秋の夜の密約
いつしか、山が紅く染まる季節になっていた。
(わたくしがどんなに笑顔と言葉を尽くしても、瞳を揺らしもしないアララギを、名前ひとつで高揚させる絡繰灯龍)
珠は、その恐ろしいはずの大妖に嫉妬した。
(わたくしの、笑顔も言葉も通らないのに)
絡繰灯龍はどうやって、アララギの気を引いているというのだろう。
「……いいわね、絡繰灯龍は」
母が聞いたら卒倒するだろう言葉を、珠はぽつりと、
◇
絡繰灯龍が出たという報が入ると、アララギはひとり、馬に乗って駆けていってしまう。そうして、だれも交えず一対一で、絡繰灯龍と戦っているという。
いったいそこでは、どんな応酬がなされているのか。アララギと絡繰灯龍の戦いの場面を見てみたいと思った。
けれども、さすがにこれは、父にねだるわけにはいかなかった。いくら父が珠に甘くても――甘いからこそ、許してくれるはずがなかった。
母にも、兄たちにも、同じ理由でお願いできない。
だから、使用人に頼もうとした。こっそり馬に乗せて、絡繰灯龍の見物につれていってほしい、と。
アララギと絡繰灯龍の戦いを見たいのだとは言わなかった。無垢で無知で、好奇心だけは人一倍の箱入り娘が、悪名高い絡繰灯龍を一目見たいと願っている――そんな
けれど、使用人たちは皆厳しい顔で、あるいは蒼白になって、首を横に振った。今までならば、花のように笑ってさえいれば、みんななんだって叶えてくれたのに。
「どうして? どうしてだめなの、どうしてそんな顔をするの。ねえわたくし、きちんと笑えていない?」
「とんでもないことでございます。
「だから内緒で行きたいの。遠くから、一目見るだけでいいのよ。一目見たら、もうまっすぐお屋敷に戻っていいの。だから、ねえお願い」
「なりません、どうかお許しを。姫様の御身の安全が第一でございます」
だれもかれもそんなふうに、珠を危険に晒せないと言うばかりで、珠の願いを叶えてくれようとはしなかった。そしてまた、アララギはある日の黄昏時に、絡繰灯龍のもとへと馬を駆っていってしまった。だから珠はその晩、部屋を抜け出して、厩を目指した。
でも、母屋からも出ないうちに、使用人に見つかった。泣き落として見逃させようとしたけれど、そうしているうちにほかの者が、父に知らせてしまっていた。
夜風に当たりたかっただけなの、騒がせてごめんなさい、とうつむけば、珠にお咎めはなかった。ゆっくりお休み、と諭されて、珠は侍女たちに囲まれ、部屋まで送り届けられた。
神経が過敏になっているのか、部屋の外をたくさんの侍女が固めているのが、四方に
そのときだった。
しゅるり、と。衣擦れに似た音を立てて、帳と床の隙間から、ひとすじの影が寝床にすべり込んできた。
それは蛇によく似た形で、元は透明だったのがひどく汚れて濁ったような、どす黒い色をしていた。
――何が欲しいの、珠の姫。
木の葉がこすれるような音で、その蛇もどきはそう言った。
ひっ、と短い悲鳴が漏れた。すぐ外にいるであろう、侍女たちを呼ぼうとして――はたと、珠は口を閉ざした。
そしてじっと、影のような蛇を見つめた。
「……言えば、叶えてくれるの?」
影のような蛇は短く答えた。
――欲しいのならば、叶えてあげよう。
「なんでも?」
――なんでも。
そう、と珠はつぶやいた。
「……アララギのところへ行きたいの。アララギと絡繰灯龍が戦っている場所に、わたくしも行きたい」
――叶えてあげよう。
「ほんとう?」
――ほんとうだ。そのかわり、珠の姫。あなたも我らを助けてほしい。
「……何をすればいいの?」
――絡繰灯龍を倒すため、その身を貸してはくれないか。
「……え?」
思いもよらぬ申し出だった。驚き目を
――かの妖は、姫の愛しいアララギを、脅かす存在なのだろう?
「それは……」
花の大臣の姫君が蛇の目の符術師に執心だというのは、もはや都の貴族の間では知らぬ者のない話となっていたから、得体の知れない影にまで知られているということに、そう驚きはしなかった。ただ、絡繰灯龍がアララギを脅かす存在であるというのは、どうにもしっくり来なかった。むしろ絡繰灯龍は、珠にとっての脅威だ。
珠のどんな綺麗に装った笑顔も言葉も通らないのに、アララギは、恐ろしい妖であるはずの絡繰灯龍には心を向けるのだ。絡繰灯龍の報がもたらされるたび、アララギは突然生気を取り戻したようになって、珠のもとから去ってしまう。
……もし、そんな絡繰灯龍が、アララギ以外に倒されたなら。それをなしたのが、珠であったなら。
アララギは、珠を見てくれるだろうか。
そこまで考えて、おかしくなった。
「……まさかね。わたくしにそんなこと、できるはずがないわ」
――姫は何もしなくていい。我らに身体を貸してくれるだけで良い。
いかに世間知らずの珠でもわかった。こんなうまい話があるはずがない。
しかし、ためらう珠に畳みかけるように、黒い蛇は言った。
――我らは絡繰灯龍に、焼かれた無念のなれの果て。あの妖を倒したい思いは、都の人間と変わりはしない。どうか助けてくれまいか。姫の身体を焼かせはしないと、約束しよう。
「……無理、よ。外にはたくさん侍女がいて……こっそりこのお部屋を出ることはできないわ」
――心配ない。我らに任せてくれればよい。
「……それに、アララギが今、どこにいるのかわからないし……わたくしひとりじゃ、馬にも乗れない」
――必要ない。姫とアララギの間には、すでに縁ができている。姫の身体を借りられれば、あとは我らが縁を辿り、姫を、絡繰灯龍と戦っている、アララギのところまで運べる。
心が、揺れた。
――アララギとてひとりの人間。いつ絡繰灯龍に燃やされて、灰になるともわからない。それはもしかして今夜かもしれない。そうなれば、永遠に姫を振り返ることはなくなる。姫でなくて妖のものになってしまう。姫は、それでよいのか?
「……だめよ。そんなのだめ」
珠は、寝床の上で居住まいを正し、じっと影を見下ろした。
「いいわ。わたくしの身体を貸してあげる。――そのかわりきっとわたくしを、アララギのところへつれていって」
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