霧塞
0. 喪失
彼女を見る事は毎日の習慣みたいなものだった。
常に警戒を絶やすことなく、連れていた子を大事に育てていたムシュフシュの母親。
そんな彼女を時折鬱陶しげにしながらも、ゆっくり、ゆっくりと育っているその子供。
番は居ないようで、けれど凛とした振る舞いを崩す事の無かったその彼女。
僕はそんな姿を時々遠くから見ているだけで、そんな子供がこれからどのように育っていくのかを考えるだけで、楽しかった。
彼女と同等にまで育った時、どのようにして巣立ちを迎えるのだろう?
その彼女は大切にしてきた子供をどのように送り出すのだろう?
ちょっかいをかけるつもりなんて全くなかったけれど、僕と似たように知性を持つ彼女達の子育ては単純に興味があった。まだ、僕にはちんちんはちゃんと役に立った事もなければ、そもそも番が出来たこともなかったし。
でも、今日は縄張りの見回りをしに来なかった。よっぽど天気が悪い時でもなければ見回りを欠かす事はなかったのに。今日は太陽が暖かに照っているというのに。
何かあったんだろうか? そう思いながらも、次の日になれば来るだろうと思っていたけれど、その次の日になっても彼女は来なかった。
木に付けられた傷や臭い、至る所に縄張りを主張する痕跡も、新鮮なものじゃなくなっていく。
何か、あったみたいだった。
*
ふとしたある日、森の外から二人の人間がやって来た。
森の外から来たであろう人間と、その子供。
別にそいつらが雑魚だったなら殺して珍しい物でも持ってないか物色するつもりだったんだが、あろうことかその人間が最初にやった事といえば、熊の頭をでっかい剣でかち割って住処を奪った事だった。
いやいや? いやいやいやいや! 熊なんて俺達でさえ基本手は出さないって言うのに。その腕でぶん殴られれば、爪が引っ掛けられれば、体がぶつかるだけでも俺達だって一発でお陀仏だって言うのに。
俺達がそいつらに手を出さない事に決めたのは、それからすぐの事だった。
その住処の周りには罠が幾多にも張り巡らされ、子供との生活が始まった。一応の監視役として俺は遠くから眺めていたが、やはりと言うべきか、その父子はどうにも進んでこの森の中に入ってきた訳ではなさそうだった。
特に子供はこんな森の中で生きる術を持っているようには見えず、父親から弓を学び始めていた。
冬が来ても、分厚い毛皮を羽織って弓を学び続けている。激しい寒さの中でも、前を向く顔を変えずに真摯に強くなろうとし続けていた。
『お前、あのガキに入れ込んでるだろ』
そう言われた時にはもう、否定出来なかった。
父親の方には幾ら遠くから見ていようが、もう気付かれているだろう。だが、その鈍く輝く剣の前に立とうだなんてもう誰も考えてはいなかったし、俺も監視役と言いながらあの子供の成長が見れていればそれで満足だった。
しかし、冬が過ぎてその寒さは夜に僅か残る程度になった頃。
その父親と子供は、忽然と姿を消した。
*
世の中は残酷なんだなあ、と決めつけて終わらせるのは、流石に嫌だった。
彼女は、遠くから眺めているだけでも明らかな強者だった。
ひと噛みするだけで、獣は何であれ簡単に倒れて餌食になった。多分、蛇みたいに強い毒を持っているんだと思う。
しかもそれだけじゃなくて、口からは二足の者達が良く使っているような熱くて明るいものも吐いてみせる。
更に更に、流石に走るだけなら僕の方が速いと思うけれど、彼女達は木の上に登ったり、宙を跳ぶように木と木を伝っていく事だって出来たし、長い尻尾は物を掴んで投げる事だって出来たし。
出来ない事なんて無いんじゃないかと思うくらいに器用で、それでいて力強くて。
そんな彼女の縄張りには誰も入る事はなかった。二足の者達だって、僕だって誰だって何だって。
そんな彼女が殺されただとか、そんな事を思いたくはなかった。
それに子供はどうしたんだろう。子供まで死んでしまったのか、それともどこかに行ったのか。
明日になればまた戻ってくるかもしれない。戻ってこなかった。
明日こそは。戻ってこない。夜になっても。
……もう、僕の気持ちは抑えられそうになかった。
何が起きたのかなんてさっぱり分からないし、もしかしたら僕の想像もつかないような危険が待っているのかもしれないけれど、それでもただ待っているなんて出来なかった。
*
朝が過ぎた頃に今日も監視に行ってみれば、いつものような食事の痕跡が臭いすらも残っていなかった。
昨晩、何かあったのだろうか? すぐに思ったのは、ここから少し遠くにはムシュフシュの縄張りがあるという事だった。
それを思うと、嫌な予感がした。
「いやいや、決めつけるにはまだ早い……」
そう口に出せば、俺は想像以上に動揺している事に気付いた。
俺は少なくとも、俺が思っていたより強く、子供に入れ込んでいたらしい。
死んでいたら数日、いや、十日くらいは立ち直れなさそうだ。
でも、まだ調べるには早い。早過ぎる。俺があの住処に足を付けたら、子供はともかく、その親は確実に気付く。そうなったら、監視もし辛くなってしまう。
もう少し、もう少しだけ待とう。
そう思いながら、太陽が登るのがやけに遅いのを眺めながら、俺の鼓動が酷くゆっくりなのを感じながら、時間を過ごす。
「ビィィィアアアアアァァァァアアアアアッッッッ!!!!」
「……何だ?」
猪の、尋常じゃない悲鳴。普通に狩りをするだけじゃ、こんな悲鳴なんて出ないはずだが。
でもとにかく。少なくとも帰ってきたんだろう。心配させやがって。
……そう思っていたら。
子供はどうにも疲労困憊と言った様子で、そしてムシュフシュの子供を連れて来ていた。
……何があったんだ??
数日経って子供が元気になっても、ムシュフシュはその隣に居る。そこには絆と言えるようなものが、確かにあった。
そして、それぞれの親はどこかに消えたまま。
少なくとも……何か悪い事が起きた事は確かなようだった。
残されたのは、親の持っていた大剣など振るえそうにもない細身の人間の子供と、まだ脅威であるとは微塵も思えない小さなムシュフシュの子供。
元気になれば、一度どこかへと去っていった。
……まだ、皆には何が起きたのか伝えていない。
伝えても、あの子供達にとっては良い方向に事が進むとは思えなかった。
*
意を決して彼女の縄張りに一歩、入ってみる。二歩、三歩。胸がドキドキしてる。
そりゃそうだ。もし、彼女が生きていたら容赦なく僕を殺しに来るだろう。がぶりとひと噛み。掠っただけでも、僕は苦しんだ末に死んでしまうだろうから。
でも、まっすぐに走るだけなら僕の方が速い。だから、そういう逃げ道をちゃんと覚えておいて。
慎重に、慎重に。
でも……途中からそんな警戒しなくて良いように思えてきた。
彼女の縄張りの中でも、今は色んな生き物の痕跡があった。草食獣が新芽を食べた跡や、その糞が転がっていたり。
狼の遠吠えも聞こえてきたし、彼女の体格には狭過ぎる、茂みを踏み慣らして出来たような道も幾つかあった。
……彼女はやっぱり、死んじゃったのかなあ。
こんな縄張りの中まで入ってから出遭ってしまうのもそれはそれで嫌だったけれど、見つけられないのもやっぱり嫌だ。
でも……本当にもし、彼女が死んでしまったのなら、それは何でなんだろう。
彼女より強い存在が、もしかしたらこの近くに? そう思った瞬間にぞわっとしたけれど、いや、だったらこんなに縄張りが荒らされている訳もないか、とほっとする。それと同時にやっぱり何で? と。
結局、こうして縄張りの中を歩いてみるしかない、か。
もう暫く歩いていると、いきなり視界が開けてきた。崖があった。
回り込まなきゃいけないかな、と思っていると、その崖下で何かが動いたのが見えた。
木の陰に姿を隠して眺めていると、今まで見たことのない二足の生き物が、草食獣を引き摺って歩いて来ていた。
小さくて、ひょろくて、多分子供の、この森の中では簡単に死んでしまいそうな生き物。
でもそれは、同じくらいの大きさの草食獣をどうやってか仕留めていた。
いや、それよりも、彼女は? あんな良く分からない生き物と一緒に暮らし始めたのか? 警戒心の強い彼女がそんな事するのか?
頭の中をぐるぐると分からない事で溢れそうになってきたその時、また誰かがやって来た。
彼女の、子供だった。二足の子供と違って、獲物は仕留められていないようだった。
「おかえり」
「……グゥ」
彼女の子供は不満そうにしながらも争う事はなく、獲物を分け合って食べ始めた。
……何があったんだ? 訳が分からない。
何から何までが分からなくて。どうにかなってしまいそうで。
でも、一つだけ。彼女はやっぱり死んでしまったんだろうとだけは思って。
とりあえず、今日は戻る事にした。
あの子供達を見ている気にもなれなかった。
「……?」
「あれ、誰か居た?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます