霧払

1. 祝福

 狼の嗅覚と膂力。人の手と論理に基づいて考えられる頭。

 正しく、ワーウルフは人の上位互換だと僕には思えていた。けれどそれは同時に、どうしてこんな森の中でひっそりと、そして金属も持たない低水準な文化で暮らしているのかの疑問に繋がる。

 また、それは同じくして騎士が熊をも両断した膂力を持っていたかと同じ理由なのだろうとも。

 この世には、祝福と呼ばれるものがあると言う。

 そんな曖昧な言葉で形容される現象は、その現象そのものも曖昧だ。

 人であろうと獣であろうと、極々稀に発現する力のようなもの。

 とある牛飼いは、牧羊犬を使わずとも多種多様な声を使い分けるだけで牛を見事に統率させて見せた。

 過去に天馬とまで呼称されたある馬は、幾多の戦場を無傷で駆け抜け、山羊のみが登るような崖さえも容易く登って見せたと言う。

 ある泥棒の前には、どんな罠も鍵も通じなかった。稼業から手を洗い、晩年にひっそりと鍵職人達の前に現れた時、彼は未だ誰にも知られていない構造の鍵を簡単に外してみせた。

 遥か昔、悪趣味な闘技場で飼われていた豹は、年老いてその牙がぽろりと落ちるまで、無傷のままに数多の挑戦者の喉笛を食い千切り続けた。

 優れているから、才能があったから。そう片付けるには流石におかしいような事象を起こす個が稀に居た。

 遺伝もしない。法則も分からない。ただ、祝福を受けた者は決まって生き方を変える事は無かったと言う。

 そして、生まれながらにして祝福を身に受けている種族というのも居るらしい。

 ドラゴンや麒麟、フェンリルや鵺と言った、人里には現れない、しかし確実に存在だけは確認されている種族は、生まれながらにして摩訶不思議な力を発揮出来るのだと言う。

 要するに祝福とは、もう少し噛み砕いて言うならば、自らの生き方に沿った力を与えてくれるが、その生き方に自らが固定されるもの。

 ……騎士はきっと、祝福を受けていた。多分、騎士自身が気付かない内に。今となって思えば、流石にそうでないとおかしいと思う事が幾つもあった。

「祝福、かぁ」

「グァ?」

「……アコニ。もし、生き方が固定される代わりに何かしらの力を得られるって言われたら、どうする?」

 高山に咲くという、強烈な毒を持つ、けれど綺麗な花の名前。

 ムシュフシュの名前はそれにした。ムシュフシュは見た事も無く、僕も図鑑で知っているだけの花。

「…………?」

「そうだよね。曖昧過ぎるよね」

 まあ、今の僕達にはもう余り縁の無い話だ。

 ……アコニウム。この何でも豊かな無窮の森でもまだ見た事のない花。

 いつか、一緒に見に行きたい。

 そんな事を話したらムシュフシュはその名前に頷いてくれた。

「さて、着いた着いた」

 元々の僕と騎士の寝床も、また使えるようになった。……物色しに来たワーウルフ達に結構な物を奪われてしまったけれど。


 ソロシーが荷物を解く間、私も身につけていた装備を外す。

 木の葉の色が鮮やかな夕日の色に染まる。

 一日に一回は水を浴びないと気が済まなかった夏。ソロシーが毎日のようにだらだらと汗を掻いていた夏。

 そんな夏はトケイがゲームに入ってきた事で、気付けばあっという間に終わってしまっていた。

 ソロシーが遠くから飛ばした矢を簡単に弾き飛ばしてみたり。風下から近付いても、まるで分かっているように槍を向けられたり。

 私とソロシーの板にはもう全く新たな線が刻まれる事はなく、トケイの板に十も二十も、それどころか私の手足の指の本数の何倍もの数が刻まれていく。

 そもそも能無しに、しかも後ろからトケイが迫ってくるという状況の中で焦って恨みを晴らしに来たワーウルフと、住む集落の中でも屈指の実力を持ち、そしていつでも落ち着いているワーウルフでは全くの別物だという事を何度も何度も思い知らされて。

 尻尾を使って色々と試みても、余裕綽々で捌かれながら『そういう事はな、ちゃんと身についてからやるもんだ。お前があの時鉈を当てられたのは運が良かっただけだ』と窘められたり。

 初めての勝ち星は、蒸し暑い雨の中、ソロシーが自分の臭いを消すためにわざと泥塗れにまでなった時だった。

 次の勝ち星は、尻尾で扱えるような武器の中で、私が気に入っていたブーメランをソロシーに幾つも用意して貰って、それを私が幾つも持ち歩けるように熊の毛皮での袋も作って貰って。

 一気にばら撒きながらソロシーの弓矢で狙えば、流石に幾つかは当たった。

 けれど、そんな最初しか通じないような方法だったり、半ば捨て身の方法じゃないと、トケイには私達では勝てなかった。

 そうして今、手元にあるのは四本だけの線が引かれた私達の板。

 ナイトメアは結局、そんな私達に付き合おうとは思わなかったみたいで毎日を呑気に過ごしているし。

 けれど、夏の前のように、私達を守ろうと振る舞う事はもう無くなっていた。

 私達は、もう少しだけは成長出来ているようだった。

 トケイにどうやったら触れる事が出来るのか。そればかりを毎日考えている内に、身の回りの事をより精緻に感じられるようになった。

 風下に居ようと、風向きは気紛れに変わってしまう。時にはそうして居場所がばれてしまう事もある。けれどそこには少なからず規則性のようなものがあった。獲物を狩る時だけではなくて、常にずっと五感を張り巡らせていたら、何となく、少しずつその大きな流れというか、森そのものの呼吸というか、そんな言葉で言い表せないようなものが感じられるようになってきていた。

「ねえ、アコニ。今日の分ね」

「グゥ」

 ソロシーが枯れ木を集めてきていた。太いものは鉈で切って燃えやすいようにしておく。

 尻尾での鉈の扱いをもっと上達する為に、そういう事は私がやるようになった。

 ……さて。

 今日も勝てたのだ。私は板に爪を引っ掻いて五本目の線を付けた。

 袋の中にそれを戻して、洞穴にしまう。

 冷たい風が吹いてくる。冬が近付いて来ている。


 太い枝を選んで、地面に突き立てる。

 尾にしっかりと絡めた鉈を構えて、ひゅっと叩きつける。

 スパァンッ。

 最初はすっぽ抜けたりとか良くしたものだけれど、今となってはもう自らの体の一部のように扱っている。短剣を投げる事も、ブーメランを複雑な軌道で投げる事も、本当に乾いた砂が水を幾らでも飲み込んでいくような勢いで習熟していった。

 狩りはあんなにも下手な時間が長引いた癖に、と思わないでもない。

 その間に夜ご飯の準備と、ついでに保存食作りもする。

 ……結局、僕達はワーウルフの集落に行く事もなければ、これからもそれはきっと変わらない。

 何だかんだで僕達は、疎んじられていたとは言え、二人のワーウルフを殺す起因になった。片方は僕達が、そしてもう片方はトケイさんが。

『色々話して来たんだがな、やっぱりお前達をこっちで庇護する事は難しそうだ』

『トケイさんは……大丈夫だったんですか?』

『まあ、な。俺がお前達に入れ込んでる事は分かられてたし、それにあいつらも疎まれていたからな。

 罰はあるが、多少だ、多少。そんな気にする事じゃない』

 自然体でそう話したトケイさんは、その後も僕達をこの森の中で生きられるようにして協力してくれた。

 ただ……その身に付けていた装飾は全部外されていた。逆に言えばそれだけで、指を詰められたりだとか、尻尾を切られたりだとか、そんな事まではされていなかったのだけは幸いだった。

 一生消えない傷なんて付けられていたら、僕達はそれをどう返して良いのか、今でも悩んでいただろうから。

 夜ご飯は焚き火の下に大きな葉で包んだ肉やら木の実やら香草やらを入れて、蒸しておく。

 保存食は別に肉や魚をその上で燻しておく。塩を効かせなきゃ腐る可能性は高いと思うんだけど、そうするとアコニが食べられなくなってしまうから、その代わりにトケイさんから教えて貰った虫除けの草やらをたっぷりと効かせておく。

 そんな事をしている内に、アコニは木を切り終えて、薪の置き場に引きずっていく。

 それも終えると、短剣を一つ持ってきて、木に吊り下げた的に向かって尻尾で投げつけ始めた。

 ざくっ。

 何気なく投げた割には中央に刺さる。

 ……アコニには、狩りよりそっちの才能があるんだろうな。

 僕達が出会っていなかったら、芽生えていなかったかもしれない才能。


 日もすっかりと暮れた頃。

 焚き火を一回どかして、ソロシーが草に包んだ肉を取り出した。

 開けば、もわっと匂いが飛び出してくる。

 生の肉とはまた違った、木の実や草の匂いも混じった、とても良い匂い。

 それを、ソロシーが新しく作った石の短剣で切り分けて半分以上を私に渡す。

「はい」

「グゥ」

 私の方が食べる量が多いとは言え、少し申し訳なくなる。

 狩りも上達したけれど、結局私は毒でしか獲物を殺せないから。

 短剣やブーメランも、最終的には私の毒がなければ致命には至らない。鉈だけで狩りが出来るようになれば、私の狩った肉をソロシーも食べられるようになるだろうか。

 ソロシーはそれに塩を掛けて食べていた。

『人間っていうのは、汗っていうものを掻くんだ。アコニは体が熱い時、口を開いて体の熱を出すでしょ?

 人間はそれを汗で調節するんだ。……どうしてそうなったのかは良く分からないけどね』

 その汗とやらは舐めてみたら結構しょっぱかった。

 ワーウルフより良く分からない生態をしてる。

「それで……ムシュフシュって、冬は大丈夫なの? 僕達人間は色々毛皮を羽織ったりして凌ぐんだけどさ、その胴体はともかく、尻尾と頭は毛皮がないし、寒いでしょ」

 私は火を軽く吹いた。

「あ、なるほど。元から木を集めて火を焚くようにはなってるんだ」

 そこまで寒い事は、この前の冬は余りなかったけど。沢山食べて、母と共に丸まっていれば大体の寒さは凌げていた。

「まあ……この無窮の森は、冬もそんな静かじゃないみたいだし、ちゃんと備えておけば大丈夫だと思いたいな。

 前の冬も食べるものにはそんなに困らなかったしね」

 冬というのは、この森の外では本当に静かな季節らしい。

 動物も少なく、植物までもが眠りに就いてしまう季節。土地を開拓し、植物や動物を育てて生きている人間は、大雨が続いたりという空の気紛れだけで冬に飢えてしまう事があるのだとか。

 良く分からないけれど……うん、良く分からない。


*


 夜になっても今日はトケイさんも戻って来なかったし、ナイトメア……ヒマワリも来なかった。

 燻した魚と肉を籠の中で干して、寝る準備も整った。

 アコニは洞穴の前で、僕を待っていた。今日も話を聞きたいのだろう。

「今日は、昨日の続きにしようか。えっと……王子様が鳥にお姫様がカエルになったところだよね」

「グゥ」

 もう半分以上はネタ切れだったりするんだけど。

「鳥に変えられてしまった王子様は、毎日のようにお腹を減らしていました。綺麗に飾り付けられた料理の数々。新鮮な果物や野菜。そんな、人の手が入った料理しか食べた事のなかった王子様は、リスやネズミをそのまま食べる事はおろか、虫が穴を開けた果物や木の実すらも口に入れるのを躊躇ってしまう程でした。

 カエルに変えられてしまったお姫様もまた、同じでした。

 けれども、そんな事も時が経つに連れて言ってられなくなってしまいました。

 空腹は人であろうと鳥であろうと、カエルであろうと、意識を狂わせていきます。

 王子様はふらふらと今にも落ちそうにしながらも、もう何でも良いからと食べられるものを探していました。

 そして、その目下には一匹のカエルが居たのです……」

 ごくり、と唾を飲む音が聞こえてきた。

 ……話、新しく作ってみようかなあ。

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