月夜の語り

 ほどなく雪が舞いはじめた。


 山の高い位置にあるやしろはひどく冷え込んだ。

 けれど雪の日は、凍てつく空気がいっそう凛と、清浄に感じられるので好きだった。


 石の鳥居も境内も、雪化粧した真白の世界で、日がな掃除をして暮らした。


 氷が張るほど冷たい水で社のそこかしこを拭き清め、掃き清める。自分自身の水垢離みずごりも、社にふさわしい状態でいるために、雪の日だろうと欠かさなかった。貴重な冬の晴れ間の日には、社務所に保管されていた、昔の神官が着ていたのだろう衣を日干ししてみたり、書物に風を通してみたりもして、過去の社に思いを馳せた。


 雪と見紛みまがう白い玉砂利に重なるようにして広がる、心象の黒い水面は、変わらず境内を満たしていた。そこからときおり、薄黒い靄や、影でできた蚯蚓みみずのようなものたちが顔を出し、鳥居の外へ出て行こうとするのを、フヨウは追って捕まえた。


 ――そっちへ行ってはいけないよ。

 ――こっちにおいで。


 そう念じながら、一度己が身に抱き込むようにして、ゆっくり深く呼吸をすれば、靄や蚯蚓は霧散した。


 フヨウはべつにそういった、まだ妖とも言えないようなかそけきものを悪くは思っていなかったけれど、そういうものが里へ下りていって、里からなんらかの干渉がされるのを避けたかった。


 里へは月に一度、社の状態に問題がないことを報告に行くことになっていた。


 最初の報告に行ったとき――お社は静謐ですと報告した――、フヨウは里長から、とくに問題はないようだからそのまま留守居役を続けるようにと言われ、少しばかりの穀物も持たされた。


 社に居続けて良いと言われたばかりか、そのための穀物までもらえたことを、心からありがたいと思った。


 もともとお社の神官に妖退治の謝礼として渡していた食料や着物は、都から派遣されてきた近くの里の符術師ふじゅつしにお支払いするようになっていた。なにせフヨウには、アララギや老神官が退治していたような、明確な姿形と害意をもって襲いかかってくる妖を相手取ることはできなかったから。幸い、里の周辺に出るそういった妖は都から来た老符術師が退治してくれていたし、そもそも、辺り一帯の妖はアララギが根絶してしまったのではないかというくらい、妖被害は少なくなっていた。


 だから本当に、社でのフヨウの生活は静謐で、平穏で、満ち足りていた。


 ここへ来て初めて、フヨウをここまで生かしてくれたすべてと、今もフヨウを生かしてくれているすべてにありがたいと思った。そんな感謝を抱きながら日々掃除をして過ごすことで、少しましなものになれた気がした。自分が生きていることを自分で許せる気がした。


 何よりも、いつでも桜を見ることができるというのが、フヨウにとって一番の幸せだった。


 いつになっても散ることのない、満開のままの桜。


 普通でないのはわかっていた。けれどその危うさがよけいに、フヨウの心を惹きつけていた。


 そして、フヨウの存在が害にならないと判断したのか、それともたんに、気にしないことに決めたのか。

 最初に一度現れたきり、気配も見せなかった桜の木精は、フヨウが二度目の里への報告を終える頃には、また姿を見せるようになった。と言っても、何か話しかけてくるわけではなく、ただじっと、真っ黒に炭化した御神木様おみきさまの骸を見つめているのだった。


 そんな桜の木精を、掃除の合間に、虫干しの合間に、フヨウはこっそり見守っていた。


 冬の寒さも底にきていた、ある夜のこと。


 社務所の灯りはとうに落としていたけれど、降り積もった雪と満開の桜が月光を吸って輝いているために、境内は白々と明るかった。


 そして桜の木精は、やはり御神木の骸の前に、幻のようにたたずんでいた。白い光に照らされたその横顔で、若葉色の瞳がうずみ火のように、ゆらゆらと揺れていた。


 静謐でさびしくて、美しい光景だった。


 ふいにぱちりと、視線が合った。


 残されていた昔の衣でこんもり着膨れした状態で社務所の戸口に立っていたフヨウは、内心で驚いた。初対面のあれ以来、桜がフヨウに関心を向けることはなかったから。


 とっさに一礼したフヨウに、桜は何も言わなかった。けれど消えていくこともなく、一瞬、かすかに呆れたような表情を浮かべたかに見えた。

 そのまま御神木の骸に視線を戻すのだろうというフヨウの予想を裏切って、桜はじっとフヨウを見たまま、口を開いた。


「――よく持つね。蝕まれて弱ると思っていたけれど」


 そう言って桜が視線を流した先を、フヨウも見た。


 雪が覆った玉砂利に、重なる心象の黒い沼。ときおりぴちゃん、と水音を立てるその水面下を行き過ぎる、蛇のような暗い影。意識を向けていたせいか、ふわり沼から立ちのぼってくすぐるように寄ってきた、薄黒い靄を抱いて散らした。


「わたしはもともと、普通の人にはなんてことのないはずの刺激ですぐに弱っていたので、大差ありません」


 ああ、と桜がつぶやいた。


「おまえもやっぱりそうなのか。つくづくこの社はそういうものに縁がある」

「そう、とは?」

「やたらとさとい感覚があるのでしょう」


 フヨウがひとつうなずけば、桜は、黒い水面を見たまま続けた。


「それは群れを危険から遠ざけるための感覚だ。敏い感覚を駆使すれば、空気や匂いや音や気配、肌に感じる刺激の具合で、遠い場所や見えない場所の危険も察知することができる。昔々の人の群れは、そういう者の感覚を頼りに危険を避けて生き延びていた」


 はらりはらり。再び舞いはじめた雪のように、桜のつむいだその言葉は、音なくフヨウの心に積もった。


 自分自身の存在が、初めて腑に落ちた気がした。生まれ損ないではないのだと、そう肯定された気がした。たとえ今の世において、フヨウが持つような敏い感覚はまるきり無用の長物で、役立たずなのは変わらないとしても。肌に感じる空気は変わらず凍えるように寒いのに、ずっと胸に空いていた風穴が塞がったような心地だった。


「少数派だけど、そこまで珍しいわけでもないよ。実際、ここの神官は代々皆そうだ」

「……前の宮司様も、ですか?」


 なんの関わりもない小娘であったフヨウにも慈しみの目を向けてくれた、老神官を思い出して、フヨウは尋ねた。内心では、そしてアララギも、と思ったけれど、それは口にしなかった。なんとなく、この桜の精の前で、その名は禁句である気がしていた。


「そう。無駄に敏いものだから、自分が感じる物事が世のすべてだと悲観して、みずから苦境に落ちていく――そんな連中が多い中、あれは珍しく平穏に、長く生きたほうだったよ。それでも最期は自己犠牲をこじらせて、拾った後継が育たぬうちに、みずからを使い潰してしまったけれど」


 難儀な生き物だ、と。御神木の骸を向いてつぶやいた、桜の木精のまなざしは、今とは違う、いつかを見ていた。


「……敵意や悪意に敏いくせ、好意の深さに気づかないんだから」


 はらりはらりと、雪が降る。真っ黒に炭化した、御神木の骸の枝にも、また新しく降り積もる。


 独白を最後に口を閉ざした桜のそばで、フヨウも黙って、雪と月と桜が彩る、さびしい夜を眺めていた。




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