5. 覚悟
ヒマワリが焦ったように脚を早めて、そして駆け始めた。
どどっ、どどっ!
「あっ、ちょっと」
やばい。身体から、力が抜けている。闇夜でもヒマワリの脚は全く止まらない。
想定外だ。ヒマワリは、この森の中を、夜でも全力で駆け抜ける事が出来る。
それなら、それなら戦う必要なんてなかったんじゃないか? ヒマワリに僕が乗って、アコニが隣を駆ければ、きっとワイバーンをも振り切れた。
ヒマワリの事を知ろうとしなかった。その結果がこれだ。
「あ、あ」
容赦なく身体から力が抜けていく。ヒマワリの鬣に倒れそうになって、鼻と口を必死に袖で覆った。
落ちても良い。でも、眠ってしまうのだけは駄目だ。
小川に出る。ヒマワリが飛び越そうと跳ぶ。揺れて、しがみつけない。
馬具なんて何も付けてない。脚にも、腕にも力が入らない。ずるり、と体がヒマワリの背からずり落ちるのに、何も抗えない。
ばしゃあっ!
川の中に落ちた。腕を、肩を思い切り打ち付ける。熱い、痛い、でも、でも、動ける。頭から落ちた訳じゃない。骨もきっと折れてない。立ち上がらなければ。
ーーアコニ?
返事はない。繋がっている感覚がない。それ程に離れてしまった。でも、アコニは諦めていない。こちらに向かってくる。這ってでも、絶対に。
「う、うう」
だから、僕も立ち上がる。
背中の大剣が重い、でも立ち上がれた。
「ブルルッ」
ヒマワリが焦って戻ってくる。
「駄目なんだ、逃げちゃ駄目なんだ。僕は間違えた。でも、これ以上間違える訳にはいけないんだ」
僕は首を振りながら、ヒマワリにそう言った。
僅かながら、僅かながらでも僕の体は力を取り戻し始めている。アコニがこちらに向かっている事がこの体で分かる。
「……?」
ヒマワリには僕達の祝福が理解出来ない。言葉も通じない。
でも、作戦は通じている。弓を取り出して、川を越えた先で木の裏に隠れれば、ここで待ち構える事までは伝わる。
「ヒマワリも……どこか隠れて」
それに対して、ヒマワリは僕から少し離れた。通じたのだろうか?
……本当に、本当に、失敗したなあ。言葉は、通じるようにしておくべきだった。嫌がってでも。
でも、泣き言を言うのはここまでだ。考えなければ。アコニを待つ。それまで、どうにかして生き延びる。五体満足で。
そうじゃなきゃ、勝利じゃない。意味がない。
体が、重い。酷く、重い。
それでも走る。走らなければいけない。この重さは、逆に言えばソロシーが生きているという事だ。
重みは、歩くに連れて和らいできている。ソロシーは、ヒマワリから降りた。待ち構える事を覚悟した。
通じない程に離れてしまっても、分かる事は分かる。
だから、私は前へと向かう。前へと走れば走る程、この体は軽くなる。力が湧いてくる。
ワイバーンは飛んでいった。程ない内に、ワイバーンは待ち構えるソロシーを見つける。そして殺しにかかる。
それを、私は殺す。
走る。一歩一歩前へと進む度に体が段々と軽くなる。
「ギュアアアアッ!!」
吼えたワイバーン。
バァンッ!!
続いて弾ける音。炎を吐いたのか? 見つかったのか? ソロシーは? 分からない。悲鳴はない。体の重さはそのままだ。
ーーソロシー!?
……まだ通じない。でも、私の体には異変はない。なら、少なくとも生きてはいる。
走れ、走れ!
「ハッハッ、フッフッ」
体が、もうそろそろいつも通りにまで戻り始めている。
ドバァッ!
「グラララララッ!!」
水飛沫。咆哮。
……対峙したのだろう。後少しの距離。
ーーアコニ、通じる?
ーーソロシー! 無事!?
ーー少しだけ、時間を稼ぐ。だから、追いついて、仕留めて。
落ち着いた声。いや、落ち着かせている声だ、これは。
急がなければ。けれど、落ち着いて、音を立てずに。
もう、近い。
大剣を構えた。
燃え盛る地面、木々を挟んで僕とワイバーンは向き合っている。
全身を覆う薄い鎧。ただ、飛ぶ為に、人を乗せる為に、徹底的に軽量化が図られている。
強度は本当に弓矢を弾ける程度。本当に全身を覆っている訳でもない。
ーー背中、翼の付け根。それから尻尾の間。そこに隙間がある。
ーーそれだけで良い。十分。
「グルルル……」
その巨体が突っ込んで来れる程の隙間はない。再び炎を吐いてくるか、空から迫ってくるか。
ヒマワリはどこに居る? 逃げてはいないと思うけれど、戦う事も選んでいない。
ワイバーンは立ち上がってすぅ、と息を吸った。
炎? 落ち着け。見極めろ。トケイさんを思い出せ。
ばしゃぁっ!! 勢い良く空を飛んだ。いつでも炎を吐けるようにしながら……地上は燃える炎で見えやすい今。
「ヒマワリッ!!」
来てくれた。すぐに乗る。脇腹を軽く蹴った。
「走ってっ!!」
どどっ、どがらっ。
木々の隙間を縫って、暗闇に向かって、アコニから離れ過ぎないように!
炎が吐かれた。走る先に予測した位置。
「止まって!!」
「ビィッ!?」
思わず鬣を引っ張って、また落馬する。けれど、今度は受け身を取った。
ヒマワリの目の前に火球が着弾する。その正体、燃える油が弾けてヒマワリにも跳んだ。
慌てて消そうとするのに、僕は叫ぶ。
「上だっ!!」
分かったのかどうか。ワイバーンが踏み潰そうと降りてきたのに、咄嗟に避けた。
どずんっ!!
風圧だけで体が怖気付きそうになる。必死に堪える。アコニはもうすぐ近くまで来ている。体がそう教えてくれている。
牙を剥き出しにした口が上から迫ってくる。僕の胴体を真っ二つに出来そうな程に大きい口、木の後ろに逃げる。
ガチィンッ!!
避けた、でも音だけで心臓が跳ねる。避けたんだ、大丈夫、いや、体が捻られて。
どおっ!
「うわっ!」
木に叩きつけられた尻尾、そのしなやかな先端が僕を叩こうとしてくる。避けた、けれど剣を振る間も無くずるりと戻っていく。
「やばい、やばい」
頭が回らない。こんなでかいワイバーンが動きづらい鬱蒼とした森の中でも、僕は何も出来ない。
必死に逃げ回るしか出来ない。
ワイバーンが再び翼を広げる。
「ああ、駄目だ」
飛ぼうとしている。ヒマワリは倒れてない、でも距離がある。次の火球を避けられるか?
その時。ワイバーンの背後、燃え盛る炎が揺れた。
……アコニ。
けれどその瞬間、ワイバーンは体を捻った。
ばぢぃっ!
そして、アコニを翼腕で打ち叩いた。
分かっていたかのように。
「ギャンッ!!」
「アコニッ!!!!」
アコニは地面に一度跳ねて、勢いのまま木へと叩きつけられた。
*
住処の近く、一際高い木には爪痕があった。
ソロシーは他種族と暮らしていたが、あのワーウルフではない。あれは遠くに見えた集落から来ている。
ナイトメアは木に登れない。
このソロシーも、ひたすらに逃げ回るだけで、その大剣でこのワタシを叩き切ろうとはして来なかった。
まるで、何かを待っていたかのように。
他に誰かが居る。それは、ワタシのウィンチを切り傷だけで殺す毒を持つ……ムシュフシュ。
半ば信じられないが、それが答えだった。
「アコニ……アコニ。アコニ? アコニ!!」
「グ、ググ……」
アコニと呼ばれるムシュフシュは、立ち上がろうとして、崩れた。
「アコニ、アコニ! アコニ、お願いだ、ああ、ああ……アコニ、アコニ……」
ナイトメアを睨みつければビクリと跳ねる。
立ち上がって、ソロシーへと向き返った。
乱れきった呼吸。怯えた顔。縋るように握り締められている大剣。
……躊躇いは、ある。だけれど、それでも、ワタシはウィンチが死んだ原因となったオマエを許せない。
オマエがさっさとくたばっていれば、ウィンチは死ぬ事はなかった。オマエがムシュフシュとなんか生き延びていなければ、ウィンチは死ぬ事はなかった。
だから、せめて、せめて殺さないと、ワタシの気持ちが収まらない。
ずん。
足を一歩踏み出した。
その大剣、まともに扱えないんだろう? 形見のように持っていて、ただのお守り、こけおどしじゃないか。
どどっ。
ガァンッ!!!!
「ガァッ!?」
ナ、ナイトメア!? この臆病者がっ!!
「う、あ、」
*
祝福がなければ、私の骨は砕けていただろう。
それを、ソロシーも分かっていた。私がまだ動ける事を。致命傷ではない事を。
ーー動けない振りをしろ!
ソロシーは、そう告げた。
僕は、馳走だった。恨みを晴らす為の、馳走だった。
そして、このワイバーンは僕達と似た境遇だった。
その二つ。
ワイバーンはすぐに僕を殺そうとせず、僕の目の前で、まるで身なりを整えるかのように立ち上がった。
それでも殺すのだと覚悟するような時間があった。
ソロシーの声は、正に私が死んだらこれだけ悲しむのだろうという程だった。
ソロシーの体は、祝福を失い、がくがくと大剣を支えられなくなったかのように震えていた。
ーー大丈夫、だよね。
通じながらも。
ーー大丈夫。
そう返しても、その身振りに、声に、安堵は全くやって来なかった。
きっと、私が叩かれたその瞬間、鮮明に想像したのだろう。私の体が砕かれたその様を。
それは私達が交わらなかった、もう一つの結末だった。
ナイトメアは臆病で、自分勝手だ。言葉も通じない。
でも、分かっている事もある。ナイトメアはムシュフシュを守ろうとする。
きっと、いや、確実に、囮として失敗した僕に怒りを抱いてもいるだろうけれど。でもそれ以上に、ワイバーンに殺意を抱いていないはずがない。
逃げているばかりだったけれど、それでも僕は知っている。
ナイトメアは、やる時はやる。矢を受けて、ワーウルフの襲撃から僕達を守ろうと戻ってきた時のように。
そしてそれ以上に、今でも鮮明に覚えている。
頭蓋が粉々になった熊の死体。血肉に塗れたその足。
「ガァッ!?」
ナイトメアが、脇腹へと後ろ足で蹴り上げた。
鎧を貫き、明らかに体へとめり込んでいる。
その威力。ナイトメアを遥かに超える巨体のワイバーンがよろけた。
もう、演技をする必要もない!
騎士のように、騎士のように、間近で何度も見たその一撃を!
腰を落とす。大剣を後ろに控えさせ、ぐ、と握る。一歩踏み出す。
「う、あ、」
体を捻る。
「振、」
大剣が一度ワイバーンの直前を切り裂く。
「り、」
更に後ろ足を更に前へと運びながら!
「抜、」
よろけたワイバーンに一度背中を向けて回転して!!
「けぇっっ!!!!」
がずぅっ!!
……鎧がある感触がしなかった。それ程に、大剣はワイバーンの腹をすっぱりと切り裂いていた。僕はそのまま大剣を振り抜いて、腕を伸び切らせながら止まっていた。
「ガブッ」
その声と共に、どば、と血が噴き出す。
「ヴルルアア゛ア゛ッ!!」
そして起き上がったアコニが背中へと噛み付いた。
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