1. 月光
夜の森は恐ろしい。それは騎士から口を酸っぱくして言われた事だった。
夜目や鼻の効く肉食獣が闇に乗じて獲物を音なく屠ろうとする時間帯。それでも昼間よりは襲われにくい草食獣が活発に動き回る時間帯。
寝床の周りには罠を沢山仕掛けてあった。ただ草を結んだだけの簡素なものから、毒草の汁に浸した棘、それから落とし穴まで。
数多に仕掛けてあるそれは、毎日と言って良い程有効に働いた。そして、それを仕留める間もなく、悲鳴に気付いた肉食獣が襲って来る事も多々あった。
無窮の森はそんな沢山の危険と、沢山の命が溢れる森だった。けれど、悪意はない。あるのはひたすらに無情なだけの弱肉強食。
それは僕にとってはもう、人に囲まれて暮らすよりとても気を楽にして居られる場所だった。
でも……それは騎士が居たからこそ。僕はまだ弱肉だ。弓が多少使えるようになっても、騎士から生き延びる術を教えて貰っていても。
そんなまだまだ付け焼き刃な知恵は、この場所で僕だけで生きるには余りにも貧弱だった。
「騎士……どこに居るの……」
毎日毎日、少しばかり見回りに行く時はあっても、日が暮れる前には僕の隣に戻って来てくれた騎士。
我慢出来なかった。
僕と騎士の拠点、木の根に縛り付けられた大岩の下から出ると。
「明るい……」
そう呟いてしまう程に月は輝いている。足元も見える。
「どうせ……どうせ、騎士が居なきゃ僕は生きられないんだ」
弓に矢を番えて、僕は歩き出した。
どうしてか、私には父が居なかった。
春に交尾をする獣。夏に生まれた子を育て守る、雄雌の親達。
どちらかだけで子を育てるような獣も居たけれど、そもそも私には最初から母しか居なかった。私の同族は、母しか見る事がなかった。
不思議に思った時、母の庇護がとても強いものである事にも気付いた。
生まれてから、暑くなって寒くなってがもう何度繰り返したか、片指の数以上は多分もう過ぎているというのに、私が私だけで狩りをし始めたのも、まだ最近の事だ。
普通の草食獣や肉食獣はもう既に母親や父親となって新たに子を為していたりするというのに、それでもまだ私は母に強く庇護されている。未だ母は私が私だけで遠くに行く事を許さない。
……多分、それは恐れなのだろう。その原因は、父が死んでいるからなのだろう。
私はそう思っていた。
そんな母を鬱陶しく思う時もあった。けれども、母の恐れは共に過ごすに連れてより精緻に伝わって来る。
そして他の獣より私が大きくなるのが遅いのも分かっている。私はまだ、母より一回りも二回りも小さい。
だから、私が願う事は。早く、母のように大きくなりたい。唸るだけで熊をも逃げさせられる強さを手に入れたい。そうして、母を安心させたい。
でも。
「グゥ……」
夜になれば私の傍から離れない母はこの日初めて、何の前触れもないままに私を孤独にさせた。
母、母。……母。私はどうしたら良い? それとも、これはもしかして、私を試していたりするのだろうのか? 私には分からない。
ただ……このまま巣穴に篭っているのは寂し過ぎる。
ばくばくと心の根が喚いている。
さっさと帰れ、明日になってからでも遅くないと僕の良識が喚いている。
でも明日になって騎士が帰って来なかったら、結局同じなんだ。死ぬのが今晩か明日か、ただそれだけなんだ。
そんな、牢獄の中で翌日の処刑を待っているような事、僕は一時だってもう経験したくない。
さく、さく。
足音がやけに響く。足元は僅かに見えるだけ。
ざああああっ、ざあ、ざああ。
唐突に風が吹く。木々が揺れて月が一瞬隠れる。手元も一瞬見えなくなる。
こんな暗い森の中で騎士が見つかると思っているのか?
「そんな正論なんて……そんな正論なんて、何の役に立つって言うんだ? 勉強してきた事なんて、何一つ、何一つ役に立たなかったじゃないか。役に立たなかったじゃないか!」
風に紛れて小さく叫んだ。
手が、足が震えている。狼やらが近くに居たならば、簡単に押し倒されて首を食い千切られるだろう。
「でも、でも……死にたくないなあ」
それでもふと出て来たその言葉。同時に鼻に、変わった臭いが届いて来た。
血の臭い。
血の、臭い。
「……は……」
どくん、と最悪の想像が頭に過ぎる。確かめになんて行きたくない。もし、本当にそうだったら、僕は、僕は。
けれど、確かめに行かないという選択肢も僕にはもう、ない。
僕は、僕は……。
初めて歩く夜の森。
昼とは様相が全く違う。私が毎日母に守られて惰眠を貪っていたのに対して、森は夜でも活発だ。もしかしたら昼以上に。
誰もが生きようとしている。生きている事が当たり前だった私が、今、そうでなくなった場所にぽつんと立っている。
巣立ちしたばかりの獣の気持ちはこんなものなのだろうか? いきなり放り出されて、覚悟なんて後から出来てくるものなのだろうか?
母……どこに行ったのだろう。それとも私をこっそり近くで見ていたりするのだろうか? そうであって欲しい。
ざああああっ、ざあ、さああっ……。
風が吹く。色んな臭いが届いてくるけれど、母の臭いはしない。
少なくとも、近くには居ない。
じゃあ、どこに? 嫌な想像ばかりが浮かぶ。
母に何かあったのではないか? 父が居ない原因が、母にも襲いかかったのでは? そんな脅威が、もしかしたら近くに?
尻尾の先から首筋まで一気に背筋が震え上がった。
逃げ帰りたくなった。でも、もし本当に母が殺されていたら。寝床に戻るのも怖い。寝床、穴ぐらを見つけられたら、私に逃げ場所はない。
こうして夜の森の中を歩いている方が良い。……多分。
声を上げて母に呼びかけたい。でも、もしその脅威が居たら。母が殺されていたら。私はその途端にきっと、死ぬ事が決まるだろう。
そんな事はないと信じたい。でも、夜の森を歩く事も許さなかった母は、こうして歩いている私を未だに咎めて来ない。
ひゅるるるる……さあああっ。
風向きが変わった。
「……ヒュッ?!」
母の……母の、とても強い、血の臭い。
脇腹を食いちぎられて、もう冷たくなった騎士。下半身を真っ二つに縦に割かれた、本の中でしか見た事のないムシュフシュ、獅子竜。
「あぁ……ああ……」
倒れた騎士の伸びた手の先は、僕がやって来た方向……僕と騎士の寝床の方を向いていた。最後まで、最期まで帰ろうとしていた。
命を賭けてまで、こんな大きな獅子竜を打ち倒してくれた。僕を最期まで案じてくれていた。
だから、僕はそれに応えなきゃいけない。僕は生きなければいけない。
でも……でも……。
「僕、まだ、一人で生きられないよ……」
騎士のように強い体も、知恵も、心も何も持ち合わせてないのに。
泣き出したい。全てを投げ出してしまいたい。
「でも、でも、死にたくないよう…………騎士と一緒に生きたかったよう……」
がさっ、がさがさっ!
「ひっ」
咄嗟に矢を番えた先には、四足の、竜の頭を持つ生き物……このムシュフシュより一回り小さくした、ムシュフシュが居た。
それは、それは子供の……騎士が殺したこの親の、子供の……。
「え、あ……?」
沢山の血を流して倒れている母。沢山の血を流して倒れている、見た事のない生き物。その隣で、私を見つけたその子供。
何かを私に、怯えながらも向けている。
「子供……子供……?」
何が起きたのか、私は理解してしまった。
それぞれの親が守ろうとして、死んでいった。
ただそれだけの、単純な事。形は違えど、私も見かけた事がある。けれど、それが私の前に降ってくるとは思わなかった。微塵たりとも。
そして、目の前に居る子供も理解する程の賢さを持つ生き物なのだろう。
けれどその子供だけが取り残されて、合間見えてしまった時、どうすれば良いかなんて私には分からなかった。
その、何かを構えている子供。多分それは、ひょろ長いその生き物が私に対抗出来るようなもの。近寄られるのは躊躇われた。
ただ、その生き物が発する声は震えていた。そこに怒りとか憎しみとか、殺意めいたものは全くなかった。
多分……その子供もどうすれば良いのか分からないのだろう。
僕が、その子供まで殺せたところでどうなると言うのだろう。何にもならない。生き延びる術も、これ以上どこか逃げる場所もない。
死にたくないけれど、死にたくないけれど、それが事実だ。とても惨めで、つまらない事実だ。
弓矢を番える理由なんて、ない。
ないのだ。どこにも。
「王子になんて、生まれたくなかったなぁ……」
がくがくと震える腕。それが間違って矢を飛ばしてしまう前に、ゆっくりと緩めた。
元の形に戻った弓と、外れた矢。
それらを投げ捨てた。そして僕はその子供を、親を殺された子供のムシュフシュを見た。
憎むなら……憎むなら、殺して欲しい。今、ここで。
罠だとは思わなかったけれど、近寄る事はそれでも憚られた。
躊躇っていると、その子供は仰向けになった。両前足を広く伸ばして、その先には何もない。
「ああ……」
やはり、その声からは憎しみや恨みなんて感じられない。ただただ、無気力な。
私は茂みから体を出した。
近くまでゆっくり歩いて行っても、その子供は何も反応らしい反応をしなかった。
まるで、生きる事を諦めたような素振り。すぐ側まで近寄っても、四肢すら動かない。目が合った。涙を流しているその瞳に、月光が強く反射されていた。
その目には、その顔には、やはり殺意とか憎しみとかそんなものは微塵も感じられなかった。ここまで近寄られて何もせず、この子供は、生きる事を諦めているように見えた。
私の母と相打ちになったその親。この子供に比べてしまえば、遥かに力強い肉体をしていた。私の母に突き刺さっている、誰が備える牙よりも遥かに巨大な牙。きっと、これを軽々と振り回せたのだろう。
それに比べてこの子供は四肢も全身もひょろ長いだけで、こんな牙を振り回せるとはおろか、この森のどの生き物にも劣っているように見えた。
…………。
私は口を開いた。
牙が迫ってくる。僕は目をぎゅっと瞑った。
けれど、ぺたりとした感触がずるりと。二度、三度。
顔を舐められていた。
恐る恐る目を開けると、目が合った。落ち着いていて、それでいて悲しげな、悲しげなその表情。
このムシュフシュは、僕を殺そうとは思っていなかった。全く、全く。
僕と同じ境遇である事までを理解して、殺される覚悟の僕に寄り添って。
優しくて、とても優しくて。
息が詰まった。
「ひぐっ、うぐっ、うう、えぐっ」
声が漏れ出してくるのを、胸がばく、ばくと強く跳ね始めるのを、僕は全く止められなかった。
私はどうしたら良いのか分からなかった。けれど、少なくとも、この子供を殺す事は間違いだと思った。
顔を舐めると、子供が目を開いた。私と更に間近で目が合って、また涙が流れ始めた。
「ううっ、ああっ、あああっ! あああああっ!!」
唸り声。慟哭。赤子のような剥き出しの感情。
けれど、馬鹿に出来る事じゃなかった。それを聞いていると、私の胸さえもどうしようもなく熱くなっていった。
私は、その隣に座った。
私も、顔を埋めた。
自ずと息が荒くなってくるのを、止められなかった。
僕が、この子供が、もし騎士とこの親が戦う場所に来ていたならば、こんな事にならずに済んだだろうに。
もし私がこの子供と、親より先に出会えていたら。こうして隣り合えていたら、誰も命を落とさずに済んだかもしれない。
けれど、もう遅い。
過ぎた事はもう、覆らない。
生き返ったなんて事が許されるのは架空の物語の中だけだ。
牙に捕らえられた、病に倒れた、冬の飢餓を生き延びられなかった、寿命が来た弱者のように、土に帰って行くだけ。
けれど。
でも。
僕は、まだ生きられるかもしれない。希望が、ほんの少しだけ残っていた。いや、訪れてくれた。
私はまだ土に帰る気など更々ない。守られなくなっても、まだ狩りが満足に出来なくとも。
互いに落ち着いてからまた顔を合わせると、そのムシュフシュが先に立ち上がった。共に生きてくれる事を祈って、僕も立ち上がる。
子供が遅れて立ち上がる。先程のような、全てを投げ捨てたような顔はもうしていなかった。
「えっと……よろしくお願いします」
「……グゥ?」
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