2. 秋雨

 一日一日が、ゆっくりと、けれど気付けばあっという間のように過ぎ去っていく。

 今までの何よりも濃密な日々を過ごせているような、そんな感覚。母と共に生きていた時は、流れ行くものを大して感じようともせず、だらだらと生きていた。それに対して今は、私達が私達だけでしっかりと立てるように前を向いて生きている。

 日に日に、と言う程に毎日成長を実感出来ている訳でもないけれど、過去の私と比べれば、その濃密さは水と蜂蜜程に違うものだと思う。

 ……そんな事を思うと同時に、いつも私は母に対して申し訳なくなるのだけれど。

 私は、母に守られていたから怠惰になっていたのかもしれないし、そんな私が不安だったから母は過保護だったのかもしれないけれど。今となっては、母の全ては胸元に下げたこの牙と、私の記憶の中にしか残っていない。

 ……やっぱり、少し寂しくなる。


 アコニが僕に身を寄せた。

 あの日、僕がアコニの腹に顔を埋めて寝てからと言うものの、共に歩きながらでも、共に寝る時でも、半ば無意識と言った感じにそうして来る事があった。

 もう僕とアコニは上辺だけの関係じゃなくなったんだな、って嬉しく思うと同時に、それでもアコニは何か寂しさのようなものを感じているのだろうと思う。

 多分それは僕とアコニがどう生きてきたかの違いから来るものなんだろうけれど、深く考えるのはやめていた。その差は埋められるものでもないし、それに何より、このまま冬になったらアコニと身を寄せ合って寝たいという欲望がある。

 あるにはあるんだけど……寝ぼけて噛まれるなんて事、万一にもあってはならないからなあ。

 だからこそ、あの時以降、本当にくっついて寝たりとかまではしていないし。

「……うーん」

 何か良い方法か、それともアコニの毒に耐性を付けられるなんて事、ないだろうか。

 声を出した僕に、アコニが振り向いた。

「毒蛇とかの毒ってさ、ほんの少しずつ、死なないくらいに毎日身に受けてたら、その内耐性が付くって聞いた事があってさ」

 アコニはその時点で思いっきり首を振っていた。

「分かった分かった。

 でもさ、これから冬だし、身を寄せ合って寝たいって思うんだよね」

「グゥ〜〜……」

 何とも困ったような声を出してきた。


「別にさ、でっかい熊の毛皮が二枚もあるんだから、それぞれそれを被って寝れば暖かいんだろうから単純に僕のわがままなんだけど」

 そういうソロシーの口調は諦めながらも何とも残念そうで。

「アコニの口を僕の都合で不自由にさせるのも嫌だしさ。

 そうだなあ……祝福というものがあるなら、本当に何よりも毒が効かなくならないかなぁ」

 祝福。生き方が縛られる代わりに、力を与えてくれるもの。

 私は……なんだろう。喋れる口が欲しいって思ったりもするけれど、ソロシーは私の思っている事をかなり察してくれるし、そこまで困ってない。

 やっぱり、こうしていつまでも一緒に生きて……一緒に死にたいなあ。

 首を振った。

 何考えてるんだ、私は。

 そんな私に、ソロシーは何も言って来なかった。

 ……こういう時に何も言われないと、全部見透かされてるような感じになるからやめて欲しい。

 逃げるように木を爪で引っ掻いて、縄張りを示した。

 狼のマーキングの臭いが強くなっているところに、小便で上書きもした。


 元々のアコニとその母親の縄張りはかなり広くて、こうしてのんびりと歩いて回っていると、半日くらいは普通に掛かる。

 けれど、縄張りを示すのはやっておけとトケイさんに言われた。

『寝床の近くに罠を仕掛けるだけじゃ、身を守るには余りにも役不足だ。そこに居ますよって叫んでるようなもんだしな。

 だからこそ、周りにちゃんと縄張りを示しておかないといけない。特に一回噛みつかれたら何だろうと殺せるムシュフシュの縄張りに好き好んで入ってくる輩が、縄張りのどこに居るのかも分からない、なんてそれだけで強い恐怖だしな。

 まあ……要するに、そんな縄張りにずかずかと入って手柄を挙げてやるなんて意気揚々に吠えるバカは、ただの無知な馬鹿だって事だ』

 ……本当にオナモミとか言うワーウルフの事を嫌ってたんだなあ、と。

『で、ナイトメアの毒も貯めてあるんだろ? それも使って適当にそれで罠でも作っておけ。気付いたらムシュフシュの縄張りで悪夢を見せられながら眠っていた、とまでいけば、少しでも命が惜しい奴は近付いて来ないだろうよ。

 ただ、設置した場所は忘れるなよ?』

『……それは騎士からも口を酸っぱくして言われましたよ』

 多くの人が狩りをするような場所だと、ここには罠が仕掛けてありますよ、と印を付けたりするものらしいけれど。

 トケイさんとかワーウルフはかなり鼻が効くから、そういうのには殆ど引っかからないし。それに無窮の森に住むような強い獣達は、そんな印もすぐに察してしまうのだとか。

「じゃあ、ここ辺りにでも仕掛けておこうかな」

 僕でも少しは揺らせるくらいのまだ若い木。座って休むには丁度良いようなその根本に仕掛けておいた。


「忘れないように、と。えーっと、大きく二股に別れた大木。紅葉の木。あ、猪の頭蓋骨なんてある。そうだな……これを」

 ソロシーがそれを手に持つと、木の低い場所にある枝に引っ掛けて、ナイトメアの毒を内外に塗りつけた。

 ……人間もワーウルフも、嫌らしい事ばっかり考える。

 珍しいとか思って鼻で突いたりしたら、気付いたら眠くなっている訳だ。

 何でも一噛みで殺せるような毒を持つ私が言える事じゃないのだろうけれど、それにしても。

 ……母は、そんなものからも私を守ってくれていたんだなあ。

「じゃあ、行こうか」

「グゥ」

 でも、それでも。私はそういう方法に頼ってでも早く、強くならなければいけないのも事実だった。

 それは……私は、母のようにはならないという事。違う道を歩いていくという事。

 不安はあるけれど、そんな大したものでもない。

「……ん?」

 ソロシーが空を見上げた。

 どんよりとした曇り空。湿り気も強いから、雨は降ってきそうな雰囲気ではあったけれど。

 ぽつ、ぽつと降り始めていた。

「ここ辺りに雨宿りが出来る場所ってある?」

 私は古い記憶を掘り起こす。最後にここらを通ったのは母と一緒に歩いた時。雪がまだ僅かに残っていた、ソロシーと出会うちょっと前。

 母……。いや、そうじゃなくて。

 ちょっと遠いけれど、岩場にあった穴で一晩を過ごしたのを思い出した。その時は中に居た狼を母が追い出したんだっけ。というかあの場所はどう見ても狼の縄張りだったし、子育てもしていたような気がするし、……今の私達が行ける場所じゃないな。

 それに甘いのかもしれないけれど、幾ら私が強者になろうとも、雨宿りしたいだけでそんな誰かが子育てしているような場所にまでずかずか入り込みたくはない。

 私は首を振った。

「そっか」

 そう言うと、ソロシーは服の後ろに垂れ下がっていた部分を頭に被った。

 ああ、それ、そう言う用途だったんだ。

「これだと雨が染みるんだけどね。さっさと済ませようか」

 うん。

 私は足を早めた。


*


「あー……」

 結局、雨はざあざあ振りになって、アコニの寝床に戻ってくる頃には全部びしょ濡れになってしまっていた。

 もう冬が近付いてきている季節。体がとても冷えている。

 びしょ濡れになった服を脱いで、雨避けの下でさっさと火を起こして温まる。

「うー、温かい」

 アコニも身につけていた袋を下ろすと、僕の隣に座った。

 ぱちぱち、ぱちち。

 ばつつっ、ばつ。ざぁざぁ。

 火が小さく弾ける音と、強い雨の音。でも、静かだった。

「雨具も作らないとなぁ……」

 雨具に関しては余り知らないんだけど。トケイさんとかに聞けば作り方を教えて貰えるだろうか。

 いや、狼は雨が降ってても普通にしてるし、必要としていないかもしれない。

 こういう時は毛皮とか鱗とかが羨ましくなる。

 体が震える。火の当たっていない背中が冷たい。

 アコニが僕に毛皮を当ててきた。

「……びしょ濡れだよ」

 そう言うと、離れた。

「まあ……お茶でも飲もうか」

「グゥ」

 洞穴の中から鉄鍋と木をくり抜いて作った器と、茶に出来る野草を乾燥させたものを持ってくる。

 取り敢えず雨水が溜まるのを待つ。川にまでなんて行ってられないし。

 ……鉄鍋だけはトケイさんが持ってきてくれたけれど、他の金属製の調理器具は全部取られてしまった。

 だから、火にかけられるものとかは、後は粘土とかで作った脆い土器だけ。

 本当になーんで、そんな金属ってだけで持っていくかなあ。トケイさんの装備も全部植物や鉱石から出来たものばかりで、文化があるとは言えそのレベルはどうしてか、かなり低い。

 やっぱりワーウルフも何か生き方を固定させられているんだろうか、と少し疑う。

 人間より強い肉体をしているのに、人間より弱い。軍隊とかが本当にこの森を切り開こうとしたら、多分、普通に蹂躙されて終わる。ここの更に奥に何が待っているのかは分からないけれど、少なくともここまでは簡単に切り開かれてしまう。

 まあ、そうだとしても。別に聞いたところで返って来ないだろうし、良い事にもならなさそうだから、トケイさんにも追求しようとは思わないけれど。

 水も溜まって、鍋を焚き火に乗せた。


 鍋を眺めていると、段々とその底に泡が出来てくる。

 その泡は空気ではなくて水なんだとか。冷たくなると雪や、氷みたいに固まるけれど、熱くなると空気のようになるんだとか。

 雲ですら水で出来ているのだと言うから、水だけでも不思議な事ばかりだ。

 ざああ、ざあああ。

 ぽこ、ぽここ。

「…………」

「…………」

 特に、こんな雨の日は見てて飽きない。

 ソロシーが隣で葉を器に入れた。沸騰し始めた頃に、鍋からその熱くなった水……お湯を器に注ぐ。

 すると、葉の色がほのかに水に映って、いい匂いが立ち込めた。

 ずず……。

 ソロシーは少し冷ましてから飲んでいた。

「ふー……」

 果物のような甘さや肉のようなしっかりとした美味さがある訳じゃない。でも、ただの水を飲むよりよっぽど美味しいんだから、これもこれでとても不思議だ。

 がさっ、がささっ。

「ブルルッ」

 ナイトメアがやって来た。雨避けも、ナイトメアやトケイの分まではソロシーは作っていないのだけれど。

 雨に濡れるのは構わないようで、けれど茶に興味があるようで寄越せと頭を雨避けに突っ込んできた。

 ソロシーは器をもう一つ出して来ると、それに茶を注いだ。

「熱いから気をつけてね」

 そう言ったけれど、案の定すぐさま舌を入れて跳ね跳んだ。

 あはは。ばーか。

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