6. 夜長
子供はゆっくりと、這って寝床へと動いていく。貯められていた水をごくごくと飲んで口を拭う。
それから洞穴の中に入って干した果物を幾つかゆっくりと、ほんの少しずつを齧りながら、まるで草食獣が草をすり潰していくように本当にゆっくりと食べた。
それから、私の方を向く。
「……ありがと、ね」
そう言うと倒れるように横になって、力尽きたように眠り始めた。
……この子供は、本当に生き延びるのだろうか? このまま起き上がる事なく死んでしまう可能性だってあるだろう。
そう疑いつつも、本当にそうなるとは余り思えなかった。
全身は血塗れのまま、けれどその顔には血の気がほんの少しだけ戻っている。
子供の生きようとする気力は、その意志は、昨晩私に対して命を投げ出したとは信じられない程に強かった。
私の毒が与えてしまった苦しみがどれ程のものか私には分からないけれど、少なくとも、この子供は動けなくなる直前まで歩き続けて、そして襲いかかってきた猪までをも返り討ちにした。
こんなひょろ長いだけの体で、毛皮も鱗も、牙も爪も、何もその身に持ち合わせていないのに。
そんな子供が住処に辿り着いて、やっとの事で腹に食べ物も詰め込んで、そして死ぬだなんて私には余り思えなかった。
すぅ……すぅ……。
小さな寝息を立てるその子供。顔にこびりついた血を舐め取ろうと思ったけれど、私の涎にも毒はこびりついているかもしれない。昨晩は大丈夫だったけれど、一応。
そんな事さえも出来ない私が今出来るのは、ただ寄り添うだけ。
生まれて始めて、私は私の体を不便だと感じていた。
*
*
「う……」
とても、とても長い時間寝ていた気がする。
目を薄らと開けると、見慣れた洞穴があった。
「ーー……」
声を出そうとして、出せなかった。体はまだ鉛のように重い。頭痛もまだ鈍く響いている。
でも、生きている。気分も少しは楽になっている。
そう言えば、ムシュフシュは? ゆっくりと体を起こせば、僕の隣で体を丸めて寝ていた。
顔も尻尾の中に埋めて、ひゅぅ……ひゅぅ……と穏やかな寝息を立てている。
「……」
ありがとう、と言葉が出る事はなかった。
水を飲んで、とにかく食べなくては。
這って外に出てみれば、外は薄暗く、しとしとと雨が降っていた。
明朝だった。
どうやら、僕はあれから半日以上は寝ていたらしい。
桶に顔を突っ込んで、水をごくごくと飲む。顔もやっと洗って、こびりついた血を落とした。
「……あ゛ー、あー……。生きでい゛る」
……生きている。
何でだろう。ただそれだけで、とても幸せな気分だった。
そして振り返れば、ムシュフシュが起きていた。
「お゛あ゛よ゛う゛」
ムシュフシュは、目をぱちぱちとさせて、何というのか……僕が本当に生きている事を確認しているように見えた。
「グゥ」
ぐぅぅぅ……。
ムシュフシュの腹から強く音が鳴った。
そして、ムシュフシュは干し果物の方を見た。
……僕が寝ている間に、何も食べていなかったようだ。干し果物のどれも齧られたりだとか、そんな痕跡は一つも見当たらなかった。
僕は幾つかを手にとって、ムシュフシュに渡す。
「ウルルッ」
上機嫌な声を出して、一つ一つを味わって食べ始める。
どうやら、干し果物は気に入ったようだった。
僕も一つ一つを食べて、それから干し肉も取り出す。そのままで食べるにはしょっぱ過ぎるそれも、今は噛めば舌どころか、頬までもが喜ぶようで。
……美味しい。
とても、とても。もしかしたら今まで食べたどんな料理よりも、美味しい。体に染み渡る。
それもムシュフシュは見てきた。
「ごれは駄目だよ゛」
そう言いながらも、多分食べないと分からないだろう。
ほんの少しだけ切って渡せば、案の定に吐き出した。
異様にしょっぱいそれを、子供はとても美味しそうに食べる。
私にとっては、それこそが毒に思えるのだが……。良く分からないがまあ、子供にとっては良い食べ物なのだろう、きっと。
この生き物は、今まで私が見てきたどの生き物よりも違い過ぎる。
それから子供は毛皮を脱いで、体を綺麗にし始めた。
体にこびりついていた臭いを、身につけていた毛皮と似たようなものを水で湿らせて拭っていく。
毛皮もないその子供の全身は、筋肉や脂肪といったものが他のどの生き物よりも露わになっている。
私が思っていたよりは、意外と力はありそうだった。ひょろい事には変わりないけれど。
でも、それよりも……このひょろい体には、長くて太いソレはちょっと不相応な程に見える。
「……何見てんのさ」
子供が不満げな声を出したので、外に出る事にした。
頭の先から尻尾の先まで、ぐぐっと体を伸ばす。
私はこの子供の事を見捨てかけていた。それでも子供は襲ってきた猪を返り討ちにして、命を繋いだ。
正直に、私は私自身の事が情けなくなっている。私があそこまで弱ってしまったら、あの状態で猪に突き飛ばされたら、それでも牙を突き立てようと一矢報いる事が出来るだろうか?
自信が無い。私が突き飛ばされた子供の事を諦めてしまったように、それが私の身に訪れようとも諦めてしまうような気がする。
……。見るからにか弱い子供なのに。爪も牙も、鱗も毛皮も、何にも持っていないのに。
それでも狼をユミとヤで仕留めれば、私の毒で弱った体でここまで辿り着いた。挙げ句の果てにあんな立派なモノまで持っている。
この子供は親が死んだからと言って、命を投げ出す程に弱くないだろう。
私はそう思う。
「また……寝る゛ね」
振り返れば、子供が洞穴の壁に磔にされていた毛皮を羽織ってまた横になっていた。
その毛皮は熊のものだった。
元々、この洞穴は熊の寝床だったのだろう。それをこの子供の親は奪って自らのものにした。
母をあんな巨大な牙で真っ二つにしたこの子供の親ならば、熊をも殺せる事にも何の疑問もない。
洞穴の周りを歩く。
大岩に凭れ掛かるようにして生えている大木。見上げてみれば、その枝には子供が身につけているのと同じ毛皮……正確には、毛皮とも言えないような良く分からないものが色々と掛けてあった。
それから、雨に濡れないようにして干してある果物も幾つか。でも、こんな湿気のある日が続いたら乾くより先に腐ってしまうと思うが。
蔦や枝を纏めて置いてある。干し果物を入れてあったものも、蔦を縦横に複雑に組み合わせたものだった。水を貯めていたのも、薄く切った木を隙間なく組み合わせたものだった。
輝く程に薄く鋭い、生き物のものとは思えない牙。二足で立ち、前足で器用な事ばかりする。吼えたり唸る以上に複雑な音を出す口。
この生き物は奇妙な事ばかりで、この森に元から住んでいたようにはどうにも思えない。
この親子は一体、どこからやって来たのだろう。どうしてここにやって来たのだろう。
気になってしまえば、頭の中をぐるぐると巡り始める。けれど、分かる方法なんて一つも無かった。
「グゥ……」
*
数日も食べて寝てを繰り返せば、僕の体は大体元通りになっていた。多少痩せてしまったけれど、痺れとか痛みとか、そういう後遺症もない。
ムシュフシュの毒はほんの少しでも、僕の体力を容赦なく奪っていった。けれど、逆に言えばそれだけだった。
「運が良かった、か……」
その代わりに、もう保存食は大半が僕とムシュフシュの腹の中に消えた。
夜になれば少しばかり罠に引っかかる事もあった獣達も、ムシュフシュを恐れてか全く来る事はなく、そのムシュフシュは果物しか食べられていない。だからか、心なしか元気がなかった。
でも、今日はもう夜になろうとしていた。ムシュフシュにとってはどうか分からないけれど、少なくとも僕にとっては、狩りの時間帯じゃなかった。
日が沈もうとしているこの時間帯。寝て食べてを繰り返していたから、もう何日前の事だかはっきりとは分からなくなってしまった。
けれど、その時に思っていた心細さは、あの夜の事は忘れないだろう。
黄昏。
それを眺めていれば、ムシュフシュも隣にやって来た。
「ありがとうね。ずっと隣に居てくれて」
「……グゥ」
多分、まだ意味までは理解していない。でも、僕が言葉を話す時は耳を傾けていてくれたし、少なくとも言葉に乗る感情まではもう理解しているように見えた。
西の方はもう、暗闇に染まり始めている。星々が今日は、いつもより輝いて見える。
「これから、やっと始まるんだろうな」
結局、僕とムシュフシュは一蓮托生だとか運命共同体だとか、まだまだそんな関係じゃない。心が繋がり合っただとか、そんな事を思った時もあったけれど、それはまだ上辺だけだ。
薪を持ってきて火を点けようとすれば、ムシュフシュがフッと炎を吐いてくれた。
けれど、少なくとも。これから共に生きていく事はやっぱり確かな事だ。
炎を囲んで互いに座る。小鍋を吊るして、水と、今となっては食べてもしょっぱいだけの干し肉を入れた。
煮えるまでの間、僕は鍋をじっと眺めているムシュフシュを見た。
獅子のような黄金色の毛皮に覆われた四肢。
首元と尾の付け根からは、鈍色の鱗で覆われている。
親とは違って、まだ頑丈そうには見えないそれら。親と比べてしまえば、まだまだ心許ない肉体。これから、もっともっと大きくなるのだろう。僕もその隣に堂々と立っていられるように、騎士のようになりたい。
「あ、そう言えば……」
ムシュフシュが顔を上げた。
「えーっと……」
僕は適当に枝を拾い上げて、ムシュフシュの前に簡単に絵を描いた。
簡単に生き物を表現して、それを二つ。一つには股間にでっぱりを作って、一つには凹みを作った。
ムシュフシュの性別、知らないんだよな。
分かるかな、と思いながら聞いてみた。
「僕は、こっち。君は?」
そう言って指で自分は雄だと言うと、ムシュフシュは凹みの方を指した。
「あ、雌なんだ」
それからムシュフシュが棒を欲しがったので渡してみれば、咥えて、不器用ながらもその棒の先をでっぱりの方に向けた。
そして、あろうことかそれをとてもでかくして、僕の方を見てきた。
「……うん。代々そうなんだ」
……まあ、上手くやっていけそう、かなぁ?
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