2. 克己
「あれは……あれは、きっと……いや、多分、いや、いや、ほぼ確実に、僕を探しに来たんだ」
上に人が乗っていたかは分からない。でも、あの飛竜、ワイバーンは鎧を纏っていた。だから、あれはほぼ確実に人と共に在るワイバーンだ。僕とアコニのように。
そんなワイバーンがこんな場所に来た理由なんて、王族である僕を探しに来た以外に無いだろう。
そして、ワイバーンが向かっていった先、アコニの寝床には、騎士の大剣がある。僕が今も丁寧に研いでいるそれは、紛れもなく僕が今でも生きている証拠になる。
更に、あの鎧は酷く厄介だ。アコニの毒矢を僕は今も持っている。でも、この短弓では鎧は貫けない。その最大の武器が封じられてしまえば、立ち向かう手段は、ない。
「……逃げよう」
どこに? とアコニが僕を見てくる。
トケイさんやヒマワリと合流する? 合流したところでどうなる。トケイさんでさえ、鎧を着たワイバーンに立ち向かえるかと言われれば、怪しいだろう。
それならヒマワリの毒の方が良いけれど……。
「……取り敢えず、ここから離れよう。ワイバーンは空を飛べる。僕達よりずっと速くこの森を飛び回れる。
でも、あれだけでかいなら、トケイさんみたいに気付かれずに僕達に近付けるなんて事はないはず」
「グゥ」
気付けば、猪はどこかへ消えていた。
「毒矢が三本、普通の矢は十本。罠の材料は余りなくて、食料も持ってきていない……。
せめて、せめてニカワを持ってきていたらなあ。毒矢を増やせたのに」
ソロシーは自分の手持ちを確認していた。
軽く狩りをする。その程度の準備しかしていなかったから、ソロシーは軽装だった。トケイとゲームをする時のような重装備ではなかった。
ただ、私は喉を鳴らした。
ーー殺すつもりなのか?
「……うん。殺さないと駄目だ。あいつらは、帰ってくれない。
僕の首は、アコニが思っている以上の価値があるんだよ。少なくとも、季節が一巡りするまでの間、好きなものを好きなだけ食べて暮らせる位の価値はあると思う」
「……グゥ?」
季節が一巡りするまでの間、好きなものを好きなだけ食べて暮らせる? 良く分からない。
「えーっと、もう少し噛み砕いて言うと、季節が一回巡るまでの間、誰かに狩りをさせて、それを貰う事が出来る。
今日は猪が良いだとか、果物も取ってこいだとか、そんな注文だってし放題」
ーーそれがソロシーの価値?
ソロシーを狩っただけで、そんな事が出来る? どれだけソロシーの血肉が美味かったとしても、そんな事出来ないだろう。
「……人間って、複雑なんだよ。生まれつき、ある程度価値が決められちゃっているのさ。
そして、悲しい事にそれは覆す事が出来ない。僕はその価値を投げ捨てる事すら出来ないんだ」
「…………」
「だから、殺さないといけない」
ソロシーは自ら覚悟を固めるように、そう言った。
*
「驚いたな、まだクレセント・ソロシーとやらは生きているようだぞ」
寝床と思わしき、開けた場所。そこに立て掛けてあったのは、未だ切れ味を保っている大剣。
共に逃げたと言う腕利きの騎士が使っていたものだろう。
「ヴルル……」
はぁ、とゼラは息を吐いた。面倒臭い事になったと思うのは、俺も同じだ。
「分かった事を整理していこう」
ゼラにも分かるように口に出しながら、俺は考えを纏める。
「この大剣があるという事は、その腕利きの騎士は生きているかは怪しい。こんな場所で、大剣を置いてどこかに行ったりだとかはしないだろうしな。
だが、クレセント・ソロシーは確実に生きている。そうでなければ逃げ始めてから一年以上も経つのに、こんな綺麗にこの大剣が残っているはずもない。
そしてもう一つ。そのクレセント・ソロシーは誰かと共に生きている。爪痕やらもあるし、ゼラも何か感じるか?」
きょろきょろと辺りを見回すと、ゼラは何かを見つけたように目を細めた。その目の先には、一際高く背を伸ばしている木。時々不自然に枝が折れていた。
「……なるほど。この位の洞穴で一人と一匹が過ごしているのもあって、そんなに大きな獣ではなさそうだな」
ソロシーが登ったとも考えられるが、子供がこんな高い木に登るより、共に暮らしている獣が見張りの為に日常的に登っている、と考える方が自然だ。
「……」
ゼラは余り気乗りしないようだった。
奇しくも、クレセント・ソロシーは俺とゼラのように、異種族の間での絆を結んで生き延びているのだろう。
それを割く事には、俺にも思うところは多少なりともある。
ただ。
「帰るか? 別に見つからなかったって言っても、大した事は言われないだろうよ。このでかい森の中、ここまで来て生死を確認出来るのは俺達くらいのものだからな。あいつらは偉い事言ってようが、確認すら出来やしない」
「……ヴムゥ」
それにはゼラは首を振った。
人を一人殺してでも欲しいものがあるからこそ、ここに来た。例えそれが俺達と似ていても、だ。
「で、だ。
問題は一緒に居る誰かだ。毒持ちとかだったら嫌だがな……」
そう悩んでいれば、ゼラが翼を広げた。空から探して一気に焼いてしまえばいいだろう? という事だ。
「そうだな。そうしてしまおうか」
*
ーー乗って走った方が速くないか? その方が遠くまで逃げられるんじゃないか?
そう聞かれたけれど。
「ワイバーンがどうだか知らないんだけどさ、空を飛ぶ鳥って、かなり目が良いみたいなんだよね。
もっと雪が降り積もる方では、雪の下で穴を掘って進むネズミとかを上空から見つけて捕まえる鳥が居るとか言うみたいだし。
だから、足跡はせめて深くは残さない方が良いと思うんだ。
それに……距離を稼いだところで、空を飛べるワイバーンにとってはあんまり意味がないだろうし」
距離を稼ぐより、見つかりづらい方が良い。
そう思う。
ーー臭いは?
「ワイバーンに当てはまるかは知らないけれど、鳥って目が良い分、そこまで鼻には頼っていない、らしい」
ーーそれなら、トケイみたいに隠れている場所に奇襲を掛けられる可能性は少ない?
「……多分」
何にしても、多分、とか、きっと、とかそんな言葉で締めくくるしか出来ない。ワイバーンも本の中でしか見たことがない。
ーーもし、鼻が悪ければ。
「ヒマワリと合流出来れば」
ーー風上から眠らせられる。
何にせよ。仕掛けるのは、長期戦。我慢比べだ。
これはゲームじゃない。敗北は、死だ。
狩るか、狩られるか。こんな形で唐突に本番がやって来るとは思わなかった。
本番用の切り裂けるブーメランはちゃんと使った事もなければ、持ってきてもいない。短剣や鉈で獲物を狩れた事もまだそこまでない。
ソロシーの近くに居れば、祝福のおかげで母と同等の動きは出来ると思うけれど、それに慣れた訳でもない。
そんな状態で、ゲームじゃない本番がやって来たという事に、私は遅れて緊張して始めているのを感じていた。
けれど、ソロシーはどうしてだろう、どこか落ち着いていた。
もう命を何度も狙われてきたと、ソロシーの口からは聞いていた。
場数が違う。私には、本気で狙われた経験なんて殆どない。あっても、ソロシーが囮になってくれていた。
落ち着かない。風のざわめきがどれもこれも疑わしく聞こえる。
「アコニ」
ソロシーが立ち止まった。木の陰に隠れる。
ワイバーン!? 来ている!? どこに!?
「いや、そうじゃなくてさ。
よくよく思い出してみればさ。今はまだマシな状況なんだよ」
マシ? 今が?
「だってさ。
頼れる騎士や、母が死んでしまって、無力だった僕達だけが残された時よりも。
いきなり、僕達がどうしようが太刀打ち出来ないワーウルフがやって来た時よりも。
トケイさんの目を盗んでワーウルフが奇襲して来た時よりも。
今はよっぽどマシだよ。
勿論、敵は今までの何よりも強いかもしれないけれど。
ワイバーンは僕達の場所を分かってないし、そもそもアコニの存在だってまだばれてない。一撃必殺の毒矢があるって事さえも分かられていないはずだから。
敵が来たり、何か絶望が訪れた時、今までは考える時間すら与えられなかった。でも、今はそうじゃない。こうやって考える時間がある。
それに……僕達だって毎日備え続けてきたし、強くなろうとし続けてきた。トケイさんやヒマワリだって、助けてくれるだろうから。
だから、やれる事をやれば、十分勝てる相手でもあるんじゃないかな」
ーーソロシーは冷静だな。
「まあ……アコニが居てくれるから」
……少し恥ずかしくなる。
翼の音。聞こえてきたそれに、身を潜める。
雪もすっかり溶け切って、地面も乾きつつあるこの季節。足跡は殆ど残っていない。
「だから、正確な場所までは分かっていない……はず」
それでも緊張する。見つかってしまったら、太刀打ちする術などきっとないだろう。
ーー見つかったら逃げる?
「そうだね」
何度も何度もトケイさんに負けるのに対して苛立ちを抑えきれていなかったアコニも、憂さ晴らしの手段も見つければ段々と落ち着いてきていた。
ワイバーンはほんの少しの痕跡でも見つけたのか。遠くも近くもない上空で、遠ざかる事も近付く事もない、翼の音が聞こえ続けている。
ーー降り立ったらまた動こう。
「うん。方向も変えた方が良いかな」
まっすぐ歩くのもリスクだ。距離を取りたい気持ちが逸るけれど、その直感には従ってはいけない気がした。
ふぅ。
体を落ち着かせるように、アコニの背中に手を乗せた。アコニが僕の膝に頭を乗せた。
「うん……僕達はやれるはずだ」
「グゥ」
パンッ!
「……何の音?」
遠くから聞こえて来た、破裂音。弓の音かと思ったけれど、矢はこちらに飛んできた訳でもない。
けれど。
「ヴルルアア゛ッ!!」
ワイバーンが吼えた。体躯に似合った、この森全体に響くかのような怒りの咆哮。
理解した。
ーートケイ?
「……うん、そうだ。トケイさんが囮になってくれたんだ」
少しばかり顔を出してみれば、ワイバーンが滑空して一直線に飛んでいるのが見えた。上には人間が一人乗っている。
ワイバーンがぐるりと身を回すと同時に、矢がすり抜けていった。
パンッ!
音が遅れて聞こえてきた。矢は遠く、遠くまで飛んでいく。僕の持つ弓とは桁違いの強さの弓。それから放たれる矢をワイバーンは明らかに見て躱していた。上に乗っている人間もそれに振り落とされていない。
……目が良いとは想像していたけれど、ここまでだとは。
そして、滑空するその速さも、想像以上に速い。見つけられたら、逃げ切れるかとても怪しい。
ーートケイは、助けに行かないよな?
アコニが念の為、というように聞いてきた。
「うん」
トケイさんは囮になってくれている。それを僕もアコニも分かっているし、何よりトケイさんの俊敏さなら逃げるのもそう難しい事じゃないだろう。
でも、少しだけ考える。
「……今なら物を取りに戻れる、か」
そう言ってみるけれど。
アコニはすぐに反対する。僕も、言ってみてもする気は起きなかった。
戻って物資を充実したところで。
ーーアレにどうやって勝てば良いんだ?
「うん……どうやって?」
僕達の敵は、想像以上に強いらしい。
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