第15話 変わらずにはいられない
「おかえりなさい」
「ただいま、エルナちゃん」
侯爵邸で暮らし始めてから、一ヶ月が経った。スレン様の細やかな気遣いにより、私はこれ以上ないくらいに良い暮らしをさせていただいている。
そんな彼に対して、私が出来ることなどほとんどない。それでも何かできることからと思い、勉強に励む日々を送っていた。スレン様は私が無理をしないようにと家庭教師までつけてくださり、時間管理までしてもらっているのだけれど。
お蔭で効率も良くなり、それ以外の時間はブレットのお見舞いに行ったり、フローラとお茶をしたり、たまに社交の場に出たりと充実した日々を送っている。
「最近、魔術師団の皆様はとても忙しいと聞きました」
「魔物が増えてるみたいなんだ。特殊能力を持っていない魔物の討伐は、なるべく騎士団に押し付けてるんだけど」
毎晩一緒に夕食をとり、食後は広間で二人でお茶をしながら話をするのが、いつの間にか日課になっていた。
始めは彼と向かい合って話をするだけでも緊張していたけれど、毎日一緒に過ごすうちに、気が付けばリラックスして話せるようになっていた。
それも、スレン様の明るく優しい人柄のお蔭だろう。彼と話すのは楽しくて、気が付けば毎日の楽しみになっていた。
「エルナちゃんは今日、何をしてたの?」
「午前中にブレットのお見舞いに行った後は、ベティと買い物をして、午後からはヒルダ先生の授業を受けていました」
「そうなんだね。ブレットくんはどう?」
「お蔭様で、とても良くなりました。私が少し手伝えば、歩けるようにまでなって……」
神殿長による毎日の治療のお陰で、ブレットは驚くほどに回復してきている。以前より食欲も増えたことで頬もふっくらとしており、心の底から安堵した。
今では、勉強も少しずつ頑張っているようだった。
「本当に良かった。次の休みは一緒にお見舞いに行くよ」
「ありがとうございます。ブレットも喜びます」
ブレットはとてもスレン様に懐いていて、実は彼のようになりたいという気持ちから勉強を頑張っているんだとか。
本人には恥ずかしいから内緒にして欲しいと言われたことを思い出し、可愛さに思わず笑みが溢れる。
そんな私を、彼がじっと見つめていることに気がついた。
「どうかしましたか?」
「前よりも笑ってくれるようになったな、と思って」
「……スレン様のお蔭です」
ブレットの病気のこと、お金のこと、そして義母や義姉のこと。私が長年悩み続けていたこと全てを、彼はあっという間に解決してくれたのだから。
まるで霧が晴れたように、世界が明るくなった。
「本当に、何か私に出来ることがあれば仰ってくださいね。少しでもスレン様に恩返ししたいので」
「十分返して貰ってるから、気にしないで」
彼はそう言ったけれど、やはり申し訳なくて。少しくらい何かありませんか、と尋ねれば「ああ、それなら」と何か思いついたように微笑んだ。
「エルナちゃん、こっちに来てくれない?」
「はい」
スレン様は自身の座るソファの隣をぽんぽんと叩き、私に座るよう促した。向かい合っていた私は、どうしたのだろうと思いつつ立ち上がり、そのまま彼の隣に腰を下ろす。
「今度から、隣に座ってくれたら嬉しいな」
「分かりました。それだけでいいんですか?」
「それと、少しだけ抱きしめてもいい?」
「は、はい」
「ありがとう」
そしてスレン様は壊れ物を扱うようにそっと、私を抱きしめた。心地よい温かさと、優しい良い香りに包まれる。
「……少し疲れてたんだけど、これで全部吹き飛んだ」
「よ、良かったです」
「ありがとう、エルナちゃん。大好きだよ」
耳元でそう囁かれ、彼にまで聞こえてしまうのではないかというくらい、心臓が大きな音を立てていく。
私がいてくれるだけで、こうして触れられるだけで何よりも幸せだとまで言われてしまい、そわそわしてしまう。
「私も、スレン様が好きです」
そんなやりとりも、もう日課になっていて。以前よりもすんなりと、この言葉が出てくるようになっている。
どうかこのまま平穏な日々が続きますようにと、私は願わずにはいられなかった。
◇◇◇
「──は? エルナが婚約した?」
「それもあの、スレン・エインズワース様とだぜ? 他国にいたイアンだって知っているだろう」
思い切り頭を殴られたような衝撃が走った。
頭の中が真っ白になり、目の前の友人の言う言葉の意味は分かっていても、理解出来ない。いや、したくなかった。
「何かの間違い、じゃないのか」
「ああ。半年後に結婚式だとか。せっかく戻ってきたんだ、お前も祝ってやれよ」
けれどこいつは嘘をつくような人間ではないし、迎えに行くという手紙に対して、エルナから返事が来ないことにも納得がいく。けれど頻繁に手紙のやり取りはしていた中で、彼女はそんなこと、一言も言っていなかった。
何か理由があるはずだと、信じたい。信じないとやっていられなかった。やっと彼女を救える、幸せに出来るほどの地位も金も、手に入れられたというのに。
きつく拳を握り締め、俺は口を開いた。
「エルナに会えるよう、手配してくれないか」
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