6. 雪解

 ざあざあと水の流れる音が激しく響いている。

 雪解け。冬の間に降り積もった雪が溶けて川へとなだれ込んでいる。

 冬と呼ぶにはもう流石に温かくなってしまった季節。水色の空も冬のそれと色は変わらないはずなのに、何か違って見える。

 アコニと会ったのは、こんな水の流れが落ち着いた矢先の事だった。

 もうそろそろ一年という事だ。

「さて……」

 僕はアコニと目を合わせる。

 気付けばもう一回り大きくなっていたアコニ。もうそろそろ、僕を乗せて駆ける事も可能なんじゃないかと思う位の大きさ。

 けれど、トケイさんには勝てないままに冬は過ぎてしまった。躍起になっても、虚を突こうとしても、バラバラに行動しても、待ち構えるトケイさんには勝てずに、トケイさんの板にばかり線が増えていった。

 だから、一度立ち止まって色んな事を振り返った。どういう事が有効だったのか、どうした時に狩られてしまったのか、アコニと何度も何度も考えた。

 対等な条件、それが二対一だとしても全く敵わないならば、入念に準備をするしかない。そうして勝ち星を上げられたとしても余り意味は無いのかもしれないけれど、それでもアコニはいい加減勝ちを求めていた。

 今日は、入念な準備をしてきた。この雪解けの季節にしか使えないような罠を考えて、トケイさんが来る前から至る所に仕掛けておいた。

「今日こそ、勝ってみせようか」

「グウ!」

 いつになくやる気満々な声を見せて、そして僕とアコニは別れた。


 ソロシーと離れると、少しだけ心細い。

 トケイへの戦意よりも、まずそれが来る。別れる時は、いつも。

 何をするにも基本一緒で過ごしてきた。いつでも、何でも。けれどそれは私と母のような関係じゃない。

 はたまたトケイが丁寧に私達を育ててくれるような、ヒマワリが好き勝手に私達を見て楽しんでいるような、そういうものでもない。

 私が望んでソロシーの隣に居た。ソロシーも望んで私の隣に居た。私とソロシーは、どこからどこまで違うけれど、どこからどこまでも対等だった。

 共に居るのが当たり前で、私はそれに馴染み過ぎてしまった。ソロシーもきっと。

 けれど。

「フーッ、スーッ……」

 呼吸を一度整える。目も一回閉じた。

 そんな事に浸っている暇はない。

 今日こそは勝つ。けれど、熱くなっても冷めすぎてもいけない。いつものように、それでいて深く集中しなければいけない。

 どささっ!

 木から雪が落ちる音がした。

 それは、今日の早朝、私とソロシーが至る所に仕掛けた、氷に紐を絡ませた罠。

 日が昇ってくれば、氷が溶ける。すると紐が落ちる。紐には糞尿を埋め込んだ雪玉の重りをぶらさげていて、そしてそれを木々の不安定な場所に引っ掛けた。

 そうすれば、この雪解けの季節、滑りやすくなった雪はそれに従って一気に音を立てながら落ちていき、異臭を放つ。

 仕掛けとしては単純だ。トケイが気付くのもすぐだろう。

 ただ、気付いたとしても地の利は私達にある。至る所で鳴る音。いつ、どこで音が鳴るのか、私達は何日も掛けて試して、覚えた。

 トケイの耳と鼻を封じるその罠。それに乗じれば私達が見つかる可能性も少ないし、気付かれないままに見つけられる可能性も高い。

 だから……今日こそは勝ちたい。

 これで勝てなかったら、私は正直どうにかなってしまいそうだ。


 深い雪の上を、作ったかんじきを靴に嵌めて歩く。

 こういう道具がある事をさっさと思い出せなかったのは本当に馬鹿だった。

 どさっ、どささっ。

 雪が落ちてくる。糞尿の臭いが僕の鈍い鼻にも届いてくる。

 正直なところ、これで勝てるかと言われたら、微妙なところだろう。良くて、やっと五分五分になるかどうか。

 気合が入っているからと言って勝てる訳でもないし。

 負けたいとは思ってないけれど、これだけ準備を整えたとしても難しいのは事実だ。

「……ふーっ」

 息はまだ白い。けれど、真冬ほどでもない。指や耳を温める必要もないくらいの寒さ。

 歩いて暫く。トケイさんの痕跡は見当たらない。

 ずず……どしゃっ!

 ……やっぱり、トケイさんはすぐにこれを見抜いたんだろうか。

 だとしたら、寝床か、その近くで待っているはずだ。でもそうだとしても、僕達がいつ来るかは読みづらくなっているはずだ。

 そう予想して、アコニも寝床に別方向から向かっている。

 胸の高鳴りが静かに体を揺らしている。静かで、少し寂しい。ちょっと離れてるだけなのに、寝食の間もずっとアコニと一緒に居るから。

 いつの間にか孤独に慣れない体になってしまった。いや、それは元からかもしれない。

 ……そんな事考えてるんじゃなくて。

 また僕のミスで負けたら、アコニがとても不機嫌になってしまう。

「運は自分で手繰り寄せるもの、か」

 その言葉に従おう。

 要するに、最善を尽くすという、ただそれだけの事。でも、意外と難しい事でもあったりする。


 トケイは待ち構えているとしたら寝床ではなくそのどこか近く、出来るだけ痕跡を潜めずに私達が戻ってきたところを狙っているだろう。

 その前提で、今回は動く。そして戻ってたら決めた場所で合流して、トケイを見つけられていたら仕掛ける。見つけられていなくても、ある程度場所は推測出来る。そこを挟んでいく。

 ……まずは、トケイに見つからずに戻る事だ。

 待っている方が有利だというのは何度も何度も、敗北と共に身を持って知らされた。更に今、それを私達が覆せるとしたら、肉体とか、より優れた戦略だとか、そういう真っ向からのものじゃない。

 更に、迎え撃つトケイには意表を突くことすら適わない。

 準備と、数。ただそれだけ。……ただそれだけが今の私達がトケイに勝れるもの。

 とてもとても悔しいけれど。

 そして今、私はトケイを見つけた。身を寄せられる太さの木の上で、ほんの僅か、腕がはみ出しているのが見えていた。

でも……でも、だから、私は仕掛けない。私だけで仕掛けたら、ほぼほぼ負けるから。

 ソロシーと共に攻めなければいけない。私がすべき事は、ここからトケイに気付かれずに去る事。そしてソロシーと合流する事。

 私はトケイの不意を突いても勝てない。それを私は認めていたはずだ。でも、けれど、ここまでの好機は今まで無かった。今なら行けるんじゃないか? と私のどこかが激しく訴えてくる。

「……フーッ、フーッ」

 それでも、私は抑えなければいけない。私はまだ、子供だ。トケイのように何年も鍛え上げて来た訳じゃない。トケイに勝るところなんて、毒牙くらいしかない。

 何度も何度も私はそう言い聞かせて、静かにその場から去った。

 引き返したい気持ちも、何度も何度も抑え込んで。私はソロシーの元へと向かった。

 どささっ。

「……あいつら、どれだけ仕掛けたんだ?」

 とても沢山。


「トケイさん、見つかった?」

 集合場所で聞けば、アコニは頷いた。

「え、本当? 見つかってない?」

 再び頷く。

 トケイさんは見つかっているのを分かっていてアコニを逃したのでは無いだろうか。そう疑いもしたけれど、バラバラで行動してて見つけたなら、まず仕留めに行くんじゃないだろうか。

 まあ……信じる事にした。

 アコニは若干落ち着きがない。その様子からも、本当に見つからずに見つけられたのだと思える気がした。

「場所は?」

 簡単に雪の上に地図を書けば、尾の先で指し示した。

「……分かった。じゃあ、打ち合わせ通りに」

 そうして僕はアコニに一つの罠を持たせた。

 そしてトケイさんが移動しない内に、すぐに別れる事にした。

 足早にまた去っていくアコニを見ながら、僕も急ぐ。

 どささっ、ざざ……どさっ!

 ……勝てるかもしれない。

 そんな淡い希望が僕の中に渦巻き始めている。多分、アコニもそうだったんだろう。

 でも、けれど、それには何度も何度も裏切られてきた。慢心はしない。油断だってしない。

「最善を尽くす事」

 それは本当に、本当にどれだけ難しい事か!

 息を吸って、吐く。後、ほんの少し時間の後には始まって、僅かな時間で決着が着くだろう。

 勝ちたい。けれど、多分それに囚われちゃいけないから。

 もう一度、吸って吐く。吸って、吐く。

「……頑張ろう」

 雪を踏みしめる。晴れている今日の陽が登ってきた今。雪がとても眩しいのに目を細めた。


 トケイはまだあの場所に居るのだろうか? もう耳と鼻を狂わせるだけの罠も半分も残っていない。

 だから、移動してしまっていたら、この利はなくなってしまう。

 この手ももう使えない。そうはなって欲しくない。勝ちは、私達自身の努力でしか拾えないものだとしても、手加減された勝利が何の喜びも得られないものだと分かっていても、勝たせて欲しいと思ってしまう。

 もうそろそろだった。鼓動が体を震わせている。オナモミとやらと戦った時よりも私は今、緊張している。命が掛かっていないというのに。いや、だからなのかもしれない。

 ……そんな事は後回しだ、後回し。

 五感に集中しろ。今私がすべき事は、それだけで良いんだ。

 余計な事を考えている余裕なんてない。

 そして私がすべき事はたった一つ。ソロシーが渡してくれた罠を最初に使う事。


 ざく、ざく。

 この季節、草が雪に埋もれて隠れるものが極端に減る今では、僕はトケイさんの近くまで気付かれずに寄る事なんて出来やしない。

 四足で素早く縦横に移動出来るアコニだけが近付ける可能性がある。だから、最初に仕掛けられるのはアコニしかいない。

 アコニはもう位置に着いただろうか。それともトケイさんはもう移動してしまっただろうか。

 弓矢を握る手が震えている。緊張している。

 でも、これは良い緊張だ。何となく分かる。落ち着いている。今なら的を外す気もしない。

 小さく息を吸って、吐きながら、歩く。トケイさんの痕跡は見つからない。地面にも、木の上にも。

 ざざっ……。

 近付いていく。けれど、やはり痕跡は見つからない。

 仕掛けられる。それが確信に近付いていく。トケイさんが待つようになってから、こんな好条件で仕掛けられる事なんて今まで一度たりともなかった。

 ざく、ざく。

 今日こそは、今日こそは。

「勝てるかもしれない」

 思わず呟いてしまう。でもこれ以上そんな事言ってると、運気が落ちてしまうような気がして止めておく。

 ざく、ざく……。

 もうそろそろ。見えてもおかしくない距離のはず。

 もしトケイさんが本当に動いていなかったら、アコニはいつ仕掛けてもおかしくない。

 ここらで待っておくべきか?

 ざざっ、どどっ、ずざざざざっ!

 大木から雪が一気に落ちた。その直後。

 ぱんっ。

 アコニが仕掛けた音がした。

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