三  花笑みの姫

始まりの春

 いつだって、花のように笑っていた。

 そうすれば何もかもが、たまの望む通りになった。

 お父様もお母様も、歳の離れたお兄様たちも、話し相手の少女たちも、屋敷の使用人も、入れ替わり訪れる客人も、みんなみんな。珠の笑顔にほだされて、珠の願いを叶えてくれた。

 だから珠は幸せで、いつだって無邪気に笑っていて、まわりもそんな珠を見ては、愛おしそうに頬をゆるめた。

 そうしてずっといつまでも、幸せの連鎖が続いていくはずだった。

 ――あの日。絢爛優雅な花見の席に、妖がまぎれこむまでは。

 そこでかの人に救われて――かの人の、珠の笑顔を前にしてもまったく揺らぐことのない、冷えた瞳を見てしまうまでは。


   ◇


 青い香りの畳の上に、たくさんのあざやかな反物たんものが、波のように広がっていた。どれも春の色彩で、金糸と銀糸をふんだんに使い花や手鞠を織り出した、高価で華やかなものばかり。それらはすべて、都主みやこぬしによって開催される盛大な花見の宴のために、母が取り寄せたものだった。


「本当に、迷ってしまうわね」


 桜色と萌黄の反物を片手ずつに持ち、ためつすがめつしていた母が、悩ましげに吐息をこぼした。


「どれもあなたに似合うのだもの。これらを着て桜の下に出てごらんなさいな、皆、あなたを桜の神霊か、はたまた春に誘われた天女かと、思ってしまうに違いないわ」


 都主の花見の宴は、毎年、都中の主立った貴族たちで賑わう。花霞を背にいくつもの花見傘が立ち、色とりどりの装いの貴族、舞姫や楽師が入り乱れるさまは、絵巻の世界のようだった。


「おお、華やかだな」

「お父様」


 部屋をのぞきこんだ父大臣が、床いっぱいに広げられた色とりどりの反物を見て相好を崩した。


「迷っているのかね」


 ええ、と母がうなずけば、父は珠を見て、目を細めた。


「いくらでも、好きなように仕立てさせなさい。おまえならどれを着ても、桜が霞む美しさだろう」


 はいお父様、と珠は答えた。そうすれば父がさらに喜ぶと知っていた。


「そうね、まずは仕立てて、それから迷うのでも遅くないわ。……でも、あなた。大丈夫なのでしょうか」


 母がふとその白い顔を曇らせて、父に向き直った。父は眉を下げて、何がかね、と返した。


「昨年の、花見の宴が終わった頃から、急に妖が増えたでしょう。あの恐ろしい絡繰灯龍からくりどうろうは、山に押し返すことができているといいますけれど……この間など、また別の妖が、とうとう大橋を越えたそうではありませんか。嫌なこと」

「心配はいらんだろう。都主様の下には、アララギがおる。花見の宴のときには、アララギも警備に加えるそうだからな」


 父はことさら明るくそう言ったけれど、母は、さらにきゅっと眉をひそめた。


「……わたくしはあれも恐ろしいのですわ。冬をこごらせたようではありませんか。それにあの、恐ろしい目……! お花見の席に似つかわしくありません」

「外で言うのではないぞ。都主様はあれがたいそうお気に入りなのだから」


「――その方、きんいろの目をしていらっしゃるのでしょう?」


 父まで難しい顔になってしまったので、珠はそう声をかけた。珠が何も知らない顔で話に入れば、みんな、難しい顔をやめると知っていた。


「お友達が話していました。老練な符術師たちがだれも適わなかった絡繰灯龍を、たったひとりで退けているのですって。でもずいぶんと変わっていて、とっくに都主様直々の染色許可が出ているのに、いつまでも白い狩衣のままなのだとか」

「……そうだな。変わっている。だが腕はたしかだ、おまえは安心して、花見の宴を楽しむといい」


 父が再びにこやかに笑んで、手近な反物を示した。


「――ああ、この色も美しいな。きっと、おまえによく似合うことだろう」


   ◇


 ――そして迎えた、花見の宴。


 春の、淡い色合いの空の下、はらはらと雪のように、白い花びらが舞っていた。見渡すかぎりの桜色と、地に敷かれた緋毛氈、空にかかる紅の、花見傘があざやかだった。

 艶やかな朱色の杯にとぷりと揺れる甘酒と、黒塗りのお重に詰められた、花を模したかわいいお菓子。三番目の兄が奏でる笛の音色が、透き通って響いていた。きっとあのときあの空間が桃源郷だといわれたとして、否定できる者はいなかった。


 だけれどそんな平穏は、不意に無粋に引き裂かれた。


 どす黒い瘴気しょうきをまとった妖が、花見の席に入り込んだ。その場は、逃げまどう貴族たちで大混乱になった。杯は転がり、花見の重はひっくり返り、女人たちの幾人かは、悲鳴をあげて気を失った。


 仮にも都主の主催する花見の席だ、物々しさを感じさせないよう遠巻きにではあったけれど、警護の衛士はたくさんいた。父大臣が声をあげたら、こぞってすぐにかけつけた。

 符術師だって、かなりの数が控えていた。二番目の兄が右手を上げれば、すぐさま手に手に呪符を放った。

 けれどもそれらの行いは、入り込んだ妖の、悪意を煽っただけだった。


 ――「嗚呼、憎い、憎い」。


 その妖は、黒い瘴気に包まれて、輪郭も定かでないほどだった。それに珠は恐ろしくて、目を凝らすことなどできなかったから、その妖がどんな顔をしていたのかはわからない。けれどその妖は、ごうごうと渦巻く瘴気の中で、たしかに珠の父の真名を呼んだ。


 ――「儂を蹴落とし、この世の春を謳歌しておるな」。


 鳥の大臣おとど、とだれかがかすれた声で言った。


 ――「貴様の息の根を今すぐ止めてやっても良いが、それでは儂の気が晴れぬ。まずは」。


 そこで妖は珠を見た。ぞっと全身が総毛立った。


 ――「溺愛する掌中の珠が、醜く悶え苦しむ様を見るが良い!」


 そうして、膨れあがった真っ黒な瘴気の塊が、珠をめがけて襲いかかり、


 ――飛来した、たった一枚の符にはじかれて、砕け散った。




 恨みのこもった悲鳴をあげて、取り巻いていた瘴気ごと、その妖は消え去った。

 まだ何が起きたかわかっていないような周囲の中、いつのまにか珠の前にいたそのひとがゆるりと振り返った。そして珠をその目に映して、眉のひとつも動かさなかった。


 うなじで結わえたまっすぐな黒髪に、おそろしく白い顔。それから、不思議な瞳をしていた。きんいろと聞いていたけれど、そのときは光の加減か、飴色に見えた。縦に細長く裂けた瞳孔とあいまって、珍しい玉のようだった。


 胸の奥、心の臓が小さく音を立てた。


 装いだけを見るのなら、まわりの、着飾った貴公子たちのほうがよほど華やかだったけれど、飾り気のない白狩衣の彼から、珠は目を離せなかった。

 けれど、直後、珠をさらなる衝撃が襲った。


「危ないところを、ありがとう」


 珠が、跳ねた鼓動を押し隠し、そう微笑んでみせたのに。そのひとの、人形のように白いおもてには、なんの色も浮かばなかったのだ。


「いえ」


 しごく短く、それだけ言ってそのひとは、あっさり珠から視線をはずした。そして、父大臣と一言二言交わすと、おそれるように道を空けた人垣の向こうへ消えていった。

 ――実力はたしかだが、と、だれかが言った。


 ――「いつもながら、愛想のない」。

 ――「心がないのよ。理外の力を持ちすぎて、人としての情けが欠けておる」。


(……でも)


 たとえそういうひとであっても、珠には絆されるはずだった。そういうひとすらとろかして、微笑ませることができる、それが珠のはずだった。

 だから珠は、


「怪我はないか?」


 真っ青な顔でかけよってきて珠の両肩を支えた、父大臣に笑ってみせたのだ。


「大丈夫ですわ、先ほどの方が守ってくださいましたもの。……ねえお父様。あの方が、アララギ、なんですのよね?」




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