくることもない。
それはきっと、桜様がいるからだった。
根を幹を黒い沼に沈めてなお、白々と咲く桜の森が、すんでのところでまだお社を神域に押し留めている。それが唯一のよすがであるかのように。
足下の穢れなど知らぬという顔で、いつも凛然と咲いている。フヨウが初めて見たときは淡紅色をしていたはずのその花は、周囲の黒に抗うように、
黒く澱んだ沼のただ中で、元は純白だったのだろう、今は胸あたりまで墨に浸ったような色合いの衣を身にまとい、ゆらゆら瞳を揺らしながらもまっすぐに立ち続ける桜の精は、胸が痛むほど美しかった。
◇
木枯らしが吹き始めたある日、アララギがお社に戻ってきた。
フヨウの存在は知らなかったらしい。里長が知らせなかったのか、里に寄ってはこなかったのか。どうやら後者のようだった。
虚ろのようなその細面が警戒の色を浮かべる前にと、フヨウは深々頭を垂れた。
「フヨウと申します、当代様。ご不在の間の留守居役を仰せつかっておりました」
そう、あなたの立場を脅かすことも、邪魔をするつもりもないと言外に告げれば、アララギはたちまちこちらに興味をなくしたように、フヨウの脇を通り抜けた。
そして、御神木の骸の前に立って、深く息を吐いた。
(ここに来てはじめて、深く息ができるような感覚)
それはフヨウにもわかる気がした。
ふと気になって、視線をめぐらす。
境内に、桜の木精の姿はなかった。
粛々と日々の掃除を続けながらも、フヨウは内心、追い出されるのではないかと危惧していた。
けれど、里長はアララギの帰還を知らないのか、訪ねてくることはなかったし、当のアララギはといえば、フヨウなどまったく存在しないかのように振る舞った。
フヨウどころか、彼の目には、炭となった御神木以外何も映っていないように思われた。
アララギは黙って、日がな炭の骸の前にいた。抜け殻のようだった。
社務所の食糧は減っていなかったし、水も飲んでいるふうがなかった。このまま死んでしまうのではないかと、まるでお供え物のように水と食糧を置いてみたけれど、手をつける気配すらなかった。
「桜様は」
境内を掃き清めている途中、ふと、背後に感じた気配に問うた。
「当代様には会われないのですか」
「――意地の悪いことを言うね」
気づいているだろうにと、暗に含ませて、桜が言った。
アララギが戻ってから、桜はなりを潜めていた。
ふたりの間に何があったのか、フヨウは知らない。
わかるのは、アララギと桜が御神木の骸に向ける視線が、そっくりだということくらいだった。
どちらの視線も、思慕と悲嘆と、哀傷を湛えて。
それから、深い悔恨に濡れていた。
◇
そんな日が十日ほど続いた後の、白い月が
玉砂利の小さな境内を囲む、やはり満開の桜の森が、花びらの一枚一枚に真珠のような月光を蓄え、夜陰に白く浮かび上がっていた。
「宮司様……! まさか、真にお戻りであったとは!」
里の若者が、境内にかけ込んできた。
若者は、肩に矢を受けていた。血の臭いが、境内の冷えた空気に染み出していた。
息を呑んだフヨウの視界の端で、相変わらず御神木の骸の前に、足を投げ出すようにして座っていたアララギが、わずかに眉をひそめた。
「都から、軍勢が押し寄せております! 新たな
「
憎悪を宿した若者の目から、次の瞬間、光が消えた。
若者の背に、いくつもの矢が、深々と突き刺さっていた。
「いたぞ!」
声が聞こえた。鳥居の向こう、夜の闇に沈んでいるはずの山道が赤々と燃えていた。
手に手に松明をかざした兵士と、狩衣の人間が大勢、社に向かって上ってきていた。兵士たちの掲げる槍の穂先が、ぎらりと月光を反射した。
夜風にのって、死臭がした。兵士たちを取り巻いている、血と煙と無念の臭いだった。
その臭いで、里が焼かれたというのは事実なのだと――わかってしまった。
「かかれ!」
号令が響いた。槍を構えた兵士たちが叫び声を上げながら、山道をかけのぼってくる。アララギがゆらりと立ちあがった。
そのまま、鳥居の外、向かいくる軍勢のほうへ出て行こうとする細い背中に、フヨウは思わず呼びかけた。
「当代様」
何を言おうとしたわけではない。ただ、行かせてはならないと思った。
行かせたら、取り返しがつかなくなる気がした。
一度は足を止めた背中が再び歩き出そうとするのを、引き留めたくて、いたずらに言葉を続けた。
「どうなさるおつもりですか」
アララギも、先代の老神官も、
呪符を操る符術師は、対妖の戦いにおいては、武装兵より遙かに強い。
けれども人に対しては? それを、フヨウは知らなかった。
効果があっても、効果がなくても。恐ろしいことになると思った。
風を切る音がした。
槍を構えて突撃してくる兵士たちの頭上を越えて、無数の矢が飛来する。そこへアララギが呪符を放った。三羽の白い鳥のように飛んだ三枚の呪符は、中空で矢とぶつかるや、それぞれ派手に爆発した。夜空が一時、真白く染まった。
折れて砕けた矢の残骸が、ばらばらと地に降りそそいだ。山道がどよめいて、槍兵たちの速度が落ちた。
懐から新たな呪符を取り出し、五指に挟んだアララギが、ひどく静かにつぶやいた。
「――社に手は出させない」
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