5. 意志

『騎士は、どうやって数々の戦場を生き抜いてきたの?』

 この無窮の森でようやく日々の生活が落ち着いてきてからの事だった。

 無駄話をするだけの余裕も出てきて、僕は騎士に色々な質問をしていた。

『そうだな……。正直に言ってしまえば、一番は運だろうな』

 逃亡の旅の途中から、ずっと敬語で話しかけないで欲しいと頼み込んでいて、それもやっと受け入れてくれた頃。

『運?』

『ああ。俺よりも剣技が上手い奴も、言葉豊かに仲間の士気を保たせる奴も、戦場をより広く見渡せる奴も、俺よりどこかしら優れている奴は幾らだって居た。

 だが、盗賊の夜襲に紛れて致命傷を負ってしまったり、不慮の事故や病気に罹ったり、あの反乱の時に真っ先に目を付けられて袋叩きにされたりと、そうして命を落としてしまった奴も多かった』

『でも、それだけじゃないでしょ?』

『勿論。ただ、それはきっと人それぞれだ。でも、大体似通っているんだろうな。

 許嫁を待たせていたり、家庭を持っていたら、まだ遺して死ぬ訳にはいかないと思えるだろうし、それだけで気力が湧いてくるだろう。

 俺の場合はそんな家庭なんてなかったけどな、けれど同じようなもんだ。

 帰ったらあの店で肉だけで腹の中を満たしてやるとか、あいつと下らない話をして過ごしたいとか、物憂げに窓の外を眺めている王子をまた見上げに行こうとか。

 そういう事を心に留めておくだけでも気力というのは湧いてくるし、諦めとか、そういう死に直結する後ろ向きな気持ちを遠ざけられる』

『僕を守っている時も?』

『そうだな……。ちょっと失礼かもしれないが、安全な場所に行けたら、一日ぐっすり何も気にせず眠りたいって思ってた』

 正直、唖然とした。

 それはそんな気持ちで僕を守っていたのかというような落胆ではなくて。

『そんな気持ちで……あんな力を出せるものなんだ……』

 追手の一人を背負っている大剣で叩き潰した、その気迫だけで残りを退けた事もあった騎士。

 この森に入ると、『まずは寝床を確保だな』と言って、弓矢も容易く弾くと言う熊の頭を大剣で叩き割った騎士。

 それが単純に眠りたい、っていう気持ちから出ていただなんて。

『勿論、王子の事は俺の命に換えても守るって決めているさ。けれど、他人の為だけに自分の全てを捧げられる人間なんて早々居ないし、俺だってそうだ。

 その残りの一割か二割。それを満たすものまでちゃんと作らないといけなかったのさ』

 ーー僕は生きると決めた。

 命を賭して僕を守ってくれた騎士の為に。僕と共に生きる選択をしてくれたムシュフシュの為に。

 気付いてみれば、僕は僕自身の為の欲望がなくなっていた。

 後、ほんの少しの道のり。けれど、枝を持つ手も冷たくて、どうして手足を動かせているのかも正直分からない。

 もう、転んだら本当に立ち上がれなさそうな気がする。

 残りの一割か二割。僕自身の為の欲望。

 僕にとっては王子として命じられるがままに学んでいただけの日常より、騎士と共に逃げ延びた一年と少しばかりの日々の方が濃厚だった。良い意味でも、悪い意味でも。

 だからか、僕はまた王子として生きたいだとか、国を取り戻したいだとか、そんな事は不思議な程に思わなかった。思えなかった。

 そもそも、そもそもだ。僕はもうあの国に戻れる事はない。僕の首にはきっと、いつまで経っても誰にとっても垂涎ものの値段が付いているのだろうし。

 だからか。

「騎士の……ように…………なりたい」

 自然と口に出ていた。

「ムシュフシュ……君の…………隣に、堂々と……立ちた、い」

 強く、なりたい。

 この森の中で、自分の足だけでもしっかりと立てるようになりたい。

 だから。こんな場所でくたばってなんかいられない。


 子供が何か声を小さく出している。

 それは残っている僅かな体力を、今も尚私の毒で蝕まれている体から絞り出しているかのようで。

 けれど、その顔は俯き気味で、もう辺りを警戒する事も出来ていない。

 そんな中、漂う肉食獣の糞の臭い。

 子供か私かを狙うような気配まではしない。けれど、常に母と共にあった私の感覚が、息を潜めて殺意すらも抑えて必殺の時を待ち続けるような獣の気配を嗅ぎ取れると信じられもしない。

 何故ここまでして私はこの子供を守ろうとしているのだろう?

 ふと疑問に思ったそれは、私の奥深くまで一気に入り込んできた。

 答えは簡潔だ。私がこの子供を哀れんだからだ。母の死よりも、同じく親を喪って自らの命を諦めたこの子供の事が強く私の感情に残ったからだ。

 気紛れと断じてしまえばそうなのだろう。でも、寝床で朝起きても夜寝る時も、私だけ。唐突にそうなってしまったなら、私はどうにかなってしまいそうだった。

 その心細さに、私は耐えきれる気がしない。

 気の迷いだったとしても、私はこの子供を必要としている。この子供と生きたいと思っている。

 それは、事実だ。

「後……少し……」

 ざり……ざり……。

 子供の方を振り返れば、手に握られているのはもうユミとヤではなかった。小さな、鋭い牙になっていた。もうそれで相手を狙う集中力さえも無いのだろう。

 その歩き方は、もう見るだけで痛々しくなっている。枝に体重を寄せて足を引きずらせている。その軌跡が長々と続いていた。

 ……もう、足を持ち上げる体力も無いのか。

「もう……見慣れた景色、なんだ」

 歯を食いしばりながら、止まった私の隣をゆっくり、ゆっくりと通り過ぎていく。

 私がこの子供を必要としている。それが事実だとしても、心のどこかで私自身が諦めようとする程に弱っている。

 何かを食べて、飲めたところで、休めたところで、この子供の命は再び吹き返すのだろうか?

 …………でも、嫌だなあ。

 近くの茂みが揺れた。

 どどどどっ!!

 突如、猪が飛び出して来た。それは、子供を突き飛ばした。

「アッ!?」

 私が、私が子供を見捨てたとでも思われたのか? もう好きにして良いよとも?

 ごろごろと転がった子供に猪が圧し掛かって。

 間に合わない。何も、何も。

「ああああああああああ」

 叫んだ、その子供の手に握られていた牙が、猪の目に突き刺さった。

「ビィィィアアアアアァァァァアアアアアッッッッ!!!!」

 引き抜いたそれは、猪が暴れて逃げる前に、次は首へと突き刺された。

「ビャッ」

 血が吹き出した。

「ああ、ああ、ああ…………」

 私は、固まっていた。

 子供がどうにかビクビクとするだけの猪を押しのけて、それからその首に顔をあわせて、ごく、ごくと血を飲む様を。

 顔も、腕も、その毛皮の代わりのものも全てが血塗れになっていて。

 ごく、ごく。ごきゅ、ごきゅり。

「ふぅー……。はぁ、はぁ……」

 ごきゅ、ごきゅ。ごく、ごくん。

 そして、血塗れの顔で私の方を向いた。

「ごめん……もう動けない……」

 消え入りそうな声を出したその子供は、もう立ち上がれそうになかった。


 ムシュフシュが僕を見る目が変わっていたのに、僕は気付いていた。

 視界も狭まって、それしか見えなかった。

 僕の体が、もう限界に来ている事に気付いていた。僕がもう助からないかもしれないと思っているのが見えていた。

 突き飛ばされた太腿が酷く痛む。

 幸い、牙に引っかかる事もなかったけれど、ずきんずきんと痛んでいる。

 立ち上がれない。腕も足ももう、動かない。

 口の中がとても血生臭い。

 猪の血は、僕の命を繋げてくれるんだろうか。

 そして……僕の事をあんな目をしたムシュフシュは守ってくれるんだろうか。

 動かなかったムシュフシュが僕に近付いてくる。

 僕は結局、ムシュフシュに殆ど与える事が出来ていない。干した果物を半分あげただけ。

 僕がいなければ、ムシュフシュは狼に襲われる事もなかっただろう。僕がいなければ、こんな歩くだけで精一杯な僕をここまで先導する必要もなかった。

 ああ……悔しいなぁ。

 ムシュフシュは僕の目の前まで来て。

「……グゥ」

 小さく鳴いた。

 何を意味するのか分かる前にその牙が、僕の服を噛んで引きずり始めた。

 ずっ、ずずっ。ずずっ、ずずっ。

「……ごめん」

 弱くて。

「……ありがとう」

 こんな僕をまだ助けようとしてくれて。


 この子供が、毛皮と肉体が別であって良かった。そうでなければ、私が咥えてひきずる事なんて出来なかっただろうから。

 私の長い尻尾もこの子供を掴んで引きずるまでは、まだ強くないから。

 けれど、一歩一歩はとても重い。踏ん張らなければ転びそうだった。転んで、もし私の毒牙が子供の素肌を傷つければ、それだけでこの子供はあっけなく命を落とす。

 子供はまだその命を繋げられるのだろうか? 私はどうしてここまでしているのだろうか?

 そういう事は、考えない事にした。

 分からないし、分かったところで何にもならない気がしたから。

 考えてしまったら、私の牙が唐突にでも子供を傷つけてしまう気がしたから。

 ずっ、ずっ。ずっ、ずっ。

 一歩一歩、踏みしめる。子供の浅い呼吸が、濃厚な血の臭いが届いてくる。

 静かだった。他に獣は居ない。はっきりと確信する。

 ずっ、ずずっ。ずずずっ、ずずっ。

 前へ。前へと。ただそれだけをひたすらに。

 後は何も考えなくて良い。

 この子供がまだ命を繋げられるのならば、私はこの子供と生きていきたい。

 それを思っているのは確かなのだから。

 ずっ、ずずっ。ずっ、ずずっ。

「あっ、ちょっと……」

 暫くしてから、子供が唐突に声を出した。私も疲れていた頃だと口を離すと、這いずって、下の毛皮を取って。

 びちゃびちゃと激しい下痢を流した。

 臭い……。でも、そうして一息吐いた子供の乾いた血のこびりつく顔は、少しだけ生気が戻っていた。

 そこらの葉っぱで尻を拭った子供は、毛皮をまた身につけると木に寄りかかって、何とか立ち上がる。

 そして前を見直すと。

「あ……着いてたんだ」

 猪に突き飛ばされた片足を引きずりながら、子供はゆっくりと歩いていく。

 そして、木と木の間の前で止まってゆっくりとしゃがむと、草を掻き分ける。そこには、細い蔦がぴんと張っていた。

「先に気付けて良かった……」

 そう言って、子供はヤの一本を取り出してその蔦に触れた。

 ぷつっと音がしたと思えば、どこかからか飛んできた別のヤが木の幹に突き刺さっていた。

 ……何をしたんだ?

「僕の後ろを、着いてくれば……大丈夫、だから」

 ダイジョウブ。

 そう言って、子供は茂みの中を変に曲がったりしながら進んでいく。私も恐る恐る着いていくと、唐突に視界が開けた。

「ああ……着いたよ、着いたんだ」

 子供が、とても落ち着いた声を出すと、膝を着いた。

 元々は熊の寝床だったのだろう。大木の隆起した根の下を掘り起こして作られた洞穴。その中からはふわりと、あの乾いた、濃厚な果物の匂いが幾つも届いてきていた。

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