3. 向寒

 妙に寒さを感じながら外に出てみれば、無数の白い粒が風に踊らされていた。

「初雪かあ」

 口に出せば白い息が出る。

 今日の日付なんて、もう何も分からない。ワーウルフも正確な暦を持たないようで、本当に知る術はどこにもない。

 けれど、少なくとも、僕はこの森にやってきてから丸一年が過ぎたのだ。

 そして多分……この森に来てからは騎士と過ごした時間よりも、アコニと過ごした日々の方が長い。

 革命が起きてからで換算しても、この冬を越したらそれでもアコニと過ごした日々の方が長くなる。

「クァァ……」

 大きく欠伸をしながらアコニも起きてきた。

「おはよう」

「グルルッ」

 相変わらず元気一杯だ。

 僕はもう、寒さに少なからず体を震わせ始めているというのに。

「……まあ、とにかくご飯だ。温かい茶。温まろう」


 朝飯を食べ終える頃、トケイがやって来た。

 白い毛皮の上に、茶色く分厚い毛皮を纏っていた。

「あれ、トケイさん、その毛皮は?」

「俺達ワーウルフは、狼より毛皮が薄いんだよ。流石に冬は裸じゃ耐えきれん」

「そうなんですか」

「そんな事は良いんだ。それよりな、今年の冬は去年より寒くなりそうだって感じてるか?」

「いや……、そうなんですか。まあ、一応備えは続けていますけれど」

 焚き火用の枝も、気付けばもう、ソロシーの身の丈くらいには積もっている。クンセイとか言う、煙で燻した肉や魚、それから乾燥させた果物や木の実、それを潰して作ったダンゴとかもソロシーは作っていた。

 ダンゴとやらはあんまり良い味にはなってなかったけれど。

「防寒はどうなんだ? 騎士の服はお前にはまだでか過ぎて使えないだろ」

 一度ソロシーが着てみた事はあるけれど、腕も足もその服で埋もれて、服を着ない私から見ても、とてもおかしかった。

「元々の防寒具、金属が付いていたか取られちゃいましたからね……。

 代わりに狩った毛皮を教わった通りになめしたりしてみてるんですけど、どうも上手くいかないんですよね……。アコニの袋は雑に縫い合わせた程度なので大丈夫なんですけど、防寒の為の外套とかとなると流石にちょっと難しいです」

「そうか。ちょっと手伝おうか」

「……助かります」

「その代わりと言って何だが、一つ、頼まれてくれるか?」

 トケイが私の方を見た。何か嫌な予感がした。

「アコニ、お前の毒が欲しい」


「……ごめんね、僕が不甲斐ないせいで」

「……グゥ」

 トケイさんから少し離れたところで、僕は小さく言った。

 毒に関しては、多分トケイさんは上から命じられたんだろう。

 それを感じさせないように、トケイさんは自分の労力の報酬として見せかけた。

 そんなところだと思う。そして、僕達はまだ、それに逆らえるような脅威ではない。

 アコニもそこまで分かっていると思うけれど、僕は謝った。形式だけでもそうしておいた方が良いと思ったから。

「……じゃあ、お願い」

 トケイさんが持ってきた、ニカワが塗られた小さい木の容器をアコニの前に差し出す。

 一際太く長く生えているその毒牙を、アコニは注意深く入れた。その牙がもしずれて僕に掠りでもしたら死んでしまうから、とても慎重に。

 別にこんな危険な事をしなくても良かったかもしれないけれど、僕は手間を掛けてそこまでしようと思うほど、アコニを信頼していない訳でもなかった。

 肉を引き裂けるギザギザな牙から、徐々に毒が垂れて溜まっていく。少しずつ、少しずつ。

 僅かに茶色く、粘り気はあまり無いように見えるその液体。ほんの、ほんの僅かでも体に入ったら死んでしまう程のこの劇毒を、実際僕達は殆ど使っていない。

 日常的に使うには危険過ぎるし、これで獲物を狩ったとしても僕には食べられなくなるし。

 あのワーウルフと戦った時だって、短剣の方は嘘だったし。

「……」

 何に使うんだろうねと聞こうとして、今は止めた。今は流石に危険過ぎる。

 片方の牙から毒が尽きると、ゆっくりと放す。容器の三分の一くらいが溜まっていた。

「じゃあ、もう片方」

 開けていて乾いた口の中を潤すように一度モゴモゴとしてから、アコニはまた口を開けて、慎重に慎重に牙を入れた。


 私の毒は、ムシュフシュとして一番強い力ではあるけれど、正直ワーウルフになんて渡したくはない。

 何というか、上手く言葉に表せないのだけれど、私が薄れていくような感覚。私の一部を顔すら知らない誰かになんて渡したくない。

 けれど結局逆らえないのは変わらないし、ここで私が拒んだところで何が起こるかと言ったら、あんまり良い事じゃないだろう。

 毒が尽きて、ゆっくりと牙を放して口を閉じれば。

 その小さい木の容器に、とぷ、と私の毒が溜まっていた。それに一つ、白い雪粒が垂れて溶けていった。

「じゃあ、これにトケイさんから貰った、温めたニカワを入れて」

 樹液や脂を固めたものだと言うそれ。鍋で温めてねばねばと溶けていたのを流し込む。

 それから少しばかりの間待つと、揺らしても殆ど動かなくなった。

 面白いな、それ。

「もう少しすれば、ひっくり返しても大丈夫になるかな」

 ……こういうの見れただけでも、許してやるか。

「それで、アコニ。毒を一気に出した訳だけど、特に体調とかは大丈夫?」

 そう言えば、こんな事したのは初めてだけど。

 別に、大丈夫。

「グゥ」

「大丈夫? でもまあ、一日は待ってみようか。お腹が一気に減るとかは何かあり得そうだし」

 まあ、そうか。心配性だなあ。少し、ほんの少しだけど、母みたいだよ、ソロシー。


「トケイさん。こんな量で良いですか?」

「え、ああ。早いな」

「まあ、アコニが頑張ってくれたので」

「へぇ……」

 トケイさんはと言うと、僕のなめした毛皮を多少手入れすると、爪で穴を開けて、持ってきていた紐をもう通していた。

 ……準備が良い。

「ほれ、簡単にだが、どうだ?」

 渡されたその外套。まだ繋ぎ合わせるつもりのようで肩周りしか出来ていないけれど。

 羽織ってみれば、丁度良い重みが体にのしかかる。その重さと温かさの割には肩を動かすのにも全く不都合はない。

「これは……これでも十分過ぎるくらいですよ」

「冬をこれだけで耐えられると思うか?」

「いや……流石に。……慣れてるんですね、こういう事」

「俺達はこういう事、小さい頃から叩き込まれるからな。上手い奴はひと目見ただけでもっとぴったし合わせる。

 ソロシーも形は別でも、何か叩き込まれてきたんだろう?」

「この森の中では役に立たない事ばっかりですよ」

 本当に、上に立つ事が約束されていた僕が学んできた事は、そんなものばっかりなんですよ。

 嫌でも実感する。

「……そうか。それで今日はどうするつもりだったんだ?」

「アコニの縄張りの主張も、僕の罠もある程度仕掛けたばっかりなので、今日はそんな遠出はせずにまたゲームとか、後は冬に備えるつもりでしたね」

 作ろうと思うものは幾らでもある。矢を一本作るのにも時間が掛かるし、焚き火用の枝やらは幾らあっても足りないだろうし。食料だって、今年の冬は寒くなると言うのなら、どれだけ貯めておいても損はない。

「そうか。日が暮れる前にはソロシーの防寒着も出来るだろうし、俺もゲームに参加しようか」

「……久々ですね」

「五本も取られたからな。……こんな短期間でそんなに取られるつもりはなかったんだぞ?」

 その声には悔しさも混じっていたけれど、どこか嬉しさもあるようだった。


*


 トケイは穂先を外した槍。

 ソロシーは矢尻の代わりに柔らかい草やらを巻いた矢。

 私は、木で作った尖らせてもいないナイフ。刃のない、木のブーメラン。

 そんなものを使って、私達は久々にトケイに挑む。

 初雪は穏やかながらも未だ降り続けて、少しずつ草木に重みを掛け始めている。

 曇天、少しずつ暗くなり始めている頃。先に私とソロシーが森の中に潜む。暫くすれば、トケイが私達を探しにやって来る。

 まずは、ある程度走って距離を稼ぐ。白い雪でところどころ、足跡がしっかりと残っている。

「はぁ、はぁ……。もう空気が冷たいなぁ」

 そう言うソロシーは、膝下まで伸びた外套を羽織っていた。トケイが作ったそれは結構重いようで、息切れはいつもより激しいけれど、その代わりに寒いようにはしていなかった。

 白い息を吐きながら呼吸を整えると、ソロシーが私と目を合わせた。

「多分トケイさんは、今日は何か新しい事を仕掛けてくると思うんだ」

 私もそう思っていた。悔しげな声、それだけで今日の俺はこれまでとは違う、と明言しているように見えた。

「見た感じ、何も持ってきていなかったけれど。警戒しよう……って言っても、どうしようか」

 少し考えて、私はソロシーの腰の袋を叩いた。

「……ああ、使ってみようか」

 ナイトメアの毒。下手に使った時はトケイに逆に罠を仕掛けられて、ソロシー諸共悪夢を見る羽目になったそれ。

「そうだね。他にも色々と……今日は出し惜しみせずに行こうか」

「グウ」

 十分離れたところで、ソロシーは罠を仕掛け始めた。

 最初は数を作っても全く引っかからなかったトケイだけれども、何度も模索する内に時々引っかかるようになったくらいには、ソロシーの罠の技量は高くなっている。

 そんなのを間近で見ている私でさえも、ソロシーとゲームをしている時に偶に引っかかるくらいには。

 矢が飛び出す罠を手際よく設置していく。その矢は殺傷力のないものだけれども、ソロシーが私と組んでいるという以上、全てに毒が塗られている前提でゲームは進める。

 要するに、一発でも掠ったらトケイの負けだし、それを逆にソロシーに撃ち返されて当たっても負け。

 そんなものを、ソロシーは私達を追ってくるであろうトケイが追って来て通るであろう道を予測して、そこから少しずらしたり、時々愚直に置いていく。

 出来るだけ雪を崩さないように、それから置いた痕跡も雑然と均したりして。

「じゃあ、ここ辺りで今日は、そうだな……トケイさんが何か仕掛けてくるだろうから、一緒に居る?」

「……グゥ」

 少し考えて、頷いた。バラバラで居ると奇襲はしやすいけれど、どちらかでも場所がバレた時はほぼほぼ負けてしまう。

 一緒にいれば、場所がばれても、流石にトケイと言えど今の私達には愚直に攻める事は出来なかった。

 ピィィィィ……。

 丁度、トケイの笛が響いた。これから追い掛けるという合図。

「じゃあ、隠れようか」

 そうして私とソロシーは、足跡を丁寧に十歩程なぞり直して、そこから茂みの中へと潜り込んだ。


*


 すぐにトケイさんは僕達の痕跡を見つけて追ってくるはずだ。ただ、今回は敢えて僕達は風上に向かった。

 トケイさんは今まで、槍一本で僕達とゲームをしていた。けれど今日は、新しい何かを仕掛けて来るだろう。

 それに対して、僕達は今日は迎え撃つ事にした。隠れて狙う間に近付かれたらもう何も出来ないだろうし、もう何度もゲームをやった間柄だから、トケイさんは見つけるのにも時間を掛けない。

 だから風上に逃げながら、罠を更に仕掛けながら待ち受ける事にしたのだけれど……。

「来てない、よね?」

 アコニは辺りの臭いを入念に嗅いでから、首を振った。

 もう、日が落ちる。未だに初雪はさらさらと降り続けている曇り空。

 程ない間に辺りは真っ暗になって、僕にとっては何も見えなくなってしまう。

「……この外套も、その為のものだったのかな」

 さっくり作った割には寒さを感じさせない程に温かい外套。繋ぎ目も爪で穴を開けて糸を通しただけなのにとてもがっちりしている。

「グルル……」

 アコニが不快そうに喉を鳴らした。

「いや……そこまで怒る事じゃないよ。守ってばっかりじゃ仕方ない事もきっとあるから」

 もし、このままトケイさんが一向に攻めてこなかったら。

 僕達は暗闇の中で、特に鼻も効かない僕はただのお荷物になる。

 すべき事は、夜をやり過ごす為に隠れるか、それとも攻めるか。

 罠の材料はもう余り無い。そしてトケイさんはこの闇夜でもその鼻だけである程度動けるだろうし、僕達の場所も察せられるだろう。

 だからと言って、どこにトケイさんが潜んでいるのかも分からない今、攻めに転じるのもそれはそれで厳しいものがある。今まで僕達がトケイさんとのゲームでやって来たのは、全部やって来たトケイさんをどう捌くかという受け身のものだったから。

「でも、流石にいきなりこれは厳しいよ……」

 溜め息を吐けば、だからそうだろうとアコニが僕の腕を叩いてきた。

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