失意の夏
それから珠は、妖を恐れるふりをして、部屋の護衛にアララギをねだった。
そのおねだりは、都で一番の権勢を誇る父にすら、叶えるのが難しいものだったらしい。
ただ、そうでなくて都にいるときは、少しでも休ませようと、都主が心を砕いているようだった。あの花見の宴以来、珠に対する過保護に輪をかけた父はそこに機会を見いだして、都主に頼みこみ、幾度となく、アララギを珠の護衛として、居室の外に控えさせてくれるようになった。
――娘がまたあのような悪しきモノに狙われるのではと思うと、生きた心地がいたしません。しかしアララギであれば、あの程度、赤子の手をひねるようなもの、休息を損なうほどのことでもないでしょう。であれば都での休息の間、我が屋敷に来てはもらえませんか。都主様が表立ってあれをかまわれればあれはますます他の符術師たちから孤立しましょうが、我が屋敷であればそのような目もない。寮に閉じこもっているよりよほど、休息に良い環境を整えると、お約束いたします――。
父のそんな説得に、渋っていた都主が折れたのだ。
アララギは、今まで珠のまわりにいなかった種類の人間だった。
珠はもともと、新しいお客様や知らない人に会うのが好きだった。そうしてその人たちがみんな、珠を好きになっていく様子が好きだった。
けれど。身近になったアララギに、珠が何度笑いかけても、幾度言葉をかけようと。
アララギが珠を見るまなざしに、それまでのほかの皆のような、愛おしげな色がのることはなかった。
笑顔も言葉も通らない。それは珠にとって、生まれてはじめての経験で。
今日もだめ、今日もだめ、と繰り返されるたびに。
その失望はゆっくりと、けれどたしかに、珠の中に積もっていった。
◇
たくさんの話し相手もすべて遠ざけて、アララギの気を引こうと躍起になっているうちに、春は終わり、いつしか夏も盛りになっていた。
母が、アララギを屋敷へ呼ぶのを渋るようになった。
口さがないどこかのだれかが、母に告げ口したらしい。アララギは妖と取引をしたのだと。妖との取引の結果、人ならざる力を手にしたのだと。
そんな者をお屋敷に招かれるなどと、いずれ災禍を呼びましょう――。そのだれかはそんなふうに話を締めたらしかった。
もともと、アララギにあまり良い印象を抱いていなかった母に、その言葉は効いた。
「アララギに対する嫉妬だろう。困ったものだ」
そう言いながら、父の瞳の奥にも、かすかな不安がちらついていた。
「そうはおっしゃいますが、殿。この頃珠は食が細くなって。以前のように笑うことも少なくなりましたし……」
母がすがるように言いつのると、父は珠を見て、眉を下げた。
「……たしかに、少し痩せたようだ」
すうっと、夏の陽気に、背筋が冷える心地がした。
このままでは、アララギが屋敷に呼ばれなくなってしまう。そうなれば、珠がアララギに伸ばせる手はない。珠とアララギの繋がりはなくなって、アララギは珠のことなどたちまち忘れ去ってしまうだろう。
よけいなことをと、告げ口をしただれかに怒りが湧いた。はじめて覚えた怒りだった。
そのゆらめきを押しつぶして、珠は、ことさらおかしそうに、声をあげて笑ってみせた。
「アララギは、そのように怖がられてしまうほど強いということでしょう。頼もしいわ」
「……珠」
「あまりお食事が進まないのは、ほら、最近めっきり暑くなったでしょう? そのせいですの。慣れれば元に戻ります。ご心配をおかけしてごめんなさい、お母様」
「そう、それならすぐに薬師を呼び寄せましょう。……でもね、珠」
「でも、気持ちはとっても元気ですのよ。アララギが来てくれた日は、妖の悪夢に魘されることもありませんの。アララギをつけてくださってありがとうございます、お父様」
「……ああ」
笑顔でお礼を重ねれば、父も母も、言葉を呑み込んだ。だから珠は、さらに駄目を押した。
「大丈夫ですわ。お父様がアララギをお召しくださるおかげで、わたくしは妖を恐れることもなく、心安らかに暮らせているのです。ですからどうかこれからも、アララギをわたくしのそばに置いてくださいね?」
◇
どこかのだれかの陰口は、珠にとって邪魔なものでしかなかった。
けれど、もしかしたら少しでもアララギの表情を変えられるのではないかと思って、二日後、いつものように屋敷を訪れたアララギに、試してみることにした。
巻き上げられた
アララギはいつもの白い狩衣姿で、いつも通り珠の部屋の外、縁側に控えていた。
「ねえ、アララギ」
はい、と短く、彼は答えた。それだけだった。蛇の目と恐れられているらしい、瞳孔が縦に細長く伸びたきんいろの目は伏せられて、珠を窺う気配もない。夏になっても赤みひとつ差さない白い顔が、作り物のようだった。
いつもの通り何も変わらないその様子に心の中で歯噛みして、珠はにこりと、笑顔を作った。
「あなたは妖と取引をしたの?」
それまでの珠は、アララギ相手に限らず、だれかが不快を覚えるような言葉は決して口に出してこなかった。珠に好意を抱かせるような言動しかとってこなかった。
だけどこのときはもう、珠のこの言葉によってアララギが動揺しても、怒っても、なんでも良いと思った。アララギの感情を揺らせるのであればなんだって。
アララギは何も言わなかった。目を伏せた静かな表情に、白い狩衣の肩に指先に、さざ波ひとつ立たなかった。だから、珠はさらに言葉を重ねた。
「お母様に、そう言いつけた者がいるのですって。アララギは妖と取引をしたから、人ならざる力を手にして、こんなに強くなったんだって。お城の符術師たちも、アララギの使う術は正統でない、妖の術だと言っているそうよ。まともな人間が絡繰灯龍と一対一で戦って、五体満足でいるなんてありえない、って」
アララギはやっぱり黙っていたけれど、そのときはじめて、珠にはっきり意識を向けている気がした。たしかにちゃんと、珠の言葉を聞いている気がした。だから珠は舞い上がって、はしたなくも膝を乗り出して、続けた。
「そう思うのも無理はないわ。だって、前の都主様の代から五十年も都を守り続けてきた、都でいちばん高名だった熟練の符術師も、絡繰灯龍には傷ひとつつけられず敗れたんだもの。――やっぱり符術師たちの言うように、あなたは妖と取引をしたの? ねえ、もしそうだとして、わたくしはちっともかまわないの。ただあなたのことが知りたいだけ。だからわたくしに、あなたのことを教えてちょうだい? 嘘だったならそんな噂は掻き消すようにしてあげるし、本当なら守ってあげる」
……そう告げて微笑めば、
アララギの意識が、すっと珠からはずれたのがわかった。まるで、もう興味はなくなったというかのように。
「――申し訳ございません」
謝罪の形をとった言葉が、淡々とつむがれた。
「姫のお耳に入れられるような話は、持ち合わせておりません」
(……ああ)
――まただめだった。
失意を隠して、そう、と珠は微笑んだ。それがせめてもの
華やかな袖の中で、強く拳を握り込んだ。綺麗に切りそろえられているはずの爪が手のひらに食い込んで、鈍く痛んだ。
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