第4話 婚約者
スレン様に手を引かれ国王陛下の元へと向かう途中、突如現れた謎の男性によって、既に彼の名前が記入された婚約に関する書類とペンを手渡される。
「ここにエルナちゃんの名前を書いてね。そうそう、後はここに指を乗せて、うん、ありがとう」
そうして言われるがまま自身の名前を書き、指印を押したことで、私達の婚約は成立した。婚約が成立した?
「これで俺達、婚約者だね」
「…………」
「嬉しいな。ちなみに俺は浮気とか絶対にしないから、エルナちゃんも絶対にしないでね」
「わ、わかりました」
浮気とは一体。そして私の知っている一般的な婚約までの流れとは、あまりにも違いすぎる。けれどもう、キリがない為いちいち疑問を抱くのはやめることにした。
今私がすべきことは彼のことが大好きな、彼の婚約者になりきることに違いない。いやでも、やっぱり全部おかしい。
その後、スレン様は幸せだと言わんばかりの笑顔で「婚約しました」と陛下に私達の婚約について報告していた。
一番に報告したこと、スレン様が一生結婚しないと思っていたらしいことから陛下はとても喜んでいて、私達二人を応援すると言ってくださった。
「エルナと言ったか、スレンをよろしく頼むぞ」
「は、はい」
私はというと陛下と直接話をする日が来るなんて思っておらず、緊張で死にかけていた。今日は驚きの連続で、私の心臓は深刻なダメージを負っているに違いない。
あんなにも夢に見ていた玉の輿に乗れるというのに、私の心の中はやはり、喜びよりも戸惑いが大きかった。
「エルナちゃん、顔色が悪いけど大丈夫?」
「すみません、緊張してしまって」
スレン様は心配そうに私の顔を覗き込み、頰に触れた。
「かわいい」
誰よりも美しい彼が私のことが好きで、婚約者になっただなんて信じられなかった。あまりにも現実味がなさすぎる。
陛下の元を離れようやく一息吐けると思った途端、目の前に現れたのはなんと、第二王子であるアドルフ様だった。二人は魔法学園の同級生で、親しいと聞いている。
「おいスレン、急にいなくなるから驚いたぞ。え、誰?」
「妻に向かって失礼な態度はやめてくれないかな」
「は? 妻?」
今まで女性と噂ひとつ立ったことのないスレン様が、見知らぬ女と親しげにしているのだ、驚くのも当然だろう。
そして早速、私を妻と呼んだ彼のせいでつい咳き込んでしまった。まだ全然妻ではない。落ち着いて欲しい。
「いやお前、なんか人変わってない?」
「俺は常にこうだけど」
「分かった、今はそういうことにしておく。とにかく大切な話の途中だったんだ、戻ってきてくれ」
どうやらスレン様は皆様でお話ししている途中に抜け出し、私の下へとやって来たようだった。けれど彼は私を気にかけてくれているようで、その場から動こうとしない。
「あの、スレン様。私も友人と話をしてきますので、どうぞ気にせず行ってらしてください」
「……俺がいない隙に、他の男と話したりしない?」
「えっ」
「絶対に駄目だからね」
そう言って私の小指を自身の小指で絡め取ると、スレン様は「約束だよ」と微笑んで。後ろにいたアドルフ様は、まるで化け物を見たような表情を浮かべていた。
「すぐ戻るから」
やがて二人の背中が見えなくなったことで、私は深い溜め息をついた。久しぶりに呼吸をしたような気さえする。
過去30分程の出来事は現実だったのだろうか、と疑問に思えてくるけれど。左手の薬指で光り輝くとてもお高そうな指輪が、すべて本当だと物語っていた。
どうやら既に私達が婚約し、陛下に報告をしたという話は広まり始めているらしい。
周りからは居心地の悪い視線を向けられる中、私はひたすら歩き続け、なんとかフローラの元へと辿り着いた。
「エルナったら、突然スレン様にお誘いをされているんだもの、驚いたわ。どうだった? 少しはアピールできた?」
どうやらまだ、彼女にまでは伝わっていないようだ。
「スレン様と私、婚約したみたいなんだけど」
「そう、婚約を……ねえ、婚約したってどういうこと?」
それは私が一番聞きたい。まずは話したところで謎が深まるだけの経緯を、一から説明していた時だった。
「あらやだ、エルナじゃない。結局来たのね」
「……お姉様」
振り返ればそこには予想通り、数時間ぶりの義姉と義母の姿があった。かなり機嫌が悪い様子を見る限り、未だに男性からの誘いは無いようで。そして彼女たちもまた、私とスレン様とのことはまだ知らないらしい。
「お前みたいな田舎臭い娘、こんな所にいても無駄よ。さっさと帰って、明日の朝食の準備でもしていなさい」
「…………」
「は? 何よ、無視?」
あっという間に婚約は成立し陛下に報告までしたのだ、今更スレン様が約束を違えるとは思えない。
それでも今ここで強気で言い返し、ブレットにもしものことがあったらと不安になり、口を噤んでいた時だった。
「エルナちゃん」
ふわりと身体が温かい体温と、良い匂いに包まれて。まるで子供をあやすような優しい声が、耳元で聞こえた。
「どうしたの? 何かあった?」
後ろから抱きしめるような形で、私の肩に顎を乗せたスレン様は、じっと目の前の義姉と義母を見つめている。どうやら王子様達とのお話はもう終わったらしい。
そんな彼の登場に二人やフローラ、周りにいた人々はかなり驚いている様子だった。一番驚いているのは間違いなく私だろうけれど。思わず、心臓を吐き出しそうになった。
「ど、どうしてスレン様が、エルナと……!?」
「ああ、お義姉さんか。どうも」
突然彼に「お義姉さん」なんて呼ばれた義姉は、「ひへ」という奇妙な言葉を口から溢している。
「そちらはお義母様かな? 俺達、結婚するんですよ」
「は?」
「既に婚約の手続きも済んでいるので、エルナちゃんがじきに侯爵夫人になること、お忘れなく」
よろしくお願いしますね、と笑顔で言い切った彼により二人は青ざめ、凍りついた。
今まで私に対してしてきたことを思い出し、私が本当に彼と結婚した場合、どんな仕返しをされるか分からないと怯えているのが手に取るように分かる。
スレン様はこの一瞬で、私が二人から良い扱いを受けていないことを見抜いたのかもしれない。彼のお蔭で、明日から家の中でも少し過ごしやすくなりそうだと感謝した。
「エルナちゃんはもっと、俺を頼って好きに使っていいよ」
そして彼は、まるで先程の私の気持ちを見透かしたかのようにそう言って、誰よりも美しく微笑んだ。
◇◇◇
「明日の昼に迎えに行くね。入院する準備だけしておいて」
「はい、よろしくお願いします」
疲れただろうし今日は早めに休んで、というスレン様のお言葉に甘え、私は彼の用意してくれた馬車に乗り込んだ。聞きたいことは山ほどあるけれど、後日でいいだろう。
ちなみに明日の昼には、早速ブレットを連れて神殿へと行くことになっている。もう弟が辛い思いをしなくて済むと思うと、泣き出したくなるくらい私は安堵していた。
戸惑いはあるものの、彼には感謝してもしきれない。
「あの、本当にありがとうございます」
「ううん。ブレットくんは俺の義弟になるんだし、当然だよ」
そんな彼の言葉に、私は胸を打たれていたけれど。ふと、弟の名前を言ったことがあっただろうかと疑問を抱いた。
やがて馬車の扉を閉めようとした彼は、何かを思い出したようにその手を止めて。「エルナちゃん」と私を見上げた。
「好きだよ」
ひどく幸せそうに微笑む彼に、まっすぐなその言葉に、ずきりと胸が痛んだ。私はこれから先、優しい彼を騙し利用して生きていくことになるのだから。
どうしてスレン様が私を好いてくれているのかは、やはり分からない。けれどこれからは彼のために出来ること、お返しできることは何でもしようと誓った。
「私も、スレン様が好きです」
「……ありがとう。おやすみ、エルナちゃん」
笑顔の彼が何を思っていたのかなんて、知らないまま。
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