4. 気力

 やらかした。矢尻に入った毒、それが狼の全身に巡っていた。そこまでは理解していた。でも、一口食べただけでここまでなるとは思わなかった。それまでに、ムシュフシュの毒は強烈だった。

 気持ち悪いし、足は震えている。指にも力が入らない。喉が焼けている。お腹は未だにぎゅるぎゅるしている。頭痛もがんがんと。首が頭の重さを支えられていないようでグラグラする。

 でも、それでも、死ぬ程じゃない。全く、死ぬ程じゃない。

 風邪を引いた時くらいの体調だ。立てている。歩ける。まだ、僕に体力は残されている。

 だから、死ぬ程じゃない。

 それにムシュフシュが僕の前を歩いている。僕を生かそうとしてくれている。その事実だけでも、体のどこからか気力が湧き出て来る。

「行くのは……あっちだ」

 僕は指差して、行く方向を示した。僕と騎士が寝床にしていた場所。周りは沢山の罠で囲ってある。それに実際、僕とムシュフシュが出会ってからまだ半日程度しか経っていない。だからまだ、獣にも荒らされていないはずだ。

 少し遠いけれど、確実に食べ物はある。熊の胆だってある。

 そんな行く先を示した僕に、ムシュフシュはその前を歩き始めた。

 何とも出くわさない事を祈りながら、僕はそれに続いた。


 途中、子供は枝を牙で切り落として三本目の足にしていた。

「ふぅ、ふぅ……はぁ、はぁ」

 それを上手く使いながら、ゆっくりと歩いている。毛皮でも鱗でも覆われていないその顔からはもう既に血の色が失せている。動きが鈍っているのを別にしても体調が分かりやす過ぎて、それだけで獣が狙って来ないか不安になってくる。

 でも、その目はしっかりと前を向いている。時に歯を食いしばりながら、空気を大きく取り入れながら前を向いている。

 その意志の強さは、今の子供がユミとヤを使えば、駆け回る獣の目でさえも貫いてしまいそうだった。

「大丈夫だよ、大丈夫」

 振り向いている私に、子供が声を出す。

 そのダイジョウブと私に何度も投げかけられる声は、私を心配させまいと掛けられているものだとは分かりきった事だ。

 ただ、それが虚勢だという事も分かりきっている。けれど、私に出来る事も酷く限られている。

 こうして周りを警戒する。ただそれだけ。

 食べ物を持ってくる事もこの毒牙のせいで出来なければ、この子供を背に乗せる事もまだ出来そうにない。

 ……今のところ、何の気配もない。静かな森の中。子供の呼吸と、さわさわとした風の音ばかりが響いている。

 ただ、この先には何があるのだろう? もう、母の縄張りの外へと出ようとしている。

 子供の様子を見る限り、分かっているようだけれど……ああ、そうか。この先にあるのは、この子供の寝床だ。

 多分そこには、今朝子供が渡してきたような乾いた果物とかもあるのだろう。

 ちょろちょろと音が聞こえてから、少しすると小川に着く。

 ここまでが、母の縄張りだ。ここから先は、私は行った事がない。

 一旦足を止めた私に対して、子供は小川に顔をつけてごくごくと水を飲んだ。

「ふぅ……ふぅ……」

 深呼吸を何度か。それから岩に腰を落ち着けて一度休み始めた。

 多少は休んだ方が良いだろうか? そう思っていると。

 ばさばさっ!

 唐突に鳥が飛び立つ音がして、子供が咄嗟に立ち上がって構えた。

 けれど、起きたのはただそれだけ。他の獣の気配は何一つとしてない。ただ、それだけでも子供の体力は更に削られていた。

「……大丈夫だって、大丈夫、大丈夫」

 か弱い声でそんなダイジョウブと何度言われようとも、私は不安にしかならない。

 私は立ち上がって小川に足を踏み入れた。

 休むよりも、さっさとその先へと歩いた方が良い。休んだところで、私の毒が奪ってしまった子供の体力が戻る事はない。

 子供も枝を立てて、私の後に続いた。


 じゃぶ、じゃぶ。じゃぶ、じゃぶ。

 川の底の石は、苔が生えていて滑りやすい。今転んだら最悪だ。

 それだけで体力も気力さえをも一気に持っていかれそうな気がする。それに水を吸った服で歩くのも絶対に辛い。

 じゃぶ、じゃぶ。じゃぶ……じゃぶ。

 そんな川幅もないし、一番深いところでも膝まで浸からない川。そんなところに魚が泳いでいる。

 釣り道具も持っていなければ、こんな川を泳いでいる魚を矢で射る技量も僕は持ってない。

 鉛のように体が重い、という比喩表現を物語で見た事があったけど、今の僕は正にそれだ。

 食べ物が勝手に出てくる。病気になっても手厚く看病してくれる。そんな生活はもう二度と戻ってこないと分かっていても、どうしようもなく恋しくなる。

 けれど、でも。

 川を何とか渡り切る。

「ふぅ、ふぅ……」

 ムシュフシュが僕を心配そうに見てくる。

 それだけでも、まだ最悪じゃない。まだ、まだ希望に満ち溢れている。気力が無尽蔵な程に湧いてくる。

「大丈夫。本当に大丈夫なんだ」

 ……多分。

 自分の体に喝を入れるように、背筋を伸ばす。

 もうそろそろ半分だ。頑張ろう。


 川を越えても何の変哲もない森の中。けれど、初めての場所。木々の並びは全く親しみがなく、それだけで全てが新しいものに見える。けれど、新鮮な気持ちになんてなれるはずもない。

 縄張りを示すような臭いや痕跡というものは感じられない。けれど、見落としているだけかもしれない。

 私は、私だけで注意深く森の中を歩くなんて経験がない。

 私は……私はいつだって、母に守られていたのだ。

 ……怖い。どうして、どうして母は死んでしまったのだろう。相打ちになったこの子供の親と一体何があったというのだろう。

 分かる事はない。明日に昨日がやってくる事なんてない。昨日という日は遠ざかっていくだけだ。

 私は、どこに行こうとも着いて来るような母の事を少しながら疎んじていた。こうして私だけで見知らぬ場所を歩く事を夢見ていた。

 けれども、そんな母に頼りきりであった事に、私は今更にして気付いている。

「どうしたの?」

 声を後ろから掛けられた。心配させまいという声じゃない。心配している声。

 私の足は止まっていた。

「グゥ」

 私は前を向き直す。背筋を伸ばす。

 立っているのも辛いはずの子供に心配されるなど。

 見知らぬ土地と言えど、すぐ近くの場所じゃないか。それに私にはこの毒牙がある。ほんの少し突き刺さっただけで獣は血を吐き、動けなくなる毒が。そして、そうなった獣の肉をほんの僅かに食べただけでもこうなってしまう程の毒が。

 それに何よりも怖い事は、この地に立っている事じゃないだろう。この子供まで喪って、また私だけになってしまう事の方がもっと恐ろしいだろう!

 前へと歩く。地を踏みしめる。

 風を感じて、流れてくる臭いに集中する。

 耳を澄ませて、異音がしないか注意する。

 結局、私に出来る事はそれだけだ。だから、それに全力を尽くそう。


 体が重いのか軽いのか、今の僕には分からない。

 一歩一歩前に出す足はまるで棒のよう。枝を握る腕は、骨と皮だけになったかのように力めない。けれど、だからこそ動けているような気がする。

 足全体じゃなくて、太ももだけを動かす感覚。枝を持っている腕を前に出して、体重を前に傾ける。呼吸をリズム良く、その歩きと合わせる。

 ただただ、それを繰り返す。ひたすらに、ひたすらに。

 べったりとした汗が額から流れてくる。目に染みてくるそれを拭う事すらしたくない。

 水をたっぷり飲んだばかりだというのに、喉がとても乾いている。お腹は未だにぎゅるぎゅると。水しかないからか吐く気はしないけれど、下痢は近い内に漏れ出しそうだった。

 ……今更に考えてみれば、炎も吐くムシュフシュの牙にある毒が、熱に弱い訳がないよなあ。

 どうしてそんな事も考え付かなかったんだろう。とてもお腹が減っていたから。それに……ムシュフシュとの絆を感じられて、僕は嬉しかったんだ。浮かれていたんだ。

 ……嬉しかったんだよなぁ。本当に、本当に。

 元気だったらきっと、口に出ていただろう。でも、今の僕にはそんな言葉を吐く体力すらなくなっていた。

 正直に言えば、弓矢も手放して、枝だけを持って歩きたい。とても、とても。

 でも、そうしてはいけない。百も承知だとは言え。

「あ……」

 ふと。目の前にある光景に見覚えがあった。

 ムシュフシュが振り返る。

 太い幹が途中で二つに分かれている大木。こういう木に的を沢山吊るして、騎士から弓を教わっていた。冬の最中、手がかじかむ中でも、毎日のように。

 ここはその場所の一つだった。

「後……少しだ」

 少しと言ってもまだまだ歩くけれど、でも後三分の一くらいか、それとも五分の二もあるか。

 立ち止まる訳にはいかない。立ち止まったら、もう歩けなくなる気がする。

 ムシュフシュもそんな僕を見て、また前を歩き始める。

 ……僕達は、こんな近くで過ごしていたんだ。

 それは紛れもなく悲劇だった。でも救いようのない程の、ただただ陰鬱な話にはならなかった。

 それだけは幸いだ。とても、とても。

 だから。


 子供の歩く速さがほんの少しだけ速くなっていた。それと同時に、呼吸も荒くなっている。

 目指す場所、多分子供の元々の住処が近付いているのだろう。

 けれど、臭いとか、縄張りを示すような爪痕とかは何もなかった。そういうものに頓着しない種族なんだろうか。

 だからこそ、こんな近くに住処を構えながらも、母は今まで気付かなかったのだろう。縄張りが重なっていなくても、熊や飛竜と言った目立つ脅威がその近くまで来ていたら、すぐに気付いていたから。

 ……糞の臭いがした。

 肉を食っているような強い臭いはしないが、新鮮なそれ。

 肉食でなくとも、猪や熊の糞は、木の実ばっかり食っていれば強い臭いを発さないものだ。

「グゥ」

 子供の方を振り向いた。

「どうしたの? ……何か居る?」

 察してくれたようで、共に辺りを見回す。ただ、他に見える範囲では土をほじくり返したりだとか、そんな痕跡は見当たらない。

 少なくとも、近くには居ないようだが……。

 立ち止まっていると、また隣に子供がやってきた。

「はぁ……ふぅ……」

 枝に体を預けて、今にも崩れてしまいそう。

 ぽた、ぽたりと体から水を垂らしている。狼が疲れている時に涎を垂らしているようなものだろうか?

 その足は、ぶるぶると震えていた。今にも倒れそうな雰囲気を醸し出しながら、子供は口を開いた。

「……ごめん、もう、そんなに持たなさそう」

 ……もう、ダイジョウブとは言わなかった。

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