2. 朝靄
目が覚めると、目の前には体を丸めて眠るムシュフシュが居た。
頭から太く長い尻尾の先までは二周近くしていて、けれど頭はしっかりと出している。
親が居たなら、その頭もすっぽりと埋めてぐっすりと寝ていたんだろうか。
「……夢じゃ、なかったんだなあ」
崖下に掘られた洞穴、ムシュフシュの巣の中。そこで僕はゆっくりと体を起こした。涼しい朝。
そう呟けばムシュフシュも目を覚まして僕の方を見てきた。
「……おはよう」
「グゥ」
けれど未だ僕達は困惑したままだった。
何をどうしたら良いのか、教えてくれる誰かはどこにも居ない。
ぐぅ。
でも、お腹は減った。
「そういえば……」
ポケットに干し果物があった事に気付く。
それを取り出すと、ムシュフシュがそれを見てきた。半分に割って僕が先に食べてから手渡してみると、慎重に匂いを嗅いだり、舐めたりしてから口に入れる。
もぐもぐ、もぐもぐ……ごくん。
その体には全く足りないだろうけれど、味わって食べているように見えた。
その子供が取り出したのは黒ずんだ、どう見ても捥がれてから長い時間が経っているしわしわな果物。
それを食べるのか? と怪訝に見ていると、半分に割ったそれを余りにも躊躇なく口に入れて食べるものだからとても驚く。
この生き物は悪食なのだろうか? と思っていると、それを渡してくる。
これを食べろと? けれど、鼻に届いてきたのは生の果物より濃厚な、甘い匂い。
もう子供はそれを食べ終えていて、毒ではないみたいだが……。
匂いを近くで嗅いでみれば、まるで蜂蜜のような濃厚で。少し舐めてみれば、乾いていても果物の味がした。しかも生のよりとても強い。
腐っている訳じゃなさそうだ。
意を決して食べてみると、果物から水分だけが抜けた味がした。いや、そのままだけれど。
水分だけが抜けて、甘味はぎゅっとそのまま詰まっていて。まるで蜂蜜みたいだった。
けれど、すぐに食べ終えてしまう。
ああ……。
「美味しかった? 僕達の寝床の方には少しばかり蓄えはあるんだけど……」
何やら私に声を掛けてくる。
昨晩から相変わらず多種多様なその声が意味する所は分からないが、どうやらこの生き物は声を使って意思疎通をするみたいだった。変な生き物だ。
身を守る鱗とかも自分の体から生えているものじゃないし、牙や爪もないから身を守るものも別に持っているようだし。挙げ句の果てに後ろ足だけで立って、細い前足は地面に着ける事もなく、いつも自由だ。
その牙の代わりになるらしきものを手に取って、その子供は外へと出る。私もそれに続く。
霧が薄く立ち込めている、まだ太陽の眩しさがない明朝。
「ねえ」
また呼びかけて来た。その子供は、その牙の代わりになるらしきものに細く尖ったものを添えて引っ張った。
ぐぐ……、パンッ!
それは目に見えない速さで木へと突き刺さっていた。
……え? その細腕で? 子供は私の前へと平然と歩く。いや、いや、それは……。
私の方こそあの時死んでいたのではないか? この子供がその気なら、あの時構えていた前足を離していたら、遠くでじっと様子を見ていただけの私の頭にこれが突き刺さっていたのでは?
複雑な気持ちになる私に対し、子供が振り向いてくる。
ムシュフシュは人と共に生きた記録のある獣だ。人語も解するし、人と暮らしていればとても人間臭い仕草も見せる事もあったと言う。
ムシュフシュは殺しに快楽を抱く残忍な獣だ。縄張りの為でも何でもなく、明らかに快楽の為に人を殺し、幾つもの村を単独で全滅させた事があったと言う。
そして僕が弓を放ってみせると、唖然として暫く動かないムシュフシュ。
長閑なものから残酷なものまで色々な昔話のあるムシュフシュという獣が賢い事は知っていたけれど、僕が思っていた以上に感情とか思慮とかに長けているようだった。
振り向くと、はっとしたように歩いて来る。僕は木から矢を引き抜いて、矢筒に戻した。
ムシュフシュはしっかりと出来た穴をじろじろと覗いてから、弓を見て来た。
「これは、弓って言うんだ。人間がかなり昔から、獣や……それから人間も殺して来た、とても強い武器」
意味は理解していないだろうけれど、耳を傾けてはいる。
「弓と、矢。こっちが弓で、こっちが矢」
言葉を解するようになってくれれば、一緒に暮らす上での関係も良くなっていくかもしれない。
僕が前を歩こうとすれば、ムシュフシュは僕の隣を歩いて来た。
僕の命はまだ、ムシュフシュのものだ。そう思って前を歩いたけれど、それを良しとはしないみたいだ。
顔を合わせると、いっ、と牙を一回見せて来た。
自分にだってこの毒牙があるんだからな! と見せつけて来ているようで、ちょっと笑いそうになってしまった。
子供は昨日の私達が出会った場所、私の母と子供の父が死んだ場所に向かおうとしているようだった。
余り気乗りはしなかったけれど、子供には何らかの理由がありそうだったから、付いて行ってみる。互いに血を流しすぎていたから、もう食べられているかもしれないし、今も肉食獣が食い漁っているかもしれない。
それはこの子供も分かっているようで、そのユミとやらにヤとやらを当てて、いつでも放てるようにしている。
もし……もし、それがいきなり私に向けられて放たれたとして、私はそれを避けられるだろうか? この子供はそんな事して来ないだろうけれど、正直に自信がない。
けれどその子供も、きっとそれは同じなのだろう。
……結局、この子供も、そして親を多少疎んじていた私も、まだ親から離れるには早過ぎた。
だからもし、私達が成長しきっていたら。それぞれでも生きられるまで成長していたら。こうして横を歩くという結果にはなっていなかったかもしれない。
殺し合い始めて、どちらかが死ぬか、それとも親達のように両方とも死ぬか。そんな結末になっていたかもしれない。
だとしたら、私達が子供だったのは幸運でもあったのかもしれない。
ひゅるるるる。
……血の臭い。昨日とは全く違う、もう乾いた血の臭い。
もう、近くだった。
私が慎重に身を潜めたのに、子供も遅れて身を潜める。鼻に関しては私より余り良くないのかもしれない。
一旦足を止めて耳も傾けてみる。けれど、臭いからしても、音からしても、そして視界からしても肉食獣やらの気配は感じられない。
母の毒のある肉体など、誰も食べようとは思わなかったのだろうか。それはそれで誰の血肉にもならずに土に還っていくというのは寂しいかもしれない。
だからと言って私が母を食べるなんてしたくもないが。
そんな、もやもやとした気持ちになりながら、また歩いていく。さっきよりも慎重に、子供も身を屈めて。
……やっぱり誰も居ない。どこを警戒しても、目を凝らしても誰も居ない。
そしてそのまま、着いた。
「あ、ああ……」
私の母は全く食べられていなかったが、子供の親の方は少しばかり啄まれていた。ただ、それでも私の母の毒が影響しているのか、少しばかりだった。体の形も普通に残っている。
子供はその親の前で膝を着き、手を合わせて目を閉じた。ユミからも手を離して、目も閉じて、隙だらけな行為。
そんな行為を、全く動かずに暫く続けていた。
でも、この子供には必要な行為なのだろう。それだけは何となく思えた。
ただ悲しむのではなく、それでもこれから生きていく為に。私も、母の死体を見つめ直した。
……私は、この子供と共に生きてみようと思う。不服だろうけど、許して欲しい。
子供が目を開けると、口を開いた。
「騎士……僕、もう少し頑張ってみるよ」
そう言って、親の体から色々と剥ぎ取り始めた。
鈍色に輝く薄く鋭い牙を幾つか。身につけているものから、私にはどう使うのか全く分からないものを沢山。
手を血だらけにしながら、それを自分の身に付けていき、そして最後に残ったのは母の背に突き刺さったままの一番大きい牙。
「……これも良いかな?」
親が振るうならともかく、この子供には到底振るえそうにない牙。
けれど、成長したのならばもしかしたら。
別に、というように私は周りを警戒する事にした。
「うっ、ぐっ……」
ずっ、ずずず、と母の背から引き抜いていく音がする。余り気持ちの良い音ではない。
「ふぅ……、とても重いや。でも、うん、大丈夫」
振り返れば、その巨大な牙を背負った子供が歩いて来ていた。
それは余りにも不相応過ぎて。
「なに尻尾揺らしてんのさ」
可笑しいと思っているのが伝わってしまったらしい。
ムシュフシュはどう見ても僕の格好を可笑しいと思っているみたいで、済まないと言うように僕の血塗れの手を舐めて来た。
牙を突き刺さないと毒は伝わらないのだろう。……多分。
ある程度血が取れたところで、べっとりと濡れた手を服で拭う。綺麗になった。
「一旦戻ろうか」
そう言って元の方を指差した時、がさがさっ、と茂みが揺れる音がした。
咄嗟に矢を番えた。
音がした方を見る。
がさがさっ!
後ろからも音がした。
「えっ、二匹!?」
思わず声を出してしまう。
どうしたら良い、どうしたら良い?
「グルゥ!」
そんな中、ムシュフシュが僕の服を唐突に引っ張った。
「えっ、ちょっと!?」
僕の矢筒から矢を数本咥えて引っこ抜き、地面へと落とす。
何をするのかと思えば、その鏃に牙を突き立てていた。
……ムシュフシュというのは、本当に賢い獣なのだと僕は思い知る。
番えていた矢を外して、その牙を突き立てられた、毒矢となった数本を手に取る。ムシュフシュは僕と別の方向を警戒した。
「グルルッ」
朝はまだ、ムシュフシュは僕の事を少しばかり警戒していた。僕は、ムシュフシュにまだ殺されるのではないかと疑っていたし、殺されるなら仕方がないとも思っていた。
けれど今はどうだ。数時間も経っていないと言うのに、互いに背中を預けている。
何だろうこの温かい気持ちは。
いや、今は。集中しなければ。
僕はこれからムシュフシュと生きる。そう決めたんだから。
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