灰の社と桜の精

 御神木様おみきさまが燃えたあと、里には妖が増えた。それらはすべてアララギによって平らげられていたのだけれど、そんな日々がしばらく続いたある日、都主みやこぬしの使いがアララギをつれていってしまった。

 おやしろは、神官を失い、空っぽになった。


 けれどアララギが神官の座を退いたわけではなかったから、里長さとおさにもどうしていいかわからない様子だった。ただでさえ、原因不明の炎によって御神木様だけが燃えてしまったお社だ。触らぬ神に祟りなし、このままで支障がないようなら触れたくないという気持ちが滲み出ていた。


 アララギのかわりにと、都からは老いた符術師ふじゅつしが近くの里に遣わされてきた。フヨウの里も含めたいくつかの里の、妖退治を担ってくれるということだった。けれどその符術師も、里長がそれとなく頼んだものの、里の守りで手一杯だということで、お社の様子は見に行きたがらなかった。


 しかし、このまま放っておいて良いものか。御神木様も神官もいなくなったお社に、妖がみ着いたりしたら。そうしてお社を穢された障りが、里に降りかかってきたりしたら――。そんなふうに、深刻な顔を突き合わせている里長たちに向けて、フヨウは、


「わたしが行きます」


 そう手を挙げた。里長含めた大人たちの、何を莫迦な、と言いたげな視線を受けて、それが声として発せられる前に、続けた。


「ちゃんとお社まで辿り着けたなら、留守居役るすいやくをさせてください」


 アララギがかなり退治してくれたおかげで、妖は、一時よりずいぶん減っていた。だけれどそれは里の周辺に限った話で、お社までの山道には、まだまだたくさんの妖が出ると言われていた。


「……いいだろう」


 何事か思案していた様子の里長が、うなずいた。


「前の宮司様が預かってくださるはずだった子だ。お社にも支障はないはずだ」


 何か言いたげな大人もいたが、里長がきっぱりそう言い切ってしまえば、反対意見は出されなかった。

 深々と一礼したフヨウは、このとき、十二になっていた。


   ◇


 紅葉もほとんど残っていない、冬枯れの山道を歩いていった。


 途中から勾配がきつくなる曲がりくねったその山道に、攻撃的な妖は出なかった。

 左右の藪の隙間から無数の目がこちらを窺っていたが、フヨウが視線を向けなければ何も仕掛けてこなかった。途中数回、蛇のような黒い影が足首に絡みついてきたりはしたが、フヨウが落ち着いて息を吐き出せば素直にするするとほどけて、脇の草叢くさむらへ戻っていった。


 そうしてとうとう向かう先に石の鳥居が見えてきたところで、フヨウは小さく息を呑んだ。


 桜の森は、健在だった。焼けた様子もなく、無事であったことにほっとした。けれど。


 道中の山桜はとっくに葉を落とし、次の春に備えていたのに。社を囲む桜の森は、満開のままだった。

 くすんだ色の雲が垂れ込めた、もうすぐ初雪の舞いそうな寒さの中、淡紅の花をいっぱいにつけたまま、凛然と咲き誇っていた。


 その姿に、なぜだか胸を締め付けられた。


 灰白色の石鳥居の前で、フヨウは静かに足を止めた。


 御神木様おみきさまは騒がしいのがお好きでないから、お社の境内には、よほどのことがないかぎり、里長と神官しか入れないと言われていた。

 けれどフヨウは、一目見たあの夜から、騒がしいのがお好きでないのは、桜の森のほうなのではないかと思っていた。

 闇夜に白々と照り映えていた桜の森。境内を囲い、御神木様を守るように立ち並んでいたあの桜こそ、余所者を寄せ付けない、孤高の気を放っていた。

 そんなことを思い出しながら、フヨウは鳥居の前で深く一礼した。


 顔を上げ、改めて見つめた鳥居の向こうは、前に一度だけ遠目に窺ったときとは様変わりしていた。

 いや、今まで薄皮一枚隔てて地中に押し込められていたものが、一気に表出していたと言うべきか。

 フヨウには現実の境内の、白い玉砂利の地面に重なって、とぷり、とぷりと波打つ、心象の黒い水面が見えた。水面の下には蛇のような黒い影がいくつも動いていて、表面には薄黒いもやがたゆたっていた。よどんだ水の臭いがしっとりと鼻先について、山道で出くわした黒い影は、ここから出てきたのかもしれないと思った。


 ひとつ呼吸を整えて、鳥居をくぐろうとしたそのとき、ざあっと風が吹き寄せて、吹雪のように桜が舞った。

 その桜吹雪から抜け出るようにして、桜色の長い髪と墨染めの衣を風に揺らす、ひとりの青年が現れた。


 陽光に透ける若葉のような色の双眸をすうっと細めたその青年からは、桜の森と同じ気配がした。彼は何も言わなかったが、その双眸には、神官でも里長でもないのに境内に立ち入ろうとするフヨウへの明白な警戒が見て取れた。だから、


「留守居役として参りました、フヨウと申します。叶いますならば、しばしの逗留とうりゅうをお許しいただきたく」


 道中でり上げた口上そのままに、そう頭を垂れたフヨウに対して、


「――おまえ、見えているでしょう」


 冴え冴えとした声がかかった。あの夜にまばゆく映えていた、桜の印象そのままの声だった。まさか話しかけられるとは思っていなかったので驚きながら、フヨウはそろりと視線を上げた。


「……おっしゃっているのが黒い沼や、黒い靄のことでしたら」

「なのにわざわざ踏み入ろうと?」

「はい。神官が不在で、お社の手入れをする者がおりませんので。留守居役として、掃除をさせていただきたいのです」


 桜がひたりと、フヨウを見据えた。フヨウも黙って、にかざした若葉を思わす色合いの瞳を見つめ返した。透き通るようなその双眸に自分の姿が映っているのが、なんとも不思議な気分だった。


 やがてひとつ、その双眸がまたたいたと思うと、桜の木精はふっと消え失せた。


 ほっと詰めていた息を吐けば、今さらながらに緊張していたのだと思い知った。見逃されたのか許容されたのか。どちらにしても受け入れられたらしいと悟って、湧き上がった安堵と嬉しさを抑え込むように、フヨウはもう一度一礼した。それから、できるかぎり端を通って、鳥居の下をくぐり抜けた。


 とたん、白い玉砂利の地面に重なり合って存在している、多くの人には見えないのだろう黒い沼の水面から、薄黒い靄がいくつもの手のようにフヨウに伸びてきたけれど、意識して呼吸を深くすれば、たちまちのうちに霧散した。


 境内は、ときたま黒い水面が、魚の跳ねるような水音をかすかに立てるよりほかは、しんと静まりかえっていた。響くのはフヨウが玉砂利を踏む音だけで、その音も、ひやりと冷えて湿った空気に染み入っていくようだった。


 桜の森の陰になっている、小さな社務所の前まで進んで、改めてフヨウは、桜を見上げた。

 無意識に、唇が弧を描いた。




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