第3話 まだ始まりにすぎない
何かが、いや、何もかもがおかしい。
「エルナちゃん」
混乱し石像のように固まる私に対しふわりと微笑むと、スレン様はまっすぐ右手をこちらへ差し出した。
「俺と踊ってくれませんか?」
「……えっ」
先程フローラから、彼はまだ踊っていないと聞いている。
この舞踏会でのファーストダンスの意味を、彼が知らないはずがない。男性は一番好意を抱いている女性に対して、一番最初に申し込むのが決まりなのだ。
先程の両思いという言葉や、この誘いを以てしても、彼ほどの人が本気で私を好いているなんて、信じられるはずがなかった。悪い冗談だとしか思えない。
「ごめんなさい」
だからこそ、国中の女性が羨むであろう光栄な誘いを前にしても、私は浮かれるどころか悲しいくらいに冷静だった。
「……どうして? 他に相手がいる訳じゃないよね?」
少しだけ、彼の声のトーンが低くなった気がする。そんなスレン様が一体何を考えているのかは分からないけれど、ここで彼の誘いを受けてしまえば、今後私に声を掛けてくれる男性は激減してしまうだろう。
彼以上の身分、条件の男性などこの会場にはほとんど存在しない。この国では、自身よりも身分の高い男性と踊った女性に対して、後から声を掛けることはあまりないからだ。
玉の輿のためには、迂闊なことはできない。
「ええと、そういう訳ではないのですが……お恥ずかしながら私は今日、本気でお相手を探しに来ていまして」
「そうなんだ。俺もだよ」
「えっ? それでしたら、」
「だから君を誘ってるんだけど?」
「あっ、なるほど……」
動揺しすぎたあまり、つい分かったような謎の返事をしてしまったものの、やはり意味がわからない。こんなもの、スレン様が私に対して求婚しているようなものではないか。
結婚相手を高望みしすぎたあまり、今の私は妙な幻覚を見ている可能性すらある。どうすべきだろうと内心頭を抱えていると、後ろにいたフローラにばしんと背中を叩かれて。
「ちょっと、何をしてるの! 早くお受けしなさい!」
そうしてようやく周りに目を向けた私は、既に私達がかなりの注目を集めてしまっていることに気が付いた。
彼ほどの人の誘いを断ったのが大っぴらになれば、高望みをしすぎている女、もしくは結婚する気など無い冷やかし女として、今度こそ私に声を掛けてくれる男性など居なくなってしまう。それはまずい。
もう今の私には、受けるという選択肢しかない。とりあえず思い出として、一曲踊って終わりにしようと決める。
「私で良ければ、お願いいたします」
「良かった。ありがとう」
本当に、どうしてこんなことになっているのだろう。
嬉しさに揺れる微笑みを携えた彼の手を取り、ホールの中央へと向かう。スレン様の手のひらは温かくて滑らかで、水仕事ばかりして荒れた自身の手が恥ずかしくなった。
その上、会場中の女性達の刺さるような視線を浴び、私はもはや帰りたくなっていた。「なんであんな子が」「おかしいわ」と言う声が聞こえて来て、心の底から「本当におかしいですよね」と同意したくなる。
やがて音楽が始まり、それに合わせて手を取り合い、ステップを踏んでいく。まさかスレン様とこうして踊る日が来るなんて、想像すらしていなかった。
「エルナちゃん、上手だね」
「スレン様のお蔭です」
私は元々、ダンスは得意ではない。けれど今は彼の完璧なリードのお蔭で、驚くほどに身体が軽い。
「お願いだから、これからは俺以外と踊らないで欲しいな」
「えっ?」
「こんな風に君が誰かと触れ合っているのを想像したら、耐えられないなと思って」
「…………?」
嫉妬しているようにしか聞こえない彼の言葉に戸惑い、私は思いきりステップを間違えてしまう。よろめいてしまった私の身体を、スレン様はひどく自然に抱き寄せて。
「ねえ、結婚しよう?」
そんなことを、蕩けるような笑みを浮かべ言ったのだ。
今初めて身を以て知ったけれど人は本当に驚いたとき、声ひとつ出ないらしい。「エルナちゃん」と名前を呼ばれたことで、我に返った私は慌てて顔を上げた。
「な、なんで」
「俺も君が好きで、君も俺が好き。何か問題あるかな?」
間違いなく、問題しかない。
どうやら彼のファンクラブに所属していることで、私が彼を好いていると思われているらしい。差し入れや手紙まで贈ったのだ、当たり前ではある。自業自得すぎる。
その一方で、こんなにも綺麗で何でも持っているような人が自分を好いているなんて、とても信じられなかった。
「ほ、本当に、私のことが好きなんですか……?」
「うん。俺は本気だよ」
そう言った彼は、嘘をついているようには見えない。
「エルナちゃんは俺のこと、好きじゃない?」
「いや、あの」
不安に揺れる美しい瞳を向けられ、ようやく彼が本当に私を好いているのではないかと実感し始める。
何より、スレン様からの求婚などこれ以上ない良い話なのだ、本来なら二つ返事で受けるべきだろう。それでも私はやはり戸惑ってしまっていた。
弟のために魂を売るくらいの気持ちでいたのに、あまりにも相手と釣り合わなさすぎて申し訳なくなるあたり、私にも人の心がまだ残っていたらしい。
「その、我が家には持参金すら、」
「そんな物は必要ないよ。お金なら沢山あるし安心して。エルナちゃんに苦労はさせないから」
「それと実は私、サリオナ病の弟がいて、」
「明日にでも弟さんを連れて神殿に行こう? 一番の部屋を用意して、神殿長の最高の治療を受け続ける手配をするよ」
国一番のヒーラーである神殿長の治療を受ければ、きっとブレットは完治する。普通の人間がいくらお金を積んだところで無理なことも、彼ならば簡単に出来てしまうのだろう。
長年重い病に苦しんでいた弟が助かるかもしれないという期待が、じわじわと胸の中に広がっていく。
「絶対に一生、幸せにする」
柔らかく細められた空色の瞳から、目が逸らせない。この人にここまで言われて、断れる人間などいるのだろうか。
「エルナちゃん、俺のこと好き?」
少なくとも私にはもう、無理だった。
「す、好きです」
そう答えれば、スレン様は満足気な笑みを浮かべて。
「良かった。俺も大好きだよ」
耳元でひどく甘い声でそう囁かれた私は、思わず意識が飛びかけた。心臓が早鐘を打ち、顔が熱くなっていく。
どうしてスレン様が私を好いてくれているのか、さっぱり分からない。罪悪感だってもちろんある。それでも、このまま嘘をついてでも彼と結婚するのが一番良いと思ったのだ。
気が付けば曲は終わっていて、やがて彼はまるで絵本に出てくる王子様のように私の片手をとり、跪いて手の甲にキスを落とした。周りにはどよめきが広がっていく。
「……あの、これは」
「婚約指輪だよ。結婚指輪は一緒に選ぼうと思って」
いつの間にか私の指にはやけにぴったりな、値段を想像するだけで具合が悪くなりそうな、高級感のある指輪が嵌っていた。なぜ、こんなものが既に用意されているのだろうか。
当たり前のように告げられたことで、この展開に違和感しか覚えない自分の方がおかしいのかとすら思ってしまう。
「それじゃ、行こうか」
「あの、どこへ」
スレン様は立ち上がると、私の手を引いて歩き出す。
「陛下の所に行って、俺達の婚約を報告しようと思って。きっと喜んでくれるよ。本当はすぐに籍を入れたいんだけど、俺も立場があるから婚約期間が必要なんだ。ごめんね?」
「な、なるほど……?」
もう何がおかしいのかすら、私には分からなかった。
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