3. 祈願

 ワーウルフの文明は確かに、人と比べてしまえば数百年、いや、千年単位で遅れたものだ。そして文字を読めないという特性は、それに追いつく事は愚か、真似る事すらも時に拒まれる。

 だが、それでも受け継いで来た文明は、技術は、洗練されたものだ。

 トケイの持つ長弓。それは確かな技術と人よりも優れた肉体が併さる事によって、遥か先からでも熊の頭蓋をも貫く威力と精度を発揮するものだった。

 そしてそのワイバーンと人間は、ソロシーがここに来た経緯を考えれば敵である可能性が非常に高く、また索敵するかのように上空から誰かを探そうとする様子を見て、それらをトケイは完全に敵と見做した。

 持ってきたその長弓に矢を番えて、引き絞る。

 まだ気付かれていない。遠く離れた距離。丸みを帯びた鎧を貫こうとするのならば、自ずと狙いは慎重になった。

 細い呼吸。口を尖らせて、少しずつ、少しずつ吐いていく。

 目を細める。また、鼻と耳で風を感じながら。

 まだ気付かれていない。殺せる。

 しかし、ワイバーンが突如その場に留まるように旋回し始めた。今にも放とうとしていた腕がびくりと震えながらも堪える。

 ソロシー、見つかってしまったのか?

 逡巡。焦り。

 その数瞬の間に、ワイバーンと目が合った。

 パァンッ!!

 思わず放った一発目。甘い狙い、咄嗟に身を捩ったワイバーン、躱された。

「ヴルルアア゛ッ!!」

 ワイバーンが吼えながら突っ込んでくる。一直線に。

 見てから躱せるものじゃないぞ、これは!

 冷静に二本目を番えて引き絞る。

 まだだ、まだ。待ち構える。羽ばたきをやめて滑空に移るワイバーン。まるで雪の上を滑るかのような速さ。

 キリ、キリリ……。

 パァンッ!

 二発目。ワイバーンがぐるりと身を回転させた。

 舌打ち。トケイは苦い顔を隠せない。

 これを躱すのかよ。しかも予測とかじゃねえ。はっきり見た上で躱しやがった。

 指が弦から離れる時にはもう、回避動作に移っているような速さで、完全に見えている事を分からされるような。

 更に体を折り畳んで突っ込んでくるワイバーン。生半可な木などへし折って来そうだ。

 身を翻して走る。

 バギギャベギギッ、ズアアアアッッ!!

 案の定、その体躯は一気に数本の木をへし折りながら強引に突っ込んでくるが、その牙は届かない。が、ワイバーンの背から人間が飛び出していた。

 着地を失敗すればそれだけで全身がバラバラになるであろう勢い。身を伏せてギリギリ躱すが、背中に鋭い痛みが走った。

「づぅっ!?」

 背中を、切られた。躱しきれなかった。

 膝を着く。

 ずんっ、ずんっ!

 ワイバーンが牙を剥き出しにして駆けてくる。その要所要所を覆う金属の鎧、空を飛べるくらいだ、そう厚いものではないだろう。だが、その矢をも躱した目。背中から毛皮を今にも赤く染め上げようとしている出血。

「くそ……」

 だが、終わりじゃない。切られた背中には痺れるような感覚はなかった。毒はない。

 斜め上から大きく口を開けて牙が迫ってくる。前へと転がれば、すかさずワイバーンの体がぐるりと回る。目の前に太く長い尾が迫ってくる。

 予想された動きをしてしまっている。

 刹那の内に、それを悟る。安直に動けば死が待っている。長弓を捨て、腰に携えている槍を短く掴み、腰を落とした。

 どづぅっ!!

「ギィアァァッッ!?」

 鎧をも貫いて、深々と突き刺さった槍。寸で堪えきったトケイの肉体。

「がっ、ぐっ……!?」

 しかし、その背中には矢が突き刺さっていた。

 振り返れば、駆けながら短弓にもう一本の矢を番えている人間。

「……ソロシー。」

 思わず漏れ出た言葉。肋骨の隙間を縫って深く突き刺さったその矢は、致命傷だった。それを体は教えてきていた。

 ……失敗したなあ。

 ……どうしてここまで、ソロシーに肩入れしていたんだろうな。

 それは憧れだったのかもしれない。自らよりよっぽど広い世界からやって来た子供が、最も頼れる味方を喪いながらも必死に生きようとする様への。

 それは、同じ集落で暮らす誰もが持ち合わせていないものだった。

 膝が折れる。二本目の矢が自らに向かって引き絞られる。

 だらりと腕から力が失われる。

 正確に狙う為に、強く固定されているその弓手。

 死が目前に迫る。避けられないだろう。だが、それでも抱く感情は絶望ではなかった。

 矢が放たれる瞬間、その手は石の短剣を引き抜いていた。アコニの、ムシュフシュの毒を塗ってある、石の短剣。

 パンッ! ひゅんっ。

 矢が放たれると同時に交差し、飛んでいく短剣。トケイの胸へと突き刺さった矢。人間の指を切り裂いた短剣。

「がぶっ……」

 口から血が飛び出した。

「くそがっ……あ゛? い、いあ、がっ、ぐぅ!?」

 そして忌々しい目を向けるも束の間、膝から崩れ落ちた人間。

 ……槍にも毒を塗っておくべきだった。

 それなら、ソロシーとアコニに、このワイバーンを残す事もなかった。最も長く使い続けた、愛着のある武器だからこそ、それを躊躇ってしまった。

「グルルアッ!!??」

「がっ、ぐっ、ぐぎっ、あ゛あ゛っ?! げぼっ、ごぶっ、ごぼぼっ」

 のたうち回る人間に、ワイバーンが焦って走っていく。

 ……けれども、ワイバーンだけならば、ソロシー達は勝てるだろう。

 空を自由自在に飛べて、目も優れている。更には鎧も着込んでいる。だが、それだけだ。

 その体躯では隠れる事など出来ない。正々堂々とした戦いでしか輝けない。

 俺が仕込んできたのはそういうものじゃない。どんな手を使ってでも無傷で相手を打ち倒す。そういう戦いだ。

 どさり。

 血がとめどなく流れていく。体が急激に冷えていく。

 ……せめて俺を倒してみせるところまで、見届けたかったけどな。

 ソロシー。そして、アコニ。生きてみせろ。いつしか俺の一番の生き甲斐になっていたお前達。

 そしてヒマワリ。少しは役に立ってみせろよ。

 ……ああ。

 冷たい。


*


*


 夜になってもトケイは私達の元へと来なかった。ヒマワリは来たものの、トケイはいつまで経っても来なかった。

「…………」

 ソロシーは黙ったままだ。

「ギアアッ、ガアッ!!」

 遠い上空、ワイバーンは未だ怒り狂ったような声を時折上げながら私達を探し続けている。

 何が起きたのかは明確だった。けれど、ソロシーはそれを口には出さない。信じたくないのだろう。

 私だってそうだ。トケイが死んだなど、考えたくもない。対等な条件では私達がどんな手を使っても勝てなかったトケイが死んだなど、思いたくもない。

 けれど、その代わりに上に乗っていた人間も道連れにした。だからこそ、ワイバーンはあそこまで怒り狂っている。

「はー……ふー……」

 ソロシーが意を決したかのように、息を大きく吸って、吐いた。

「……分かった事がある。

 ワイバーンは、鼻は良くない。少なくとも、闇夜に隠れている僕達を見つけられる程じゃない。

 それにもう、疲れ始めている。聞いているだけでも、吼える間隔は広いし、声量も小さくなっている」

 ーー仕掛けるのか?

「いや。まだだ。

 トケイさんが相打ちにしたなら、普通、ワーウルフ達の方に殺意が向かうんじゃないかな。でも、そうじゃない。

 多分……少なくとも、トケイさんが僕達を守ろうとしていた事まであのワイバーンは分かっているんだ。

 それなら、何日でも待とう。待てば待つほど、ワイバーンが感情で動けば動くほど、ワイバーンの疲労は高まっていくだろうから」

「……ブルルッ……」

 ヒマワリが不機嫌そうに鼻を鳴らした。私とソロシーが言葉も介さずに、けれど通じ合っているように話しているのが気に食わないのだろう。

 ただ、流石に邪魔はしてこない。

「だから……問題は一つだけだ」

 一つ? 少し考えて、分かった。

 ーー飯か。

「うん。三日も待てば、疲労は限界になると思う。流石に、長時間休む必要も出てくるだろうし。

 でも、こっちだって何かを食べなきゃいけない。手持ちの食料もないし、見つかったら逃げ切れるかも分からないし……」

 一日、二日何も食べなかった時はある。冬、激しい吹雪が続いた時、母と共に寝床で籠もっていた時。

 ただ、三日以上はなかったし、母と共に丸まっていても空腹ばかりが頭の中を占めていた。

 ……三日何も食べなかったとして、ちゃんと動けるかは分からない。

 ソロシーもそれは同じなんだろう。

 三日後、確実に倒すには、少なからず狩りをする必要がある。それには見つかる危険性がある。

 だからと言って狩りをしなかったら、ちゃんと動けるか、確実に倒せるか分からない。

「……どうしようか」

 ……。

 …………。

 悩んでいれば、ワイバーンの咆哮が暫く聞こえていない事に気付いた。

「……大丈夫。翼の音は聞こえてない。気付かれてはいない、はず」

 ボォンッ。

 そこまで遠くない場所で、爆発音が聞こえた。

「……まさか」

 暗闇の中。ソロシーがたらりと汗を掻いていた。

 ワイバーンは、何をした?

「燻り出すつもりだ」

 イブリ、出す?

「ここら一帯、火の海にするつもりだ。あのワイバーンは」

「グァ!!??」

 私達を殺す為だけに!? そこまでの事をするのか!?

「……それ程に、トケイさんは怒らせたのか。……いや、それ程に、あの人間とワイバーンは通じ合っていたんだろうな」

 ーー私と、ソロシーのように?

「もしかしたら、それ以上に」

「ガアアアアアアッッ!!!!」

 外から、今まで聞いてきた中で一番強い感情の籠もった咆哮。

 私達の隠れている場所は、ばれてはいない。ただ、ある程度の場所までは絞られている。それを確信されている。

「……作戦、変更しなきゃな」

 自信のない声で、ソロシーが呟いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る