4. 無知

 馬術は多少なりとも学んでいた。馬の気持ちが分かるだとか、そんな大それた事は言わないけれど、走っている時に馬と僕が一心同体になったような感覚を味わった事は何度かあった。

 でも、このナイトメアは見た目こそただの大きい黒馬だけれど、馬じゃない。

 ムシュフシュと同じ、人と同じ程の知性を持っている。

 けれど、今番えているのはムシュフシュの毒が染みている矢。この距離、僕はナイトメアを確実に殺せる。

 それをナイトメアは分かっていなかった。

「……」

「……」

「…………」

 沈黙。

 そのナイトメアはムシュフシュが飛び掛かれる間合いの外で立ち止まって、僕達をじっと見ている。

 トケイさんは、このナイトメアには害意は無いだろうと言った。

 実際、目前で対峙してみてもそう思う。馬の表情なんて分からないけれど、このナイトメアからは肉食獣のような獰猛さを微塵も感じなかった。

 でも、だったら何でやって来た? 親しくなろうとでも? そうだとしても信じるに値する要素が何もない。昨晩見せられた悪夢は、単なる存在確認だったとしても本当に酷いものだった。

「グルル……」

 ムシュフシュが我慢できないように、再び唸った。でも、ナイトメアは怖気づかない。

 そう。弓矢というものが分かっていないから、という事もあるにせよ、僕達は舐められている。

『無理に強くなろうとするな。そういう奴から死んでいくんだ。

 手柄を立てようとこのムシュフシュの母親に挑んだ馬鹿達みたいにな』

 昨晩のトケイさんの言葉だ。

 毒矢で殺したところで? 得られるものもない。

 そうしてしまうのは、悪夢を見せられたというだけでは、この殺意の無さを見せられていては、余りにも早急過ぎるように思えた。

 だったら、何をすべきか?

 ふぅ、はぁ……。

 意を決して、僕は小さく呼吸をした。

 ……僕にはムシュフシュが居る。一人ぼっちじゃない。だから。

 そう言い聞かせて、僕はナイトメアに背を向けた。

 とても怖い。でも、でも、何をするにせよ言葉というもので通じないなら、せめて力量的に対等だと思わせないと何も始まらない。

 だから、弓矢というものを今、ここで分からせないといけない。

 ギッ、パンッ!

 近くの木に突き刺さる。そうして振り返り直せば、ナイトメアは明らかに動揺していた。

 ……ここからどうすれば良いんだろう。

 そう思っていたら、ナイトメアは背を向けて一目散に逃げてしまった。

 どどっ、どどっ、どどっ、どどっ。

 盛大に蹴り上げた土が顔に当たった。

「うわっ、ぺっ……。…………はぁ、疲れた」

「…………グゥ」

 ムシュフシュも疲れたように座っていた。


 ナイトメアが逃げ去った後。

 ソロシーは枯れた木々を集めてきた。私はそれに火を吹いて、共に火を囲む。

 魚を数匹渡されて、一つは一緒に焼いて、それ以外は生で食べてしまう。

 ぱちぱち、ぱちち……。

 落ち着いた時間。先程の事を思い出す。

 ソロシーがナイトメアに背を向けた時の事だ。

 あれは、私が居なかったなら出来なかった事だ。私が居たからこそ、ソロシーはあんな手段をしたのだ。

 ナイトメアが私達を傷つけるような害意を持っていなかったから、というのもあるだろうけれど。

 ……私には出来ない。

 私には、あそこまで自分の命を誰かに預けるなんて、出来ない。

 何でソロシーはそんな事が出来る?

 そのソロシーの、意志の強さはどこから来ている?

 少なくとも、私とは全く違う生き方をしてきているとは思う。ソロシーも、あのトケイとやらも、複雑な声を使って意志を共有出来る生き物達は、私が想像すら出来ない世界で生きてきている。

 ソロシーの親の、身の丈に迫る程の牙。ソロシーの持つ、短くとも同じく鈍色に輝く牙。地に足をつけない前足で握り、振り回せるようになっているそれ。牙でありながら、生き物や植物から出来たものだとも、弓矢のように色んなものを組み合わせて作り上げたものだとも思えないもの。

 それがどのようにして出来たものなのか、私には全く分からない。

 分からない事だらけで、私には出来ない事だらけで。

 ……母。

「焦げちゃうよ」

 子供が指差した魚は焦げた臭いを出していた。

 あっ、まずい。


 魚を食べて暫し休んだ後に、ムシュフシュは立ち上がって、ゲームをしようと僕に誘ってきた。

 でも、僕はそれに首を振った。

「そんな事やるような余裕、僕達にはもう無いんだよ」

 すぐに強くなんてなれない。トケイさんや、僕達の親のようになんて、十年経っても全く及ばない。

 ムシュフシュは僕の方に向き直る。

 その事をムシュフシュはきっと、内心分かっている。

 僕は目を合わせてゆっくりと言葉を紡いだ。

「僕達はとても弱いし、すぐに強くなれる事もない。

 命を賭けてまで守ってくれる誰かも、僕達にはもう居ないんだ。

 だから……だから……僕達に残された道は、もう媚びる事しかないんだ」

 ムシュフシュは、僕の言った事のどれだけを理解しているのだろう。多分、半分もいってない。

 でも何割にせよ、ムシュフシュは僕の言っている事の意図だけは理解しているように思えた。

 そして、それを認めたくないのだ。

「…………」

 けれど、僕にはどうする事も出来ない。言葉もまだ余り通じない。伝えられるのは気持ちだけ。

 そしてムシュフシュが拒絶してしまったら、僕に出来る事はもう何もない。

 ムシュフシュは僕から目を逸らした。そして座って丸まって、頭を体に埋めて、体を落ち着かないように何度も動かす。

 とても分かりやすく悩んでいた。

 ぐるぐると丸めた体のその真ん中の頭では、どういう思考が渦巻いているのだろう。ムシュフシュにとっての世界は、多分、僕よりはずっと狭かった。

 でも、周りの世界の広さを受け入れられないような頭の固さもしていないと、僕は思っている。

 弓矢というものを一瞬で理解したし、それに自らの毒を乗せる事もそう時間が経たない内に思いついている。

 まだ一緒に暮らし始めて多分三十日も経ってないけれど、僕に何度だって合わせてくれた。僕の意図を幾度となく察してくれた。

 唐突にやって来たトケイさんに自ら襲いかかるような、勝ち目のない無謀もしなかった。

 生きてきた世界は狭い。でもその中で自分自身というものを理解しているし、周りの未知も吸収している。

 僕には、そう思えている。

「グゥ……」

 一度唸ってから、またもぞもぞと動いた。尻尾の先が当てもなく行き場を探すようにぶらぶらと揺れた。

 鼻息が不規則に聞こえてくる。

 から、ぱらら、と焚べていた枯れ枝が燃え尽きて崩れる音がした。

 それにムシュフシュは顔を上げて立ち上がり、僕の方へ歩いて来た。

「決めたの?」

 ムシュフシュは、僕の目の前に前足を差し出した。毛皮に覆われ、木を駆け上る事も容易い、鋭い爪の生えた前足。

 その指の一本以外を折り曲げて、僕に見せてくる。

「一回だけ?」

 僕もムシュフシュの目の前に指を一本立てて見せた。

「グゥ」

 ムシュフシュは頷いた。

 ……こりゃ負けられないな。


*


 月が明るい夜になった。

 この子供はニンゲンと言う種族。そして、クレセント・ソロシーという名前。

 あの二足の狼はワーウルフと言う種族。そして、トケイという名前。

 私はムシュフシュと呼ばれている。そして名前は無く、それは親から貰うもののようだった。

「名前、欲しいの?」

 頷けば、ソロシーは言った。

「自分で決めちゃえば良いんじゃない? 僕だってもう、この名前使えないようなもんだし」

 砂場の、私自身を示した絵を指しながらソロシーは言った。

 ちゃんとはまだ理解出来ないけれど、どうやら私自身で決めても良いみたいだった。

 ただ、私はまだ余りにも言葉も、世界も知らなさ過ぎる。

 だから、まだ。

 それに世界を学んでいけば、母が私にしてくれた事を他にも理解出来るかもしれないから。

「何か良い言葉とかある? 夜空に一番輝く丸いのは月。月。満ち欠けで色々と呼び方はあるんだけど、月って言うんだ。

 その周りに沢山光っているのは星、星」

 子供が一つ一つの物事を説明していく。ツキ。ホシ、カゼ。狼が吼えた。トオボエ。

「……ふぁぁ」

 欠伸をした。

「これは欠伸」

 アクビ。

「あのナイトメア、また悪夢を見せてきたら嫌だなあ」

 ナイトメアか……。

「グゥ」

 またあんな夢を見せてくるなら、もう射殺してしまえばいいだろう。

 私は矢筒を叩いた。

「それでも良いのかなあ……」

 子供はそれでも悩み続けていた。

 敵意がないと言っても、ナイトメアはその誰彼構わず眠らせる毒をいつだってばら撒いている。私の牙のように噛み付いた時だけとかそんなものじゃないし。

 もしあのナイトメアが親しくなろうと近付いてきたとしても、私達がその度に悪夢を見せられていたら溜まったもんじゃない。

「でも、もし、もしだよ。味方になってくれるなら。あの悪夢を君の毒のように僕の弓矢で使えたら」

 ソロシーは絵を描きながら話す。

 それから袋を取り出すと、その中に砂を詰めて、紐で縛る。それを枝の先に引っ掛けた。今にも落ちそうな程に不安定な形。

 砂は……ナイトメアの毒の代わりだろう。

 それを描いた猪の絵の上にぷつっ、と落とせば、袋の中から砂が吹き出した。

「中々に嫌らしい罠じゃない?」

 面白そうな顔をしていた。

 イヤラシイって言葉がどういう意味なのかは、……うん。何となく分かったと思う。

 ぱち、ぱち……。

 気付けば、焚き火がもう小さくなっていた。もう少しで炎も尽きるだろう。

 私もアクビをした。

「ただ……寝るのはちょっと怖いね」

 不安そうな声。

 そんな不安を抱えながら寝る事になるなら、やっぱりあの時殺してしまえば良かったのに。

「グゥ……」

「もし……もし、また悪夢を見たら、その時はもう殺すよ」

 弓矢を手にしながら、子供はそれでも少し残念そうにしながら言った。

「じゃあ、寝ようか」

 あ。その前に。やろうと思ってた事があったんだ。

 集めてある枯れ枝の中から、平べったいものを二つ引っ張り出す。その内の一つをソロシーに渡した。

「ん、何?」

 そして、もう一つの方に私は爪で傷を一本、縦に付ける。

「え、あ、ああ、そういう事?」

 指を一本。ソロシーの前に出す。

「ウルルッ」

 今日は、私の勝ちだった。

「……うん。明日は負けないから」

 そう言うと、ソロシーはその板を服の中にしまった。

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