契機

 それからのフヨウは、見えなくなってしまわないよう、いっそう、いろいろなものを見ようとした。

 家の中でつくろい物をするときは、部屋の隅の暗がりに、外で洗い物をするときは、光届かぬ木の陰に、たびたび目をらしては、この世ならざる気配を探していた。


 そしてある夜、ふと、おやしろはどんなところなのだろうと思った。一度気になりはじめるといてもたってもいられなくなって、こっそり家を抜け出した。そのまま暗い山道を登り、お社を見に行った。


 あんなふうに行動したのは、初めてのことだった。まるで何かに導かれるように、あるいは引き寄せられるように、フヨウはひとり闇の中、途中から勾配がきつくなる曲がりくねった山道をするすると登っていった。道の脇に、光虫か、それとも鬼火か人魂か、ぼうっと淡く青い光を放っているものたちがいたから、夜道は苦にならなかった。


 ――あれから幾度となく同じ山道を行き来したけれど、あの夜ほど苦もなく登れたことはない。フヨウにとっては人の行き交う道を歩くより人気のない山道を歩く方が、受け取る情報量が少ないために消耗もしにくいのだけれど、それにしたって、寝付いてばかりの子どもの足に易しい道のりではないのだ。きっとあの夜は何かに導かれていたと、フヨウは今でも信じている。


 そんな道のりの果てに、石造りの鳥居が見えた。


 そしてその、鳥居の向こうに広がっていたのは、闇夜に白々と映える、満開の桜の森だった。月光を受けて神々しく輝くその桜に、胸をかれて立ちすくんだ。


 それまで見てきたすべての中で、いちばん美しいと思った。この光景を見られただけで、生まれてきて良かったと思えた。知らず、ぽろりと、頬を雫が伝っていった。


 境内に入ることはしなかった。桜の森の全容が見える、鳥居までもまだ少し距離のある山道で、空が白みはじめてくるまで、じっと立ちつくしていた。


 それからのフヨウはいっそう、絶対にあのお社に引き取ってもらうのだと、見える力をなくさずにいようと、思う気持ちを強くした。

 けれど、そんなある日。

 老神官が亡くなり、養い子――アララギが後を継いだと聞いた。


   ◇


 アララギが強くなって、里は手のひらを返した。

 里長さとおさがアララギに薦めた花嫁候補の中に、フヨウは入っていなかった。

 フヨウは、子を産めないと思われていたからだ。

 アララギの力はもう、里に必要だった。

 不要と不要は釣り合うが、必要と不要は釣り合わない。そういうことだった。

 もっともアララギは、薦められたどの花嫁も断ってしまったのだけれど。

 だからフヨウは、お社をあきらめきれなかった。


 そもそもフヨウは、顔も知らないアララギの妻になりたいわけではなかった。ただひたすら、あの桜が見える場所に行きたかった。


 どうすれば行けるようになるだろうかと、考えた。


 こんなフヨウのままでも迎えてくれると言った老神官は亡くなってしまった。ならもっと、フヨウにしかなくて、お社に迎えられるにふさわしい価値を示さなくてはならない。


 思いつくのはやはり、人に見えないものが見えることだけだった。

 けれど見えるだけならば、今までと同じ、「気狂い」扱いのままだ。

 それでも、見える力さえ失えば、自分には本当に、なんにもなくなってしまう。そう思ったから躍起になって、毎日毎日、目を凝らし耳を澄まし続けた。


 そうして時だけが過ぎていった、晩秋の黄昏時のことだった。

 濃くなる夕闇にまぎれるようにして、赤黒く濃いもやの塊が、里のはずれの木陰にうずくまっていた。それまでならば本能的に、「意識を向けてはいけない」と目を逸らしてきた類の存在だった。けれどそのときのフヨウは、とっさに目を凝らしてしまった。


 赤黒い靄の内に隠れた、よどんだ瞳と、目が合った。


 とたん、汚泥のように重苦しい気配が、正面からフヨウに覆い被さってきた。深い泥沼に沈んだように息が詰まり、かかった重みに耐えきれず、膝から地面にくずおれた。空気を求めて開けた口から、どろどろと澱みが入り込んできた。


 取られる、と、反射で悟った。身体を、取られる。


 それもいいかな、という思いが、口から次々流れ込んでくる汚泥の澱みに息もできない苦悶の中で、ちらりと過ぎった。

 フヨウ自身すら持て余しているこの身体を、欲しいものがいるのなら、もうくれてやってもいいかもしれない、と。


 けれどその瞬間あの夜の、桜の森を思い出した。

 ――美しいと胸をかれ、生まれてきて良かったと思ったことを、思い出した。


 意識を覆っていた泥沼に、風が吹き込んだようだった。フヨウはとっさに、息を吐いた。身体の内に入り込んだ澱みを残らず吐き出すように、強く、深く。


 少しずつ、意識の靄が晴れていった。指先から、体温と感覚が戻ってきた。


 吐いて、吐いて、少し吸ってはまた吐いて、を繰り返した。自分の胸や腹の中を空気がゆっくり出入りする、その感覚だけに意識を集中させた。


 ひとつ吐き出すそのたびに、フヨウの身体を侵蝕していた泥のようなものが出て行った。ひとつ吸い込むそれごとに、意識が鮮明になっていった。

 ようやっと、すべての泥を吐ききって、全身の感覚を取り戻したときには、陽はとっぷりと暮れていた。


 呼吸に伴い膨らんではしぼむ、自分の胸に手を当てた。

 静かに、けれどたしかに、止まることなく呼吸を続ける己の身体が、悲しいような愛おしいような、不思議な心地だった。


 そっと窺った先の木陰に、赤黒い靄はいなくなっていた。ただ晩秋の夜の風が吹いていくだけのそこを見て、何かを掴んだような気がした。


   ◇


 それからのフヨウの毎日は、それまでより少しだけましになった。

 光も音も人の感情も、鮮烈で苛烈に感じるのは変わらなかったけれど、そうしてうっかり「くっつけて」しまったものへの対処は覚えた。


 他者の感情も自分のもののように感じ取れてしまう性質に、フヨウはずっと翻弄されてきた。他者のくくりの中にはときに、生き霊や死霊と呼ばれる類のものも含まれていて、そういったものと同調してくっつかれてしまうたび、目眩や吐き気や高熱に襲われ寝込む毎日だったのだ。


 しかし、赤黒い靄の一件をきっかけに、自分の身体の内側を巡る空気の動きだけに集中し、ゆっくりと呼吸を繰り返せば、くっつけてしまったものを流せることに気がついた。これを自分自身だけでなく他人にも応用できるようになれば、お祓いもどきができるのではないか、そうしたらお社にとって価値のある人間になれるのではないか――そう考えていた矢先。


 御神木様おみきさまが燃えた。


 白い月の夜だった。山の上、お社のほうから、煙が上がるのが見えた。

 山にいる、形なきものたちのざわめきが風を伝って里にも届き、夜気を小刻みに震わせていた。


 桜は大丈夫だろうか。


 思いを馳せれば、だれかの慟哭が聞こえた気がした。




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