5. 初夏

 小鳥の囀り。まだ涼しい、湿気た風が洞穴の中まで入ってきていた。

「……クゥ」

 ……夢を見ていた気がする。楽しくて、懐かしくて、けれど新しくもあるような夢。

 悪夢じゃない。顔を上げれば、ソロシーはまだ穏やかな寝息を立てていた。

 ……まだ、起きなくて良いか。

 夢の続きを見れると良いなと思って、また頭を埋めて目を閉じた。

 …………。

 頭と尻尾の位置をちょっと変えてみる。

 ……………………。

 二度寝は出来なさそうだった。

 仕方なく体を起こす。欠伸を一度。背筋を伸ばして、全身を解した。

 壁に干してある果物を一つ、食べる。

 むち、みち、むちぃ。

 初めて食べたのは、随分前の事のように思える。

 もうその時のような感動は覚えないけれど、相変わらず干した果物というのは中々に美味しい。

「……あー、おはよう」

 ソロシーも目を覚ました。ごくん、と飲み込んでから「グゥ」と返す。

 のっそりと体を起こせば、早速弓矢と鉈を装備する。洞窟の奥にはもう、ソロシーの作った道具や罠が他にも色々積み上がっていた。

「ふぁ〜〜あ」

 共に欠伸をしながら外を出れば、太陽はまだ顔を見せていなかった。

「日も延びてきたね」

「ウル」

 返せば、ソロシーはどうしてか私の体をじろじろと眺めてきた。

「君も少しは大きくなったんじゃない? 初めて会った時から、うん、この位は大きくなった気がする」

 ソロシーは、丁度自分の頭くらいの幅を手で作って示してみせた。

 春から夏になったくらいなのに、そんなに伸びるものだろうか?

 それに、そう言うソロシーだって、随分とたくましくなった。身長とかはそんなに変わらないけれど、何というか……目付きが良くなった感じがする。

「お互い様って事で良い?」

「グァ」

「そうか、そうだね」

 若干嬉しそうにソロシーは頷いた。

「それにしても……暑くなってきたね」

「グゥ」

 夏が来ていた。


 こっちの寝床の周りにも作った罠の隙間を抜けて、まずは水を浴びようと川辺まで歩く。

「まだ、名前は決まらない?」

「ウゥ」

 ムシュフシュはまだ、と首を振った。

 ……ムシュフシュは結構な言葉を理解するようになった。五十日くらいだろうか、それだけでもう僕が難しい言葉を使ったりしなければ、長く喋っても大体の意味は理解するようになってしまった。

 毎日色んな言葉を教えたけれど、それにしたって早い。外国語も少しは学んだ事はあるけれど、隣国だから多少似通っている部分はあるとは言え、ムシュフシュのように五十日程度で日常会話は聞けるようになるとか、そんな事は全くなかった。

 比較するにしては色々と違い過ぎるけれど、それにしても早い。

 ムシュフシュは辺りを見回す。まだ言葉として分からないものがあれば、積極的に理解しようと励んでいる。

 言葉を教え始めてから、こうやって辺りに分からないものが無いか、きょろきょろとする事が多くなった。

 それから、ゲームももう僕が負ける事の方が多い。言葉を覚えるに従ってぐんぐんとゲームの勝率も狩りの成功率も上がっていったのだけれど、言葉を覚える事で何か気付いた事でもあったんだろうか。

 そもそも、言葉を使わない思考がどういうものなのか僕達には分からないんだけど。

「ウルルッ」

 ムシュフシュが何かを見つけたようで、付いて来てと喉を鳴らした。

「何?」

 付いて行ってみれば、花が咲く準備をしていた。

「ああ、これはヒマワリだね。種を炒ると美味しいらしいんだよね」

「……グ?」

「あ、えーっと……ああ、炒るってどういう意味か?」

「グゥ」

「えっと、なんて言えば良いんだろう。炎に直接当てないで熱する? うん、そんな感じ。

 ……種が取れたら見せるよ」

 うん、良く分からないよね。ごめん。

 ……無窮の森。もう、ここに来てから多分一年の三分の二くらいは過ごしてきた訳だけれど、入る前に想像していたようなおどろおどろしく、陽の光も通らないような雰囲気は全くなかった。

 僕の知るような植物だって幾らでも生えているし、動物だって大半は見知ったものばかり。そこに時々ナイトメアとかムシュフシュとか、それからワーウルフとかの、人並みに知性を持って人以上に優れた肉体を持つ生き物が居る訳だけれど。

 そう言う人を圧倒出来るような生き物が居るからこそ、人々はこの森を恐れているんだろう。

 でも、そういう生き物達とも何かきっかけがあれば敵対しなくて済む。

 僕はもう、それを知っている。


 水を飲む。

 ソロシーは顔を洗って、それから川に足を踏み入れた。濡れた髪の毛からぽたぽたと水が垂れていた。

「今日は何か引っかかっているかな」

 そうして一つ二つと見ていくのに私も何となく付いていく。水の冷たさは暑くなってきた今では心地良い。

「あー……」

 残念そうな言葉を上げているのに顔を上げれば、ソロシーが壊れた罠を持ち上げていた。

「……いや、これは。誰かの仕業だ」

 そう言うと、罠を捨てて弓矢を構えた。

 私も遅れて警戒する。臭いを探れば、血の臭いが薄らとではあるけれど、川の向こう岸から漂ってきていた。

 ……水に掻き消されててすぐに気付けなかった。

「狼とか猪とかじゃない。もっと強い、熊とかだ」

 ソロシーが辺りを見回ながら、矢の一本の先を私の前に向けてきた。

「お願い」

 その矢を牙で噛む。つー、と毒が流れたのを感じてから口を離した。

「ありがとう」

 そう言って番え直せば、血の臭いがした方の先から茂みを掻き分ける音がした。

 急いで川から出て距離を取る。

 きぃ、と弓を引いていつでも放てるようにしながら、ソロシーは小声で伝える。

「ワーウルフとかそういうのじゃない。あれは、力づくで中の魚を獲ろうとした痕跡だった」

 だから、弓矢は通じる相手だろう。そしてこの矢で掠り傷でも付けられれば、熊でもまともには動けなくなるはずだ。

 ほんの少しだけ、ほっとする。あのトケイのような生き物だったら、多少成長した私達程度じゃまだ絶対に敵わないから。

 風が一筋、川の向こうから吹いてきた。

 ……あ、これは。

「グゥ」

 大丈夫だ、と私は緊張を解く。

「え? あ、ああ」

 子供も番えていた矢を外した。黒い靄が、ほんの僅かにだけれど宙を漂っていた。

 川の向こうからやって来たのはナイトメア。その前足が血に塗れていた。

 汚いものを洗うように、その前足を川の水に付けて洗う。

 ソロシーも弓矢を戻せばそれに寄って、足を洗うのを手伝った。

「ブルルッ」

 ありがとうと言うよりかは、感謝しろよ、と言うような嘶きだった。


 ナイトメアが次にやって来たのは、弓矢に逃げてから、もう来ないのだろうかと思う位には日が経った後だった。

 夕方頃に、濃い血の臭いがすると思って警戒していれば、肉付きの良い猪を引き摺りながらやって来た。明らかに草食なナイトメアがそれを持ってきた理由なんて、強いて意地悪く考えると油断させるとかその位で。

 でもそんな邪推でまた追い出す程、僕達には余裕もなかったのも事実だった。

 足を洗ってやれば、鬣も梳けというように頭を差し出してくる。

「その鬣が僕の顔に当たるだけで、僕はきっと数日悪夢を見る羽目になるんだけどな」

 そう言うけれど、ナイトメア自身もその自身が出している毒の危険性は分かっているようで、僕達の近くに居る時は尻尾や鬣を振り回したりはしない。

 全く……。

 手製の雑な櫛で梳いてやれば、それでもナイトメアは心地良さげに喉を鳴らす。

 結局、このナイトメアという凶悪な毒を撒き散らし、それでいて臆病で図々しい馬は他者との付き合い方を分かっていなかっただけだった。

「グルル……」

 ムシュフシュが不満そうな目で僕とナイトメアを見てくる。

「後で君にもやるからさ」

 まあ……何だかんだで弓矢を見せておく事はあの時の最適解だったんだろう。あのまま交流する事を許していても、きっと殺す事を選ぶ結末になっていた。

 そしてどちらにせよ殺していたら。こんな関係になっていなかったら。この櫛に溜まる粉……眠らせ、悪夢を見させる凶悪な毒を利用出来る事もなかった。

「それで、殺したのは何なんだろう。熊だったりするのかな」

 ナイトメアはまだ、言葉を理解していない。する気も余り無いようではあるというか、暫くしていれば興味があるのは僕よりもムシュフシュの方だという事にも気付いてきた。

 その事に気付けば、ナイトメアが近付いてきた理由も何となくは分かった。

『トケイさんが僕の事を見ていたように、あのナイトメアは君の事を見ていたんじゃないかな』

 そう言った時は、ムシュフシュは今までに無いような、とても微妙な顔を暫く続けていた。


 アレは結構気持ち良いのに、ナイトメアだけにされてお預けにされては溜まったもんじゃない。

 そう思うし、すぐにでもやって欲しいけれど。あの毒がたっぷり付いた櫛で私の毛皮を梳かれたら、絶対悪夢を見る羽目になる。

 ……本当に、全く。

 このナイトメアはソロシーよりも私に興味があるらしいが、正直に良い気分じゃない。

 特に、その股間からぶら下がってるソレ。ソロシーの不相応な程でかいソレと違って、その体躯に似合った、そしてソロシーのより比べ物にならない程でかいソレ。もし……もしそれが私の目の前で熱り立つ事があればそれに食らいついて……いや、それも嫌だけれど、うん。とにかく、そういう意図があるんじゃないかと思ってしまう。

 とは言え、助けられているのも事実で。

 ナイトメアが何を仕留めたのかを見に行けば、頭を踏み砕かれた熊が居た。

 脳みそが弾け飛んでいて、凄く悲惨な事になっている。丸いものが転がっているかと思えば、それは目玉だった。

「……うわぁ」

 食べれてみれば、ぶちゅぅと潰れて何とも言えない味がした。

「ありがとうね」

 ソロシーがナイトメアに頭を下げれば、ブルルッと今度は尻尾を梳けと向けてくる。

 はいはい、とソロシーはまた櫛を取り出して梳き始めた。

 実際……熊としては小振りとは言え、これに襲われていたら結構危なかっただろう。だから、このナイトメアには感謝せざるを得ない。とても悲しい事に。

「で、これ、持っていけるかな……」

 梳き終えれば、そう言ってその頭の潰れた熊を眺める。

「熊は肉も美味しいけれど、内臓が薬になるんだ。僕が君の毒で弱っちゃった時も結構助かってた」

「グゥ」

 ……それに関しては正直余り思い出したくない。

 私の心の弱さが浮き彫りにされた日だから。

 ソロシーが前足を掴む。

「う、うん……何とか引き摺っていけるかな」

 ゆっくり、ゆっくりと一歩ずつ歩いていく。

 手伝いたいところだけど、私が噛んだら台無しになるし。ナイトメアは何やってるんだこいつと言うように見ているだけだし。

 一歩一歩必死に引き摺って、休んで、また引き摺って。

「何で朝からこんな事やってるんだっけ……」

 額から汗もだらだらと。お腹からはぎゅるぎゅると音が鳴る。

 まだ川にも辿り着かない内にソロシーは一回バテてしまった。

「あー……困ったな」

「それなら手伝おうか」

 後ろから唐突に声が聞こえた。

「あ、トケイさん」

 ……全く気付かなかった。

 この前と全く同じ格好でやって来たそのトケイは続けて言った。

「流石にもう、騎士が居なくなった事が皆にばれた」

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