侘しい仔竜と逃亡王子

マームル

霧中

0. 黄昏

 ムシュフシュと呼ばれる生物が居る。

 獅子竜とも呼ばれるその生物は、竜のように鱗に覆われた頭と尾、獅子のような分厚い毛皮に覆われた四肢を併せ持つ。

 その四肢は人をも踏み砕き、尾はまた絞め殺す。強烈な毒を備える牙を持つ口からは炎も吐いて見せる。

 彼らは翼を持たず、竜のように空を飛べる訳ではない。

 だが、密林の中、たった数匹で百人以上を土に帰した事もあれば、平野であれど幾人の弓兵に対して無傷で屠り散らした記録もあった。

 地上においては竜よりも強大に、獅子よりも恐れられる存在として君臨する彼らはまた、聡い獣でもあった。

 聡いからこそ、人と共に生きる個も居れば、人を面白半分に虐殺して回るような個も存在した。

 聡いからこそ、人が如何様な生き物であり、それを向けられた悪意と共に経験したのならば、以降人と交わる事は決してなかった。


 夕暮れ、とある森の奥深く。

 赤く染まった木漏れ日が届くその場所で、一人の男が大きな剣を構えていた。

 ガサガサッ、ザスッ。

 ギシ、ギシ……バキッ!

 その男の周りでは、ムシュフシュが目まぐるしく駆け回っていた。枯葉を蹴り上げ撒き散らしながら、木の上へと跳び上がって宙を駆けながら、男の隙を探っている。

 しかし、如何に揺さぶろうとも男が動く事はなかった。その手に握られる、男の身丈に及ぼうかと言う程の太く長い牙。確と構えられた鈍色に輝くそれは、まともに食らえば自らの命を容易く刈り取るだろう。

 ダンッ!

 しかし、意を決したムシュフシュ。斜め後ろ、木の上から男へと飛び掛かった。男は冷静に振り向き牙を薙いだが、ムシュフシュは直前でその長い尾を木に巻き付けて宙に留まった。

 牙の先端がすぐ目の前を通り過ぎる。風圧だけが強く届いてきた。それはムシュフシュであれど恐怖を抱かせるには十分で、だが振り切った姿勢。満を辞して炎を吐こうとすれば、更に男がぐるんと身を翻した。

 ぞく、と強い恐怖が反射的に木の上へと体を引き上げさせる。同時に、首のあった位置に牙がより深く通って行った。

 男の舌打ち。苦し紛れに炎を吐けば、簡単に避けられた。

 くそ、人間如きが!

 だがしかし、退くという選択肢は微塵もない。人間は、我が夫を奪い去っていった存在なのだから。生かしておけば、我が子までを狡猾に奪い去っていくに違いないのだから。


 男は真っ直ぐに剣を構え直す。

 額からはだらだらと汗が垂れ続けている。それが目に入ろうとも瞬き一つも許されない。握りやすく凹凸を施されている柄も手汗で滑りそうになる程だ。

 剣を小さく握り直し、静かに呼吸を整える。

 また周りを跳び回り始めたムシュフシュに対し、耳に全神経を集中し始めた。

 ーー男は母国を追われた騎士であった。

 男はまた、国の中でも随一の実力を誇る騎士であった。

 だが突如起こった反乱に対して、誰が味方か敵かすらも分からない状況に陥ってしまえば、そんな男であれど出来る事は限られていた。

 王子の一人を連れて当てもない逃亡の旅に出たその男は、王子もろとも高額な懸賞金を懸けられてしまう。

 それに釣られた仲間からは裏切られ、宿屋の主人、片田舎の農村の民、地元の親族の誰であろうと人を信頼する事も出来なくなっていく。そんな中、追手はいつまでもどこまでもやって来る。

 無窮の森と呼ばれる、未だ人の介入を阻んで通さないそんな死地へと入ったのは、それと同等以上に人里全てが危険だったからだった。

 しかしその地は、悪意に四六時中気を張っていなければいけない人里よりは、意外な程に過ごしやすい場所であった。

 男が森の中で生きる術を王子に教えながら新たな時を経ていけば、その王子は柔らかい表情を再び見せるようになっていく。

 それに男も漸く気を緩め始めていた時の事であった。

 唐突に襲ってきたムシュフシュは、獲物として以上の明確な殺意、敵意を向けてきていた。

 王子の為にも逃げる訳にはいけない。生き延びなければいけない。


 ムシュフシュが跳び回る。地面を、木の上を。男の背後を、正面を、その頭上を絶え間なく、不規則に。

 男はじっと待っている。木の葉を撒き散らされようとも、全く動じない。背後から太い枝が投げつけられても、見えているかのような最低限の動きで避けられる。そして一手間違えればこの身を両断して来るであろう男に、ムシュフシュは攻め手を見つける事が出来なかった。

 しかし。

 湿った地面、先程吐いた炎は燃え広がる事なく消え失せていた。夕暮れの日差しは更に傾き、長く伸びた影の先は暗闇へと繋がっている。

 闇夜は近い。火を使って夜を克服しようと試みる人間という存在は、夜目が効かないであろう事をムシュフシュは知っていた。

 だが、それでも男は動かない。闇夜が来ようとも、どうという事はないと示すが如く。

 ……もし、この男が夜目も効くとしたら?

 どうやって殺せば良いのか、まるで見当が付かなかった。


 その男も内心では焦りを必死に抑えていた。人を乗せて駆けた事もあると言うその巨躯は、縦横無尽な動きをし続けているのにも関わらず、一向に衰えが見えなかった。更に肉体は炎も毒も備えている。

 ……ここには碌な薬もないのだ。

 一撃だ。一撃で倒さなければいけない。人を容易く踏み砕く脚が、締め折る尾が、焼き焦がす炎が、蝕む毒が、その全てがこの体に及ぶ事を許してはならない。

 けれども闇夜は刻一刻と迫っている。月明かりは乏しく、闇に潜んでムシュフシュが迫ってきたのならば、男に出来る事はない。

 ……仕掛けるしか、ない。動くしか、ない。

 汗がじっとりと全身を嫌に湿らせている。




 まだ我が子は小さいが、それでも毒牙は生え揃った。己だけでも食い繋ぐ事も出来るだろう。


 王子はまだ子供だ。一人で生きる術も教え始めたばかりだ。


 だからこそ、私は命を賭してもこの人間を殺さねばならない。


 だからこそ、俺は五体満足で王子の元へ帰らねばならない。




 覚悟を決めつつあったムシュフシュが男の頭上を通り過ぎた時、男も動いた。

 ムシュフシュを追うように、そして次に着地する木の幹へと、ぐるりと体を回転させて剣を叩きつけた。

 ドヅゥッ!!

 鈍く響き渡る音、中程まで深く食い込んだ刃は大木を激しく揺らす。木の葉が散り、着地したムシュフシュが体勢を崩した。

「グッ、アッ!?」

 そこへ男が間髪入れず胸元の短剣を投げつけた。それは的確にムシュフシュの顔へと吸い込まれていくが、辛うじて避けられる。

 だが、その代償にムシュフシュは足を滑らせた。落ちてくるムシュフシュに男は腰から鉈を引き抜いて構えたが、ムシュフシュは咄嗟に木を蹴って遠くへと逃れた。

 ミシ、ミシィッ!!

 木の悲鳴に再びの舌打ちが掻き消される。鉈を捨てて剣を引き抜こうとした時。

「がっ?!」

 着地と同時に体を回したムシュフシュの長い尾が、男の胴を叩いていた。

 体がよろけて胃液が込み上げてくると同時に、ムシュフシュが飛び掛かって来る。だが、直前に投げた短剣が目の前に落ちてきたのを男は見逃さなかった。

 掴んで、体を捻る。

「ギャアアアアッ!!」

 ムシュフシュのかん高い悲鳴。

 片方の目を切り裂かれていた。

「ぐあっ! げぶっ、ごぐっ」

 しかし、男もその巨躯を避け切る事は出来ずに、弾き飛ばされている。

 それでも男は立ち上がった。よろけながらも、強く握られた短剣は手放していない。王子の元へと、俺は!

 またムシュフシュの脳裏に浮かんでいたのは、唐突に降ってきた矢の雨。身篭っていた自分に対して、咄嗟にその身を盾にした番の姿。この身を犠牲にしても殺さなくてはいけない!

 再び飛び掛かったムシュフシュに対し、男は前に転がって避けようとする。

「づぅ!!」

 牙は避けたが、爪が背中を切り裂いた。

 思わず膝をついたその時。

 ミシミシ、バギッ、べギギッ!!

 大剣を叩きつけられた木が、ムシュフシュと男の間へと倒れてきた。次の行動をムシュフシュが躊躇したその時には、男は駆けている。その木の根本、地面に落ちた大剣を取り戻しに、それに一瞬遅れて気付いたムシュフシュが焦って追い掛ける。

 ほんの僅かな距離。だが間に合わない! 咄嗟に身を翻して尾を払ったが、届いてきたのは冷たい感触。

 振り向き直した時には、切り飛ばされた尾の先が飛んでいくのが見えた。そして男は切り上げた大剣をそのまま叩き落とさんと迫って来る。

「おおあああああっ!!」


 獣のような雄叫び、生きて帰るという決意。


 前へと駆けたムシュフシュ、命に代えても守るという決意。


 ムシュフシュの背を剣が深く切り裂くと同時に、男の脇腹を毒牙が貫いていた。

「あ、え……?」

「……」

 崩れ落ちるそれぞれの体。男の口からごぽりと血が吹き出して来る。脇腹を食い千切ったムシュフシュの目はどうしてか、ひたすらに穏やかだった。

 何故、そこまでして自らを殺そうとしてきたのか。

 同じだったのではないか? 大切な誰かを守ろうとしていただけだったのでは?

 だとしたら馬鹿みたいじゃないか。大馬鹿者じゃないか、俺達は。

「そう、だ……帰ら、なけれ……ば…………」


*


 闇夜が訪れても騎士は帰って来なかった。


 月が登っても母は帰って来なかった。


 そのまま明日になるのが怖かった。


 母も居ない夜を過ごすのは初めてだった。


 嫌な想像ばかりが脳裏を過ぎる。


 もう暖かい季節だというのに体がやけに冷える。


 僕を数えきれない程助けてくれた騎士。


 いつだって私の傍に居てくれた母。


 探しに行かずには居られなかった。


 探しに行かずには居られなかった。

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