冬月に暴かれ

 しゅるしゅると、まさしく地を這う蛇のような動きで、垂らされた四方のとばりの下から、幾筋もの黒い蛇もどきが入り込んできた。影のような蛇たちは珠のそばまで来ると、鎌首をもたげるように立ちあがり、夜着に包まれた珠の腕に、腹に、首筋に、次々絡みついていった。


 恐ろしかった。普段の珠なら悲鳴をあげていただろう。けれど、これはアララギに会うためなのだと、アララギを絡繰灯龍からくりどうろうから取り戻すためなのだと思うと、恐怖以上の高揚があった。


 そして気がつけば、珠は、夜着に裸足のままで、夜陰の中を飛んでいた。まわりの景色がすさまじい勢いで、横薙ぎに通りすぎていく。馬に乗ったことはないけれど、きっと馬よりずっと速く、進んでいるに違いなかった。


 向かう先にぼうやりと、朱金の色が見えてきた。近づくにつれてその正体が、燃えさかる草地だとわかった。一面の炎の海の中、凛と立つ白狩衣の、細い背中に目が留まった。


(アララギ……!)


 そしてその、さらに向こう、白狩衣のアララギと相対する位置に。

 きな臭く煙る闇空に、暗紅色のその巨躯をぼうと明るく浮かび上がらせる、龍の姿の大妖がいた。


(……あれが、絡繰灯龍からくりどうろう


 動きを止め、見つめる珠の目の前で、絡繰灯龍が火を吐いて、アララギが真白の呪符を放った。

 紅蓮の炎の塊と、真白の呪符がぶつかって、競り合い、圧し合い、相殺されて砕け散った。朱金の火花がちらちらと舞って、押し寄せた風圧で、アララギの髪が、袖が、ひるがえった。息つくまもなく、新たな呪符が三枚、矢のように絡繰灯龍へ向かうが、続けざまに吐かれた炎がそれらをすべて受け止めた。


 戦いだ。そうであるはずなのに。

 その応酬はまるで交歓のように、珠には思えた。


 めらめら燃え立つ炎の明かりに、アララギの顔が照らされていた。きんいろの双眸が、珠の見たこともないあざやかさで燃えていた。

 ぎらぎら輝くその瞳は、まっすぐ絡繰灯龍に向いていた。貫くように鮮烈な視線が、まっすぐ絡繰灯龍を見ていた。

 決して珠を見ない瞳が、敵であるはずの妖には注がれていた。


 ――どろりと、胸の中が、煮込まれるような心地がした。


 その心地のまま珠は、業火と呪符が交錯する、戦いの場へと飛び出した。


「アララギ!」


 声高にその名を呼びながら、アララギへ吐かれた炎の前へと身を投じた。こちらへ視線を向けたアララギが、きんいろの目を見開いた。


「なぜ――」


 とてもいい気分だった。燃えるような輝きの余韻を残したままに、きんいろの目が珠を凝視していた。高揚のまま、珠はその、白い狩衣に抱きついた。その瞬間の珠は、絡繰灯龍のことなど、すっかり頭から飛んでいた。


 アララギが、珠から目を離さぬまま、新たな呪符を引き抜いた。

 そのとき、腹の底から震わす地鳴りのような、咆哮がとどろいた。


 絡繰灯龍が、吠えていた。それまでの、たんなる鳴き声とは違う。珠にはわかった。――アララギの注意を奪われたことに怒って、吠えていた。


 怒り狂ったように、方々へ業火を吐き散らす炎の大妖を横目に見ながら、珠は、じわじわと己の口角が上がるのを感じた。


(わたくしの勝ちよ)


 荒れ狂う炎は渦を巻き、あちらこちらで火柱があがった。

 アララギが鋭く舌打ちをして、珠を後ろへ追いやった。そして、錯乱したかのような絡繰灯龍へ、まっすぐに向かっていってしまった。


「待って、アララギ!」


 その白い背中は瞬く間に、炎と黒煙に呑まれて見えなくなった。


「アララギ! 戻って、アララギ!」


 炎の爆ぜる音だけが何度も聞こえて、そして。


 雷鳴のような断末魔が、闇を裂いた。


   ◇


 目が覚めると、寝床の中だった。

 夢だったのだろうか。……だとすれば、どこからが?

 ぼんやりと、明るい天井を眺めていれば、ふっと、なじみの侍女の顔が、視界の中に入ってきた。


「姫様! お気がつかれましたか」

「……わたくしは」


 出した声はひどくかすれていて、起きあがろうとすれば、身体がひどく重だるかった。


「ああ、そんな急に動かれてはなりません。ひどいお熱で、七日も眠っておられたのですよ。辛うじて薬湯は飲んでいただけていたものの、これ以上続くようであればと――だれか薬師を! 大臣おとどと御方様にもお知らせを!」


 はい、とこたえがあって、遠ざかっていくいくつもの足音が聞こえた。何人もの侍女が、そばに詰めていたらしかった。


 まだぼんやりした心地のままで、珠は尋ねた。


「……いつから、七日?」

「姫様が、夜にお部屋を出られた日からでございます。明くる朝になってお声をかけたときにはもう、たいへんな高熱で――思えば前の日の晩に夜風に当たりたいとおっしゃったときはもう、お熱がおありだったのだろう、あのとき気づいていてやれればと、大臣はひどく悔いておいででした」

「……そう。……アララギは?」

「絡繰灯龍を倒したとの知らせ以降、ずっとお屋敷には参っておりません。さすがの大臣も、今は――」


 今度こそ、珠は寝床から起きあがった。姫様、とあわてたように押しとどめてくる侍女の手を、逆に掴んだ。


「絡繰灯龍を、倒した?」

「さようでございます。姫様が寝込んでおられた間の出来事でございますが――アララギ殿が戻られて、都主様に、絡繰灯龍を倒したと報告をされました。符術師寮の皆様は最初疑っておいででしたが、まわりの里からも絡繰灯龍が千々に砕け散ったのを見たという知らせがいくつも上がってまいりまして。どうやら本当であるらしいと、言われているところです」


 ――まだ、足りない。

 それだけではわからない。自分があの場にいたのは夢だったのか、うつつだったのか。

 けれど、七日寝ついていたという身体は思いのほか弱っていたらしく、珠はまたそのまま、意識を落としてしまった。


   ◇


 珠の床上げが済んだのは、それから一月も後のことだった。

 本当はそれよりずいぶん前に良くなっていたのだけれど、父と母が、無理はならぬと、頑なに許してくれなかったのだ。

 珠が寝ついている間に、絡繰灯龍がアララギによって討伐されたという話は、真実と認められたらしかった。それに伴う、アララギのまわりの祝賀と喧噪も、時とともにしだいに収まり、ちらちらと小雪が舞いはじめる頃には、アララギは再び、珠の部屋の縁に侍るようになっていた。

 やってきたアララギを、珠はそわそわと出迎えた。


「ねえアララギ。絡繰灯龍と戦っているときに、わたくしの姿を見た?」


 アララギの姿を見るや、珠はそう尋ねた。けれど返ってきたのは、いいえ、という短い一言だけだった。


「でも、わたくし、あなたのところへ行ったのよ。絡繰灯龍と戦っていた、あなたのところへ!」

「夢でもご覧になったのでしょう」


 それだけ。それきりで、あの夜の話はなかったことになった。

 そして、絡繰灯龍はいなくなったけれど、そのかわりにアララギが、珠に目を向けるようになることもなかった。

 むしろ前にも増して、アララギは抜け殻のようになった。ぼうっと、どこでもない宙を見ている時間が増えた。珠の笑顔も言葉も、変わらず通らないままだった。


(絡繰灯龍は、いなくなったのに)


 アララギの心のほとんどを占めていただろう絡繰灯龍は消えたのに、アララギは、やはり珠を見ないまま。


(どうしたら。この上どうしたらいいのだろう)


 どうしたら、アララギは珠を見てくれるのだろう。

 いっそ絡繰灯龍のような、強く恐ろしい妖になれば、アララギは珠を見るのだろうか。

 浮かんだその考えにぎょっとして、


(……もしも。もしもそうであるのなら、わたくしは――)


   ◇


 氷のように冷えた月が、冴え冴えと地を照らしていた。

 几帳きちょうを派手に押し倒して、一体の妖が、財を誇示する屋敷の縁から中庭へと躍り出た。白い単衣ひとえと紅袴に、濃黄の衣と濃紅の表衣うわぎを紅葉のように重ね着た、流れる長い黒髪の妖。それがまとう赤黒い瘴気しょうきに、かけつけた符術師たちが息を呑んだ。


 ひとり、顔色ひとつ変えず、呪符を放ったアララギに向けて、壮年の男の悲鳴が飛んだ。


「殺すな、アララギ!」


 転がるようにかけてきたのは、符術師や衛士の奥で守られていたはずの、その屋敷の主だった。


「あれは――あれは珠だ!」


 ざわりと、場がざわめいた。それにかまわず、屋敷の主たる、花の大臣は言い放った。


「珠は――娘は、おまえのために妖になったのだ!」


 けれどそのときにはもう、真白の呪符は風を切って飛んでいた。


 妖が千々に砕け散る。


 屋敷の主の、絶叫が響いた。







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