3. 自惚

 茂みに隠れている何者かは、けれど一向に襲ってくる事はなかった。

 けれど、そこに居る。時折、茂みが不自然に揺れている。

 近付いても来ず、だからと言って諦めもせず、ひたすらに僕とムシュフシュの隙を伺っているように思えた。

 多分……というかほぼ確実に、狙われているのは僕だけなんじゃないだろうか。子供であろうとも、一撃必殺の毒牙を持つムシュフシュを狙おうなんて、相当切羽詰まってないと思わない気がする。

「……生きるって決めたんだ」

 僕はまだ非力だ。とても、とても非力だ。そう、この森に住む誰からも思われているだろう。

 それは当たり前で、外見だけ見れば二足歩行しているのが珍しいだけの、ひょろ長い体。牙を防いでくれるような毛皮も持ち合わせてない、素肌を見せびらかしている脆そうな体。

 そして今、僕はムシュフシュを頼るしかない状態だ。けれど、今は互いに背中を預けあっていると言っても、まだ一日足らずな関係。

 そのムシュフシュには、僕を差し出すという選択肢も持っている。

 こんな膠着した状態が続けば、もしかしたら。

 だから今、僕は役に立たなくてはいけない。茂みに隠れている誰かを射抜かなくてはいけない。


 その声。

 一度振り向けば、ただ構えていただけのユミとヤをいつでも放てるように引き絞っていた。

 先に仕掛けるつもりだ。集中し始めると、私の事などまるで意識の外に放り出されたかのように、ただひたすらに前を向いていた。

 先に狙われるなら毒牙を持つ私ではなく、この子供であると子供自身が分かっているのだろう。

 茂みの中、揺れる茂みの音には次第に規則性が出来始めていた。子供と私を狙っているのは、狼だろう。けれど狩りにまだ慣れていない、群れから出たばかりな若者だと思う。

 ちゃんと狩りに慣れた狼達なら、音なんて微塵も立てない。闇夜だろうと、雨風の中でも、空腹だろうと、どんな時でも。

 そして気付かれないまま、気付かれたとしてももう手遅れになっている状態で、ほぼ確実に仕留める。

 母と共にそういう光景を良く見せられたものだった。……私が狙われる側になるなんて思ってもいなかったが。

 キィ……パンッ。

「ギャンッ!」

 ヤが飛び出した音とほぼ同時に、狼の悲鳴がした。

「アッ、ガ、ア……?!」

 上手く当てたようで、私の毒も上手く効いているみたいだ。

 その場で次第に悲鳴が小さくなっていくのに、もう一匹の狼も逃げ去っていく足音が聞こえた。

「はぁ〜〜……」

 緊張が解けた彼は、膝を付いて大きく深呼吸をしていた。

 隣に歩けば、胸に前足を当てて息を落ち着かせている。この子供にとっては初めての狩りだったのかもしれない。

 けれどそれも僅か。立ち上がると「じゃあ、帰ろうか」と、落ち着いた声を掛けて来た。

 ほっとした声は、それがどういう意味か知らなくても分かる。

 日が登り始めていた。


 血を吐いて倒れていたのは、やっぱり狼だった。騎士が狩って来た事のある成体よりはまだちょっと小さく、傷とかもない綺麗な体。巣立ったばかりだったのかもしれない。

「ハッハッ……ヒュー、ヒュー……」

 まだ生きている。けれど四肢を力なく動かすだけで、それから虚ろな目で僕を見てくる。

「……」

 ごめん、と言うのも何か違う気がして、無言のまま首を切った。どぱ、と血が吹き出してきて、狼が事切れる。

 ……それで、これ、食べられるんだろうか。

 あんまり美味しくないのは知っているんだけれど、ムシュフシュの毒で冒されているし。

 毒蛇は、首を切り落として胴体を焼いて食べた事があるけれど、それは毒が頭にしかなかったからだと思うし。

 でも、まあ取り敢えず。焼いてほんの少しだけでも食べてみれば良い。毒は狼にとっても致死量じゃなかったみたいだし。

 矢を引き抜いてから後ろ足を持てば、もう片方をムシュフシュが咥えた。

「……ありがと」

 そうして、帰りも横に並んで帰った。狼を引きずりながら。


 寝床まで着けば、どっと疲れてしまったのは私も子供も同じなようだった。

 けれど、腹も減ったし、喉も乾いた。子供はその親の牙やらを置いて、私も狼を巣穴の奥にしまい込む。

 近くの小川まで水を飲みに行って、子供は血を拭った。

 それから、何となく顔が合った。

「…………」

 子供も何も口に出さない。静かにそれだけの時間が過ぎていく。

 そうしている内に何だろうか、実感が湧いてくる。

 これから、私はこの子供と生きていくのだという。母とでもない、私だけでもない、この妙な、毛皮も鱗も持たずに二足で歩く妙な生き物と。

 けれど、どうしてだろうか、不安ではあるが、不快だとは感じなかった。

 きっとそれは、同じ境遇だからだろう。そして、私達は共に恨みを抱かなかったから。

 命を投げ捨てる程に。その無防備な親の仇の子に対して牙を突き立てない程に。

 これから困難は数多に訪れる。ただ、その隣にこの子供は居てくれる。

 私は母を喪った。けれどその災難に対して、唐突に私だけで生きていくという、どうしようもない心細さまでは訪れなかった。

 それはきっと、少なからず幸運な事なのだろう。


 対等な関係だった相手なんて、今まで誰か他に居ただろうか?

 その答えが明らかでも、僕は振り返っていた。

 勉強も沢山の習い事も、食事から湯浴みから睡眠まで、僕の周りには対等な立場の人間が居なかった。兄妹でさえ、気軽に声を掛ける事も出来なかった。

 城の書庫で物語なんかを読んでいると、同年代で親しくしている人達というのが必ずと言って良いほど出てくる。

 そういうのが羨ましくて仕方がなかった。

 流石にそんな事……城下で毎日あくせく働いているような人達が羨ましいなんて口に出す事は出来なかったけれど。

 父母は殺され、兄妹もどれだけ生き残っているか分からない。王子から賞金首に身を落として、僕を唯一守ってくれていた騎士も命を落としてしまって。何もかもを喪ったその代わりに、そんな対等な関係のムシュフシュと出会った。

 それにどれだけの価値があるのかを少し考えて……でもやっぱり、考えない事にした。不毛なだけだし、そうしたところで過去が戻ってくる訳でもないし。

 乾いた木々を手に取りながら帰る。そんなものを集めて何をするんだと言うような目でムシュフシュが見てくる。

 人間は残念ながら、生肉を食べられるほど強い胃袋をしていないんです。

 帰るまでに、ある程度の焚き木が集まる。ムシュフシュの巣穴の周りは乾いた砂地になっていて、焚き火をするのにも適していた。

 集めたそれは置いておいて、狼を引っ張り出す。矢傷から最も遠い後ろ脚を切り落として、後はムシュフシュに渡した。

 これだけで良いのか? というように何度か大きさを比べていたけれど、そんなものだよ。僕、小柄だし。

 皮を剥ぐ。この森に入る頃には人の血を見るのにも慣れてしまっていたから、騎士に教わりながらやる時にはもう、意外と嫌悪感もなかった事に逆に嫌になったっけ。

 それももう、百日以上前の事。焚き木を組んで、火打ち石で火を点ける。

 燃え上がって来たところに、肉を置いた。これで食べられるようになるだろうか?


 子供が石を使って炎を生み出したというのにも驚いたが、それで肉を焼くという事にも驚いた。

 そんな事など、母もした事がなかった。

 肉を食べながらそれを見ていると、段々と肉が茶色くなっていく。中々に良い匂いが漂ってくる。

 ……なんだろう、生で食うのとは別に美味そうだ。

 ぐうぅぅ。

 腹を鳴らした子供がその腹を擦る。子供も肉をじっと見ている。

 それなら、と肉を食い千切って子供に渡そうと思ったが、そこで気付いた。

 ……この肉には私の毒が染み込んでいる。

 私がヤに滴らせた毒は僅かではあるが、この狼に血を吐かせる程のもので。

 この子供にとっては毒だ!

「焼けたかな……」

 だが、その子供は火からそれを丁度取り出して口に運ぶところだった。慌てて止めようとしたが、子供は私の方を見てきた。

「分かってるよ」

 そう言うと、十分に茶色くなった部分だけをほんの少しだけ千切って食べた。

 もぐ、もぐ。みち、みち、ごくん。

 …………。

 何も起こらない。けれど。

「……大丈夫かなぁ?」

 ぐぅぅ、とまた鳴った子供の腹。肉をまた火の上に置いて、子供はそれから暫く待っていた。

 けれど。

 もう一口を食べようとした時に、子供の腹からぎゅるるるっ! と音が鳴った。

「あっ、うぷっ、げぇぇぇっ!!」

 一瞬口を抑えるも、子供は何をする間もなく吐き出した。

「げぶっ、ごほっ、げぇっ!!」

 ……幸い、血は混じっていない。命に別状はなさそうだ。でも。

「はぁっ、はぁっ」

 吐いたものの中には肉と、今日私に分けてくれた果物と、後は胃液ばかり。

 ぎゅるるるっ、と子供の腹がまた強く鳴る。子供は激しく咳き込む。

 私の毒の影響が残っている事であり、そしてそれ以上に子供は空腹だった。

「大丈夫、まだ、大丈夫だから」

 声を出して私の方を向いてきたその子供の顔は、けれど見るからに虚勢を張っていた。顔は青褪め、頬はこけていた。

 私は……私はまだ、重くない。母のように尻尾で猪を絞め殺したり、狼の首を踏み砕いたりと、そんな事は出来ない。

 私はまだ、狩りをするのにこの毒牙にしか頼れない。けれど私の毒牙ではこの子供の空腹を満たせない。

 いや、木の実なら? いや、でもその近くは大体狼とか熊とかの縄張りに近かった。

 この子供と行ってはダメだ。じゃあ、私だけで? いや、いや、果物を取れたとしても、私の牙を食い込ませずに持って来れるか? 無理だ。遠いし、そんな事した事がない。

 私には、この子供の空腹を満たせない。

「はぁーっ……ふぅーっ……」

 子供の呼吸が落ち着いてきた。すると、地につけていたその手が握り締められる。

「……馬鹿したなぁ……。でも、まだ動ける。まだ」

 そしてふらつきながらも立ち上がった。ヤを取り出して、その先を拭うと、ユミと合わせる。

「ごめんね……。でも、一緒に行ってくれるかい?」

 子供が私に声をかけて来る。相変わらず、それが何を意味するかは分からない。

 けれど、その目には意志が宿っていた。昨晩、私と会った時にしていた、全てを諦めたかのような目とは全く違う、気力に満ちた目。

 まだ諦めていない。

「グゥ」

 私も立ち上がった。今度は、私が子供の前へと立った。

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