9. 静穏

 ……暑い。

 目が覚めて一番最初に思った事はそれだった。

 でも、とても心地良い眠りに就いていたのは間違いない。中々長い時間寝てしまっていたようで、寝ながら見える景色はもう夕方の傾き始めた陽の色に染まっている。

 でも、体を起こすのはとても躊躇われた。

 脇腹に何かが乗っていた。それは僕が頭を乗せているムシュフシュの胴と息遣いの動きがしていて。

 僕の脇腹にムシュフシュの頭が乗っていた。それから尻尾も僕の足に巻き付いているのが分かる。

 要するに、僕がムシュフシュの腹に埋まって寝たら、ムシュフシュは僕を抱くような形になって寝たのだろう。

 ……まあ、トケイさんは近くに居るだろうし。

 暑いけれど、もう少し寝てしまおう。気持ち良いし、二度寝は出来そうだった。


*


 ……暑い。

 目が覚めて首を持ち上げたら、子供はまだ寝ていた。

 まだ私の後ろ足を掴んで、私の腹に頭を埋めて、すやすやと寝息を立てている。

 もう日が暮れようとしている。随分と長い時間を寝てしまっていたようだった。

 ……それにしても、まだ寝ているとは。私の想像以上に随分と子供は疲れてしまっていたようだった。

 辺りを見回せば、ナイトメアが居た。私が寝る前から動いていないようで、じっと私達の方を眺めていた。

 ただ、トケイは居なかった。見回りでもしているのだろう。

 私はともかくとも、このソロシーを置いてどこかに行ってしまうとは思えなかった。

 だったら……また寝てしまおうか。

「……クァ」

 暑いけれど、まだ寝れそうだった。


*


 トケイと呼ばれているワーウルフが戻ってきた時。

 その両腕には果物が抱えられていた。

「……まだ、寝ているか」

 少し呆れた声。

 一度はそれぞれ起きたのだけど。片方が寝ていると分かるとまた寝てしまった。

 そのトケイは、僕の前に来るとしゃがんで抱えていた果物を置いた。

「あいつらを守ってくれたようで、本当に助かった。単なるストーカーとしか思ってなかったが……撤回する」

 まだこのトケイやソロシーが言っている声の内容までは良く分からないんだけど……何か失礼な事を言われた気がする。

 でも、受けた傷も何だかんだで意外と痛まなくなっているし、やっぱりこのトケイは信用して良いんだろう。

 果物を一つ、食べた。高い木に良くたわわと実っていて、時々落ちているのを食べるしかなかったそれ。今まで食べたどれよりも瑞々しかった。

「……ブルルッ」

「それじゃあ、起こすのはもう暫く後にするか」

 トケイは座ると、寝ているソロシーとムシュフシュをぼうっと眺め始めた。

「……ここまで信頼しきれるものなんだな……」

 驚くような、見直すような、そんな声。どんな事を言っているのか、言葉が分からなくても、流石に僕でも分かった。

 ……出来れば、僕が巻かれたかったなぁ。


『僕の父親は、民衆に嫌われるような理不尽を強いていたとは思えなかった。

 確かに僕はこれまでの大半を城の中で過ごしてきたけれど、ここにまで逃げ惑う中、革命が起きたと言えども、聞こえて来る人々の声は少なくとも喜びに満ち溢れたようなものじゃなかった。

 誰もが革命が起きた理由を好き勝手に想像して、そして莫大な懸賞金が賭けられた僕達姉弟を好き勝手に探していた。

 ……皆が皆、ただそれだけだったんだ。

 僕も騎士も誰も革命が起きた理由なんか知らなかったし、その後どうなるかも知らなかった』

 何があってここまで逃げ延びてきたのかを聞いた時のソロシーの言葉だった。

 この歳で経験した事柄は、俺なんかより何倍も濃密で、壮絶だ。

 それが今、とても穏やかな寝顔を俺の目の前で見せていた。ムシュフシュを抱いて、ムシュフシュに巻かれながら。

 寝ぼけて噛まれたりしないんだろうか。もしそんな事になったら、と思うと気が気でないし、今すぐにでも引っ剥がしたくなるんだが……もう、こうして寝る事も日常なのかもしれない。

『……騎士に聞いた事があるんだ。

 どうして僕を守ってくれるのか。僕にそれだけの価値があるのかって。

 …………とても悲しそうな顔をしたのを、今でも鮮明に思い出すんだ。

 そんな事を言うんじゃない。そんな事、子供は考えなくても良いんだって、ゆっくり、ゆっくりと諭された。

 でも……でも、今でも時々考えちゃうんだ。僕がさっさと死んでいたら、騎士はこんな場所で命を落とさずに済んだんじゃないか。そしてもっと沢山の人を守れるような価値のある事を出来ていたんじゃないか。そして、それに見合う価値を、僕はどう考えても持っていないって事を』

 俺には分からない。

 狭い場所で狭い価値観の中で生きてきた俺には、このソロシーという人間が抱く疑問への答えなど渡せるはずもなかった。

 そんな俺が出来る事と言えば、この森の中でムシュフシュ共々生きていけるようにする事。それまでの間、守る事。

 その程度しかなかった。……それも満足に出来なかった訳だが。

「はぁ……」

 少なくとも、俺はこの穏やかな寝顔をまだ見る事が出来ている。

 ごくん、とナイトメアが喉を鳴らした。

 ……もう食べ終えたのか。

 日もとうとう沈もうとしている。

 近付いて、少しだけムシュフシュに素手で触る事に躊躇って。槍を手に取った。

「……おい、起きろ。流石にもう夜だぞ」


「……あ、トケイさん」

 気付けばもう殆ど真っ暗。槍の石突で突かれていた。

「グゥ」

 ムシュフシュも起きた。

「う、ん……」

 共に体を起こせば、共に伸びをした。体からぽきぽきと音がなる。

 汗もたっぷりと掻いていた。でも、気持ち悪いものじゃなくて。とてもすっきりしていた。

「水でも浴びてこい。火も起こしておくからさ」

「え、大丈夫なんですか?」

「ああ、保証する」

「……はい」

 トケイさんは深くを話そうとはしなかった。ムシュフシュも一度臭いを嗅ぐけれど、それ以上は何もしなかった。

 多分、そのもう一人もどうにかしたのだろう。最悪、殺したのだろう。

 僕達……僕の為に。

「じゃあ、行こうか。君も喉乾いたでしょ」

「グゥ」

 ムシュフシュは頷いた。


 小川までの道のりをゆっくりと歩く。後からナイトメアも付いて来ようとしたけれど、トケイに傷跡を触られて止められていた。

 そのトケイからは、僅かながらも血の臭いがした。はっきりとまでは分からないけれど、多分、私達が殺したワーウルフとは別の。

「借り、とても大きな借りを作っちゃったね」

「…………」

 トケイがそのもう一人のワーウルフを殺したであろう事は、ソロシーも分かっているようだった。

 けれど、それを借りと言うにはどうにもしっくり来なかった。

 ソロシーが言及したところで、トケイは何も答えてくれないだろう。言ったとしても『俺の好きでやった事だ』とか言いそうな気がした。

「早く、強くなりたいけど。焦ったところで良い事もない、かぁ」

 結局。私達は、私達だけでは長く生きる事は出来なかったのだろう。

 トケイがあの時気付いていなかったら、叫んでくれなかったら、少なくとも私かソロシーか、それともナイトメアかが犠牲になっていただろうし、最悪全員死んでいたかもしれない。

「でも……焦る必要はもう、無いよね?」

「グゥ」

 身近な脅威はもう、ない。それなら少しずつ、少しずつ成長していけば良い。

 そのはず……だろう。

「まあ、今日は取り敢えずゆっくりしようか」

 川まで着けば、そこには誰も居ない。一応確認してから、ソロシーは服を脱いだ。

 ……相変わらずでかいこと。


*


 戻ってくれば、トケイさんがナイトメアに話しかけていた。

 ナイトメアは耳を傾けているけれど、意味は分かってないようで。

 トケイさんが振り向いた。

「こいつの名前、ヒマワリな」

「ヒマワリ……? 何か理由でも?」

「いや、何となく。名前なんてそんなもんだろう。それに無いと不便だしな」

「そういうものですか」

「ムシュフシュもな、お前、しっくり来る名前なんて考えていたらいつまでも決まらないぞ」

「グゥ……」

 少し悩んだ後、ムシュフシュは僕を見てきた。

「……僕? 僕が決めろって?」

「ウルルッ」

「そうかー……」

 いきなり言われても中々思いつかないけれど。

「取り敢えず腹減ったろ。熊肉もまだ残ってるし、食いながらゆっくり考えれば良い」


 ソロシーは半分ぼーっとしながら、私の名前を考えているようだった。

「ムシュフシュはね、意外と人と生きた記録が結構あったりするんだ」

「へぇ……」

「時には金属の鎧を身に着けて、人と人との戦争に駆り出されたり。

 共に暮らした人の墓を死ぬまで離れなかったり。そういう物語が、僕の知るだけでも五つくらいはある」

「そういうの、聞かせてくれよ。俺達は時々外の世界を見に行く奴も居るには居るが、それでも疎い事には変わらないからな」

「……僕も、そんなにちゃんと覚えている訳じゃないですけど、それでも良いなら」

「十分十分」

「じゃあ……悲しい話と、平穏な話と、……えっと熱い話と、温かい話と、何が良いですか?」

「グゥ」

「え? じゃあ、悲しい話? 違う? 平穏な話……それ?」

「ルルッ」

 こんな日には、辛い話とかはもう聞きたくない。

「じゃあ……昔々あるところに、年老いた漁師の男が居ました。

 彼は口を聞けず、また感情を表に出す事も苦手だった為、これまでの日々の大半を一人で過ごしていました。

 そんな彼にも、心を許せる相手が居ます。それは海に出た後におこぼれをせがみに来る猫達でした」

 ……ソロシーはそんな話を、私が言葉を理解出来ていない内から何度も幾つも私に聞かせていた。

 内容が理解出来なくても、何だろう、そうしてソロシーの声を聞くのはいつしか好きになっていた。

「ある時、漁師がいつものように漁に出ると、木の破片が数多に流れてきました。

 人の死体もいくつか紛れています。どうやら、どこか近くで大きな船が事故にでもあって大破してしまったようでした。

 何か珍しいものでもあるかもしれない、と男はそれを眺めます。

 すると、その中でまだ辛うじて生きているような動物が居ました。木の破片にしがみついて、けれど今にもずり落ちてしまいそうです。

 男はそれに向かって、必死に船を漕ぎました」

 どうしてか、また眠くなってきた。あれだけ寝たというのに。

 ……もしかすると、私はまだ緊張していたのかもしれない。寝ている間も、私はまだ。

 こうしてソロシーの話を聞いて、私はやっと全ての緊張を解けたのかもしれない。

「犬か何かと思っていたそれは、それよりも大きなムシュフシュでした。

 しかし、男はそのムシュフシュが強い毒を持っている事なども知らないままに、ただただ助けようとします。

 手を伸ばしてその前脚を引っ張り、どうにかして船の上に乗せましたが、ムシュフシュは助けられても殆ど身動きさえ出来ませんでした。牙の毒も知らない男はその口を開かせて、水を飲ませました。そうして、ほんの少しだけ活気を取り戻したムシュフシュに、持ってきていた弁当も全て食べさせました」

 ソロシー……。私は……ソロシーを……。

 …………。

「……あれ」

「……寝かせておこうか。続きは明日だな」

「ですね」

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