1. 依存
『風のざわめきに気を配れ。ありとあらゆる生命の流れがそこにある。
活発に生きる生命の営みから、その糧となった生命の終わりまでの全ては風に乗って訪れてくる。それを体で感じられるようになれば、目で見える以上の世界を体で感じ取れるようになっているだろう』
……要は、五感の全てに意識を張り巡らせろって事だ。
捕食者は風下から臭いを感じ取られないようにやって来る。もしくは茂みに身を隠したり、別の臭いで誤魔化したり、様々な手段で自らの気配を獲物に感じ取られないようにする。
そんな獲物もただではやられない。早くに気付ければすばしっこい足で逃げ切る事も可能だし、巨大な体躯や身の回りの環境、毒と言ったものを生かして返り討ちにする事だってある。
そこから学べる事も、本当に沢山だ。
獣の残した痕跡はいつ誰がそこを通ったのかを教えてくれる。マーキングの痕跡や獣道といったものに気付ければ、危険な縄張りの中に入ってしまうという事もなくなるし、糞の形や中身を調べれば、いつ何を食べたのかも分かるのだとか。
……それを僕が実際に活かせるようになる前に騎士は死んでしまった訳なんだけど。
茂みの中で身を屈めて、呼吸を細める。自分の気配を消すように。
弓に矢を番えて、ただひたすらに待つ。両手を足として使わない僕は、この森の中の生き物の誰よりも鈍足だろう。それは大きな、大き過ぎる短所だけれど、その代わりに自由な両手がある。それも大きな、大き過ぎる長所だ。
誰の牙も爪も届かない場所から一方的に弓矢という道具で致命傷を与えられる。それはこの森の中できっと、僕しか持ち得ない長所。
だから、じっと待つ。周りに気を配りながら、誰にも気付かれないように。
…………。
……、ざわ、ざわわ……、…………ひゅるるる……。
…………………さぁぁぁ……ぎしっ。
木が軋んだ音。
……落ち着け。上に居るだろう。でも、まだ、少しばかり遠く。僕が気付かれているとまでは確かじゃない。
ゆっくりと振り向く。
すると、丁度木の上から索敵していたムシュフシュがきょろきょろと辺りを見回していた。
息を吐く。
狙いを定めて、矢を放つ。
ぱんっ。
ムシュフシュが気付いた時には、木の皮やらで矢尻を包んで殺傷力をなくしたその先端が、べこっとぶつかった。
「グゥゥゥ……」
あからさまに悔しげな声を出しながら降りてくるムシュフシュ。
それから地面に落ちた矢を咥え上げると、僕に渡してきた。
「もう一度?」
そう聞けば、さっさと行けと言うように首を振ってくる。
「……分かったよ」
今日の成績は三対一。
ムシュフシュは、狩りが下手だった。……僕よりも、とても。
子供が見えなくなってから暫く。私はまた木に登って風に当たった。
落ち着け。落ち着かないと、また隠れている子供を見つけられないままに、矢を当てられるだけだ。
とは言え、とは言え……。
何度でも、何度でも思い知らされる。
子供は、確かにこの森の中では一番の弱者だ。子供だけだったら様々な獣に狙われて、生き延びる事は出来なかっただろう。
けれど子供の、地に着ける事のない前足は、私の想像にも及ばない事を幾らでもやってみせた。
弓矢を使って遠くから気付かれないままに獲物を仕留めて見せた。川の流れに蔦を複雑に絡ませたものを置いていったかと思えば、翌日に魚が獲れていた。蔦を獣道に弄って隠したと思えば、翌日になれば獲物がそれに絡まって動けなくなっていた。
それに比べて私は、まだ安定して狩りが出来る訳ではなかった事に気付いてしまった。
母が居た頃に狩りをしていた時は、母がこっそりとその手助けをしてくれていたのだと、今更ながらに気付いた。その時の獲物はどこか足を引きずっていたり、追いかけやすい場所に丁度居たり。
実際はそんな事は全くない。私が少しでも音を立てれば獣はすぐにでも気付いて辺りを警戒する。そうでなくても、風上に立つだけでも私は、何よりも警戒される獣だった。
そして見つかってしまえば、全速力で森の中を淀みなく駆け巡る獣に追いつけない事の方が遥かに多かった。
そんな中、私の臭いを擦り付けて、同じく警戒されるようになったはずの子供は普通に獲物を仕留めていく。
私が何も獲れずに腹を空かせて帰ってきた時に、子供がもう肉や魚を獲って食べていたのを見た。
……私も、子供が居なかったら生きていられなかったのかもしれない。飢えて、倒れて、地べたを虚しく見ながら死んでいたのかもしれない。
そう思うようになったのは、大して時間を要する事ではなかった。
…………。
さて。もうそろそろ良い時間だろう。木から降りて、一歩一歩に注意を払いながら歩き始める。
もう、今日は二回も負け越している。せめてこれ以上は離されたくない。
「グゥ……」
首から降ろした母の牙に、一度触れた。
再び訪れた時には腐り、虫や蛆が湧き始めていたそれぞれの親の死体。それを改めて弔った時に、子供は父親の髪の毛を手に取っていた。
私もまだ母から完全に離れてしまうのが嫌で、子供に母の牙を首から提げて貰った。
……母。まだ、私は私だけで生きられる程強くもなかったよ。
今度は鬱蒼と葉の生い茂る木の上に身を隠す。
もう暫くすれば、ムシュフシュはまた僕を探し始めるだろう。
「けれど、なあ」
僕の狩った獲物を食べる時が段々と増えてくるのに連れて、ムシュフシュからは不甲斐なさと苛立ちが如実に感じられるようになった。
けれど、狩りなんて僕が教えられるものじゃないし……。そう思いながらも、日に日に不機嫌になっていくムシュフシュは、だからと言って狩りの腕前を一気に上達させる事もなかった。
このゲームは、そんな僕が簡単に提案してみたものだ。
僕は先に隠れて、この殺傷力のない弓矢をムシュフシュに当てたら勝ち。
ムシュフシュは、その前に僕に触れられたら勝ち。
そのルールを伝えてみればムシュフシュは驚く程すんなりと理解して、早速やろうと意気揚々として。
けれどその日は僕に触れられる事は一度もなく、寝るまで歯ぎしりやら唸り声やらを止めなかった。
間違えたかな……と思うも、ムシュフシュはそれから連日僕に飽きる事なくゲームをしようと持ちかけてきた。
二日目には、流石に一回は触れられた。
十日も経てば、三割くらいは負けるようになった。
でも、それからは余り伸びていない。狩りは、少しだけ成功する事が多くなっている。少しだけ。
「何かもっと良い方法でも見つからないかなあ」
正直、ムシュフシュが狩りに失敗する事よりも何よりも、ずっと不機嫌そうにしているムシュフシュと一緒に過ごす事が僕にとっては苦痛だったりする。
手加減したところで、賢いムシュフシュは舐められていると思ったりするだろうし。
……あ。来た。
体を隠せてても、長い尻尾が見えた。
「……」
番えた弓を引き絞れば、尻尾が隠れて茂みが一気に揺れる。これは、僕の場所がばれている時の動きだ。
息を吐く。
がさがさっ、がささっ!
素早い動き。用意してある矢は三本。この弱い弓じゃ、動きを読めても相当近くなきゃ当てられない。
どこを経由して僕に迫ってくる? 直接下から登って来ようとした時は大体射止めている。別の木から跳んで来た時はもう数えてない。その時は僕の方が分が悪い、けれど射止められる事も何度かあった。
僕もこういう状況に陥ってしまった時、どうすれば良いのか考える。騎士はこんなものとは全く比にならない窮地から脱した事だってある。
冷静さを失わない事が重要だと騎士は言った。でも、冷静であるってそもそもどういう事なんだろう?
僕はムシュフシュとこのゲームを何度も繰り返しながら、少しずつ分かって来た気がしていた。
考える事。何を? 敵の事を。敵の何を? どう攻めてくるのか、何をされたら一番嫌なのか。そして、それをどうしたら潰せるのか。
でも……それを実践出来るのって、訓練やら才能やらが必要だと思うんだよなあ。
考えられる時間はほんの僅か。数回呼吸するくらいの時間しか無い時だってある。僕もムシュフシュも互いの事を分かっているけれど、闇夜の中盗賊に襲われた時なんて、どっちもどっちの事をちゃんと分かってない訳だし。
それでも騎士はそれらを殲滅したって言う。そして実際、数多の追手から僕を守りながらここまで逃げてきた。
「遠過ぎるんだよなあ」
そう思いながら、草結びに盛大に引っかかったムシュフシュに矢を当てた。
……本当に、腹が立つ。
何よりも、弱い私自身に。
子供には今日は、とても負けた。子供は私の二、三倍は勝利を収めていた。
途中からムキになってしまえば、また負け越して。そんな気持ちで狩りが出来る訳もなく。
今日も子供の狩った肉を分けて貰っていた。
本当に、本当に……。落ち着かなくては勝てないと分かっていても、私の不甲斐なさはそれを否定したくて堪らないようだった。そうして気付けば、触れるだけではなくて、思わず噛みつきたくなっている私自身を自覚して、また嫌になる。
母はどのように狩りをしていた? たちの悪い事に、私はそれを知らなかった。
他の生き物がどのように狩りをするかというのを一緒に見た事は何度もあれど、母自身の狩りを見た事は余りなかった。
見た事があっても、それらは今になって思えばそれは余りにもあっさりし過ぎている狩りで。けれどそれは、長く生きてきた母だからこそ、この森で生きる様々な生き物の事を隅から隅まで知っていたのだろう、と思えるようなものでもあった。
……赤い空。ゆっくりと千切れ、流れていく雲。
私は今更ながらに、母が私にしていた事の意図を分かりつつある。
母が様々な獣の生きている様子を見せさせていたのは、私がそれらをどのように狩れば良いのかを覚えさせる為だった。
その中でも狼の狩りを見せられる事が多かったのは、多分狼の狩りがそれだけ獣の中でも優秀なものなんだろう。
私は母に厚く守られていた。だからそんな意図に気付く事もなく、ただ母が促すがままに、能無しに眺めていただけだった。
気付くのが遅過ぎる。……でも、手遅れじゃない。
「ねえ」
子供が聞いてきた。顔を上げると、子供は自らの寝床の方を指差した。
「あっち、行かない? あっちなら縄張りから離れてるし、だから獣達の君に対する警戒心も薄いと思うんだ」
結局この子供が言っている事も私には分からない。けれど、また子供は自らの寝床の方に行きたいようだった。
私は頷く。
……満足に狩りも出来ない私が断れる訳ないじゃないか。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます