二  絡繰灯龍

好敵手

 その龍はもともと、たしかな自我を持ってはいなかった。

 深淵のように昏々こんこんと眠り、たまに目覚めては食事をし、また深い眠りにつく。その流れだけを昔から、絶やさず繰り返していた。


 あのときも、はじまり方は同じだった。断崖絶壁を幾層も重ねた岩山の、最深奥の洞穴で、龍は固くとぐろを巻いて、骸のように眠っていた。


 寝息も立てぬその鼻先に、冷たい風がしとりと触れた。遙か山の向こうから、細くひとすじ、龍のもとまで辿り着いたその風は、腐った水の臭いをはらんでいた。雑草ひとつ生えぬ岩山の、乾ききった洞穴に似つかわしくないその臭いは、またどこかで、龍の餌場が生まれたと告げていた。


 そして眠り込んでいた龍は、ゆっくりと、岩のようなまぶたを上げた。


 今回は根腐れしたような臭いだと、龍は思った。毎度龍の目覚めのきっかけとなる、腐ったような水の臭いは、その時々で微妙に様子が違う。


 もっとも、だからどうということもなかった。その臭いのもととなっている場所へ、龍は向かうだけだった。これまでずっとそうであったように。

 龍は、いわおを連ねたような胴を引きずって、ゆっくりと、臭いのほうへ移動をはじめた。


 臭いのもとで食事をしたら、またこの洞穴に戻って、眠りにつくつもりだった。これまでずっとそうしてきたように。

 けれど、龍が眠りについている間に、外はずいぶん変わっていた。




 これまでも、眠りから覚めて外に出るたび、外の様子は変わっていたが、それはゆるやかな変化だった。こうもはっきり変わったと、龍が感じたのははじめてだった。


 これまでは龍の通行を遠目に見ていただけだった人間が、龍に向かってくるようになっていた。わらわらと、龍の行く手に飛び出してきて、何やら細かい雑多なものを、いっせいに龍へと投げつけてきた。


 最初は、邪魔だとすら感じなかった。そもそもそんな抵抗で龍の動きを止められるはずがなかったし、龍がひとつ吐息をこぼせば、瞬きする間にすべてが消えた。そして龍は粛々と、腐った水の臭いを目指して、灰も残らぬ焼け野を進んでいった。


 龍が臭いのほうへ近づくごとに、どこからか湧いてくる人間の数も多くなった。じゅう、じゅう、と、熱した鉄のような腹で土を焼きつけながら進む、龍の移動はひどくゆっくりだったから、数多の人馬に取り囲まれることもままあった。


 だが、人や馬がどれだけ増えようと、龍には同じことだった。吐息とともに炎をこぼせば、皆消えた。今回の人間は執拗だなと、そうぼんやり感じはしたが、それだけだった。

 その繰り返しが途切れたのは、満天に星が瞬く夜のことだった。龍の行く手に現れて、紙切れを投げつけてきた人間は、


 ――炎を吐きかけても、消えなかった。


   ◇


 繰り返しが崩れた瞬間だった。

 霧がいっせいに晴れるように、龍の意識は覚醒した。


 深く、染み入るような花の香りがその人間を抱いていた。龍の目には、人間を包む淡紫の、花霞のような衣に阻まれて、己の吐いた炎の玉が砕け散ったのがはっきり見えた。

 そして直後、その人間が再び放った紙切れは、龍の体を傷つけた。


 何もかも初めてのことだった。


 驚きの醒めやらぬまま、龍は一度、洞穴に戻った。

 眠りにつくため以外の理由で、洞穴に戻ったのははじめてだった。仕切り直しをせねばと思った。

 巣穴に戻って落ち着いて、それから龍は改めて、水の臭いを目指して出立した。

 一度通った場所はもう、鼻をひくつかせながら進む必要はないから、今度は前より早く進めた。




 けれどそれから、人間たちが行く手にわらわらと現れるたび、龍は進みを止められることになった。止められるどころか、後退させられる羽目になった。

 人間すべてが強くなったわけではない。強いのは一匹だけだった。

 いつからかその一匹だけが、龍の前に立ちふさがるようになった。


 そいつはいつも白い紙切れを手にして、白い衣をまとっていた。

 紙切れなど、炎の前では真っ先に燃え尽きそうなものだ。けれど、白い衣のそいつが白い指先で放つ白い紙切れは、猛る炎を突っ切って飛んだ。やがてその紙切れは、龍の炎を食い止めるようになった。白い衣のそいつの背丈の、何倍もある炎の玉を、白いそいつの手のひらに収まる、小さな紙切れが食い止めた。


 これまでずっと、龍の前では、妖さえも道を空けた。龍の進みを止めることなど、何者にもかなわなかった。そんな龍の、初めての敵がアララギだった。単身、業火の前ではあまりに儚い、真っ白な紙の呪符だけを武器に、炎の大妖である絡繰灯龍からくりどうろうと死闘を繰り広げてみせる、わけのわからない人間だった。


 餌場へ向かう邪魔をする、アララギという存在に対して、龍は本来ならもっと、苛立ち怒るべきだった。けれども龍は、幾度となく己の前に現れては戦いを挑んでくるアララギの、炎の中、きんいろに輝く目でまっすぐ射すくめられるたび、不思議な充足を覚えていた。


 同時にずっと感じてもいた。「どうか己と戦い続けてくれ」という、アララギの、切なる願いを。決して口に出されることはなかったけれど、打ちつけられる符を通して、向けられる瞳を通して、その思いはありありと伝わってきた。


 ――「どうかいつまでも己にとって、命を賭けられるだけの、強力な敵であってくれ」、と。


 だれからも恐れられた龍に対してか弱き人間が向けるものとしては、異質にすぎる祈りだった。けれどその、炎に煽られ朱金にぎらつくきんいろの瞳を向けられるたび、身の内で炎が湧き立つ気がした。


 吐いて、燃やして、防がれて。

 双方全力の炎と呪符をぶつけ合うが、決して互いには届かない。

 言葉こそなかったけれど、その命のやりとりは、今までになく龍を満たした。


   ◇


 ――けれど、あの日。


 人里近くに進んだ龍の前に、アララギが単身現れたところまでは、いつも通りだった。

 いつも通りでなかったのはそこからだ。

 呪符を手にしたアララギに人間の女がかけよって、白い狩衣にすがりついた。


 水の腐臭が鼻をついた。アララギが花の香りの下に隠しまとっているものよりも、もっと明らかな、よどんだ臭い。それはその人間の女から立ちのぼっていた。


 その臭いも気に障ったけれど、それより龍が許せなかったのは、その女を振り返ったアララギが、龍を眼前にしながら、龍から視線を外したことだった。

 かっと身の内が熱くなり、目の前が赤く染まった。

 その衝動のままに、龍は炎を吐き出した。いつもとは違う、憤怒と敵意を込めた紅蓮で、辺り一帯焼き尽くすつもりで。荒れ狂う炎は渦を巻き、あちらこちらで火柱が上がった。


 もはや、周囲には炎以外何も見えなかった。ひるがえる黒檀の髪も、白い狩衣も、――いつも龍をまっすぐ見すえる、きんいろの瞳も、何も。

 吐いて、吐いて、決してそんなことはありえないのに、己が吐いた炎に呑まれるように感じた、そのとき。


 むせかえるような花の匂いがわきたった。視界を埋めた淡紫の香煙が、龍の全身を包み込んで縛り付けた。


(しまった)


 わずかに冷えた頭の隅で、思ったときには遅かった。

 無数の呪符が、炎を切り裂き飛来して、龍の体に突き刺さった。


 ――それまで決して、龍に致命傷を与えることはなかった、アララギの呪符が。


 そこで、龍の記憶は途切れた。




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