三日目・9
「ナンシー。いつからそこに?」
ゲイリーがあまりに自然に話しかけてきたので、今目の前にあるものはすべて幻なのではないかという思いが一瞬ナンシーの頭をよぎった。
ふたつの死体はぐちゃぐちゃに傷つき、どこが境界かわからないほど混ざり合っている。二体だと彼女が認識しているのは頭と思われる部分がふたつあるからに他ならない。その場は血塗れで、彼女に声をかけてきたゲイリーも血飛沫を浴びていた。それに加えて右腿が赤く染まっている。
ゲイリーが近づいてきたのでナンシーは慌てて制止した。彼は素直に足を止める。
「どうした? サディアスは死んだよ」
「そ、その……足……大丈夫……?」
ゲイリーは不思議そうな顔をしたが、自分の足に目を落とすと得心したように言った。「サディアスにやられたんだ。心配ない――と言いたいけど、浜に戻ったら手当てしてもらえるか」
ゲイリーはさも当然のようにナンシーと共有する未来を語る。彼の口調は穏やかで、ふるまいは自然で、その涼やかな美貌に思わず頷いてしまいそうになる。
ナンシーはゲイリーを見つめた。挫けそうだった心の支えにしていた男性。ふたりの未来があるかもしれないと――甘い逃避をさせてくれた人。
「サ、サマンサを……」
ナンシーは泣きそうな声を出した。ゲイリーの目がかすかに見開かれる。
「サマンサを殺したのはあなたなの……?」
ゲイリーはすぐに答えなかった。何かを見定めているようにじっと彼女を見る。
「ナンシー」
ゲイリーは悲しげに彼女を呼んだ。ナンシーはそれに一抹の希望を感じる。
――彼が否定さえしてくれたら。
ナンシーはゲイリーの独白を聞いていた。それでいて、まだ彼を信じたいと思っていた。彼の言葉がほしかった。彼がはっきりと否定してくれたなら、間違っていたのは自分のほうだと思って、彼をまだ信じていられる。そんな錯覚に陥っていた。
ゲイリーは困ったように笑って銃を手放した。左手の鉈を右手に握り直し、視線をまっすぐナンシーへと向ける。
「――まだそんなこと言ってるのはきみくらいなもんだぜ」
頭で理解する前にナンシーは走り出した。道に出て浜へと向かう。後ろからゲイリーが追ってきている。ときおり彼女の名を呼ぶ声がする。
止まってはいけない。振り向いてもいけない。ナンシーは足には自信がある。ゲイリーは怪我をしているから、全力で走れば追いつかれはしないはずだ。
だが走り続けてどうなるのだろう。ナンシーは武器も持たずに来たことを後悔した。ゲイリーに銃を渡して以降、彼女は他に武器を持とうと思わなかった。彼のそばから離れるつもりはなかったからだ。
イヴェットの手当てをしてから、ナンシーはいても立ってもいられずゲイリーの後を追いかけた。イヴェットにその場を動かないよう言い含め、救急箱を預ける。彼女自身手ぶらなことには走っている途中で気づいたが、彼をひとりにしてはおけなかった。
少し時間はかかったが森の中に明かりを見つけた。そのとき銃声がひとつして、ナンシーは血の気が引く思いでそこへ急いだ。ゲイリーが心配で少しでも早く辿りつきたい気持ちと、おそらくサディアスがいるであろうことからくる恐怖がせめぎ合って、足取りはなんとも覚束ないものとなった。
明かりの下では怒号が飛び交っていた。ナンシーは呆然とそれを見た。彼らの間に横たわる赤黒いものの存在は、心が認識するのを拒否していた。
サディアスは負傷していて、ゲイリーの優位は揺るがないように見えた。声をかけるかどうか考える間もなくサディアスがナイフを投擲し、ナンシーは身をすくめた。
ナイフはゲイリーを掠めて地面に落ちた。視線でそれを追ったナンシーは、ナイフのそばに人の乳房を見つけて悲鳴をあげそうになった。必死で口をふさぐ。強く目をつぶったが、網膜に歪な肉塊が焼きついて消えなかった。
食いしばった歯の隙間から細く声が漏れるのを、二度目の銃声がかき消した。ナンシーは目を開ける。
口汚い言葉で罵りながら、ゲイリーがサディアスを殴っていた。
彼女の思考はそこで本当に霧散した。互いのことを語り笑い合った彼が、常にさりげなく隣にいて彼女を気遣ってくれた彼が。下半身がぐずぐずになった――明らかに死んでいる男を、なおも殴り続けている。
そのうちサディアスは地に伏した。ゲイリーは死体に向かって何やら話し続けていたが、そのほとんどがナンシーの頭には入ってこなかった。理解できたのはサマンサの名前と、“女を殺した”という言葉だけ……。
「ナンシー!」
声に怒りが混じり始めた。ナンシーの首筋に冷たいものが走る。
森の中に逃げたほうがいいのだろうか。
浮かんだ考えを振り払う。夜の森は危険だ。それに浜にはイヴェットがいる。ナンシーが身を隠せば彼女が先に狙われるだろう。いち早く合流して危険を伝えなければならない――。
ナンシーと負傷したイヴェットとで、ゲイリーをどうにかできるのだろうか。
目の縁に涙が浮かんできた。瞬きをくり返して滴を後ろに流す。
できるわけがない。ゲイリーは男で、もうふたりも殺している。まだ夜は長い。負傷したイヴェットを抱えて生き残れるわけがない。
ナンシーは――自分の命を考えるなら森に逃げるべきだとはっきり自覚した。彼女ひとりなら闇に紛れて逃げ切れるかもしれない。島についてはナンシーのほうが詳しいし、彼はなぜかショットガンを捨てた。可能性はある。
それでも彼女は浜への道を走り続けた。酸素が乏しくなる中で、脳は絶えず森へ逃げろと叫んでいる。だが体が従わなかった。ガイドとして、人として――イヴェットを見捨てることができなかった。
「イヴェット! 今すぐ――」
ベンの小屋に着いたナンシーは愕然とした。イヴェットの姿がない。
「イヴェット!?」
返事は帰ってこなかった。サディアスが死に、ゲイリーが彼女を追っている以上、この島に他の脅威はないはずだ。まさかベンが戻ってきたのだろうか。次々に人が消えている現状だからこそ、彼の生存も絶望的だと思っていたが――。
足音が迫ってきた。ナンシーは武器山のことを思い出す。
今のままでは蹂躙されるだけだ。武器を手に入れなければならない。
ナンシーは走り出そうと踏み出した――と同時に音を聞く。空気を裂いて何かが飛んでくる。
避けなければ、と思ったときには右肩に何かがめり込んだ。次いで鋭い痛み。足はなんとか動いたが、歩幅は信じられないほど不規則だった。腿や脛には力がこもっているのに、足の根元だけ妙に力が入らない。数歩動いて彼女は腰から崩れ落ちた。手を突くと痛みが激しくなる。肩越しに振り返ると鉈の刃先が頬を掠めた。
「ああっ……!」
認識した途端に腕の力も抜けてしまう。ゲイリーが投げた鉈が肩を捉えたのだ。足音は彼女に近づくにつれてゆっくりしたものへと変わる。それが止まると肉の引き攣れる感覚がした。引っ張られている。直接触れられてはいないのに。
鉈はあっさりと抜けた。瞬間ナンシーは声をあげたが、痛みを感じているかは自分でもよくわからなかった。体から液体が溢れ出て、後には冷たい痺れと火照りが残る。不思議な感覚だった。芯は冷たいのに――肉は熱く、体表は冷えている。肩から腕を赤黒いものが伝う。世界が傾いでいく。
尻を強く蹴られてナンシーは前のめりに倒れた。顔が砂浜に埋まる。背後に迫るものから必死で距離を取ろうと試みるが、四肢に力が入らなかった。這いつくばったまま手足は虚しく砂をかく。ナンシーは自分が泣いていることに気がついた。血と涙が体中に砂粒を貼りつける。ゲイリーの笑い声がした。
彼は回り込んでナンシーの脇腹を蹴り上げる。腹を押さえて丸くなると肩口の傷が直接砂に触れた。無数の針で刺されたような痛みとかゆさ。喚きながら悶えるナンシーを見ながらゲイリーは「虫みたいだな」と笑った。
彼はナンシーの隣に立つと片方の靴先を彼女の柔らかい腹に埋めた。緩慢な動作だったが、足一本で捕えられた事実は彼女に言いようのない絶望をもたらす。こみあげてくる吐き気にナンシーは軽くえづいた。
「イヴェットはどこに行った?」
ゲイリーは笑顔のまま言った。
彼の表情や動作はあまりにも日常とひと続きだった。ジェシカの首を締めあげたときのサディアスは十分に恐ろしかった。しかしその恐怖はあくまで非日常のもので、それをそうとさえ認識できれば彼女でもなんとか立ち向かうことができた。
だがゲイリーは違う。彼がナンシーを殺そうとしているのはもはや明確なのに、彼女の心は萎えきっていた。
彼がサディアスを殺した。ナンシーに鉈を投げたのも彼なのだ。それなのに、まだ交渉の余地があるように感じる。話せばわかってくれるのではないかと思う。頭では理解している――彼と話しあう余地などないし、絶対に分かり合えない。しかしそれが可能ではと錯覚してしまうほどに、こうして向き合ったゲイリーは今まで行動を共にしてきた彼なのだ。
「頼むよ、ナンシー」
ゲイリーは彼女をまたいで腰かける。柔和な声で頼みながら――鉈を右手に持ち、左手をナンシーの首にかける。
「どこに行ったか教えてくれないか? 大事なことなんだ。まだ近くにいるんだろう」
喉が脈打つのを感じる。ナンシーは彼の手を掴むが、芯が入っていないかのごとく指先は肌を滑っていく。
「そうだ、助けを求めてくれてもいいな。そうすれば出てくるんじゃないか? イヴェットは優しい子だ――そうだろ? きみを見捨てはしないよな」
ゲイリーの顔が近づいてくる。目を惹く美しさ――酷薄な笑み――悪魔のようだ。人の形をして、人の言葉を話す、人ではないもの。
ナンシーは泣くことしかできない。
「大きな声で叫ぶんだ……『助けて』って……さあ」
ナンシーは震える指先を喉元にやった。ゲイリーの手の力が僅かに抜ける。彼女は大きく息を吸い込む。腹にゲイリーが乗っているので、空気は胸の辺りで詰まってしまう。
頬が熱い。肩が痛い。頭が割れるように痛む。
ゲイリーはわかっている。ナンシーにもう抗う気力がないことを。彼女はとうの昔に限界だった。折れそうな心を支えてくれたのは彼だったのだ。
赤黒く濡れた生臭い指が、優しく彼女の頬を撫でる。とめどなく溢れるナンシーの涙でゲイリーは汚れた指先を洗った。唇に指が触れ、血と泥と涙が混ざった液体がその隙間から入ってきたとき――ナンシーの心は完全に折れた。
自然と笑みが浮かぶ。ゲイリーはそれに一瞬意外そうな顔をしたものの、穏やかに笑みを返してくれた。黒く煮詰まった瞳、堂々とした体躯――彼は神秘的にさえ見えた。神の寵愛を公言する、傲慢の権化――。
彼女にもう抵抗する意思はなかった。
「――逃げて」
だが――他人を道連れにしようとは思わない。
「逃げて、イヴェット――!!」
肺に残る空気をすべて吐き出し叫ぶ。ゲイリーの目つきが厳しくなって、彼は握り締めた左拳をナンシーの頬に叩き込んだ。歯が軋み、口に血の味が広がる。ゲイリーは彼女の顎を掴んで顔を正面に向かせる。
「しょうがないやつだな」
小さく声が聞こえた。彼は鉈を振り上げる。ナンシーは虚ろな瞳で鉈の先を見た。彼の頭の後ろには月が出ていて、鉈は月光を浴びてきらりと光った。
強く風が吹いて森を揺らす。葉が打ち鳴らされてさざ波のように鳴った。
いつの間にか、ゲイリーの背後に影が立っていた。その影は何かを持っていて、彼と同じようにそれを振りかざしている。
ナンシーの表情にゲイリーは動きを止めた。彼が振り向くより――鉈でナンシーの頭を割るよりもはやく――影は持っていたものをゲイリーの後頭部に振り下ろした。
ゲイリーの体は前のめりになり、その顔はちょうどナンシーの目の前に落ちた。目と口は大きく開かれている。それは驚愕の表情を連想させたが、実際は違っていた。彼は何ひとつ理解していなかった――おそらくはナンシー以上に。見開かれた目の中で瞳がぎょとぎょとと動き、そこには現状を――それこそ必死に――把握しようとする人間の混乱が浮かんでいた。
影は何度もゲイリーの頭を殴った。眼球と舌が少しずつ飛び出てくる。始めこそ固かった音は間もなく水音混じりとなった。衝撃のたびに彼の顔は間近に迫り、そのうち垂れた舌が血混じりのよだれと共にナンシーの唇を舐めた。
ナンシーは声も出せなかった。ただ歯を食いしばり、舌で歯の隙間を押さえて彼の血や体液が口内に入ってこないよう努めた。それでもそれらは隙を見て滑り込み舌先へと染み込んだ。彼女はゲイリーの頭蓋骨が砕ける音を聞きながら、彼の美しかった顔がホラー映画の怪物さながらになるのを見つめていた。
ゲイリーの眼球が半分飛びだし、白目が真っ赤になって、おおよそ生きている人間は出さないと思われる量だけ舌が垂れ下がっても、頭上の影は彼を殴るのをやめなかった。殴打の音はすっかり粘性を帯び、影が凶器を振り上げるたびに質量を持った血が跳ねた。ナンシーの顔のくぼみには血だまりができていた。
彼女は自らを守るためだけにひたすら身を縮めていた。影はナンシーの救世主だった。しかし執拗に死体を殴るそのさまは――彼女の麻痺していた恐怖を蘇らせた。
先ほど見た光景と同じだ。殺される人間が変わっただけで……。
彼女は声を出そうと口を開けた。待ち焦がれたように血が流れ込んでくる。それを懸命に吐き出しながら、ナンシーは影の名を呼んだ。
「イヴェット……!」
影は動きを止めた。と思えば狂ったように武器を振りまわす。彼の頭に、背中に、尻に、足に。あらゆるところに鉄の棒を打ちつけ、振動でナンシーの体はがくがくと揺れる。
――殺される。
「イヴェット――イヴェットもうやめて!」
ナンシーは悲鳴混じりに叫ぶ。聞こえているのかいないのか、イヴェットは一際高く腕を振り上げる。
「もう死んでる! 死んでるわ!」
風を切る音と強い振動。腹を殴られたかのような錯覚に息が詰まった。ナンシーは戦慄する。彼女の声を聞いてなお、影は止まらない。
――ということは。
彼女にも、ナンシーを殺す意志があるということだ――。
背筋に氷水をかけられたような寒気が走った。再度絶望の淵に立たされる。何が起こっているのだ。根源的な疑問が湧く。どうして自分が殺されなければならない? どうして? どうして?
視界に薄く膜がはり、影はどんどんぼやけていく。いつしかその境界は闇に溶け、体積が一気に膨れ上がった。
これはイヴェットではない。ナンシーはそう思い込もうとした。頭では理解していた――動きこそ彼女と結びつけるのは難しかったが、月光を浴びて頭を縁取る銀色の光はイヴェット以外の何ものでもなかった。
だが――彼女まで。ナンシーが死の淵にいながら守ろうとした彼女までが――殺人者の顔を持ち、今まさに彼女を殺そうとしている――。
ナンシーには認められなかった。そんなことを認めてしまったら――もはや自我すら保てそうにない。心が壊れる。狂ってしまう。
ナンシーは必死に嗚咽を殺す。殺すならはやくしてほしかった。ゲイリーのことも、イヴェットのことも――何もわからないうちに、すべてを理解する前に殺してほしい。
ゲイリーの体がどんどん冷たく重くなる。そのうち肩を震わせることも満足にできなくなった。死が彼女を包んでいる。肉塊が熱を奪っていき、死という不可逆の病をうつそうとしている。
「ナンシー……」
小さな声が聞こえた。
釘抜きが砂に落ちて鈍い音を立てる。影の動きは止まっていた。芯が抜けたように脱力したそれは、ナンシーの横に膝をつくと死体を彼女から引き剥がす。
ナンシーは混乱していた。安堵と恐怖が内心を吹き荒れる。夢ではない。死はまだそこにある。
体に力が入らなかった。イヴェットが助け起こそうとしたが、ナンシーは身を固くしてそれを拒否した。意図したことではない。真意がどこにあったとしても、結果的に彼女はナンシーを救ってくれた。それでも、先ほどまでの恐怖を理性で払拭するのは難しかった。
イヴェットはナンシーに触れるのを諦め、血塗れの砂に指をつく。
「大丈夫……?」
消え入りそうな声だった。ナンシーも弱々しく頷く。首が妙に傾いだ。この短時間で力の入れ方を忘れてしまったのかもしれない。
「ええ、大丈夫……」
「そう……よかった……」
イヴェットの声は虚ろだった。ナンシーを見てもいない。彼女は項垂れ、視線は膝元に広がる血混じりの砂に注がれていた。
「ゲイリーを……殺した。殺したわ……私が……」
イヴェットの唇は震えていた。制御できていないのだろう。ぎこちなく動く唇の隙間から言葉だけがぽろぽろとこぼれる。ナンシーとは対照的にイヴェットの表情は乾いていた。それゆえにその言葉自体が、彼女の涙のように感じられた。
一時でもイヴェットに恐れを抱いたことをナンシーは後悔した。彼女は他ならぬ自分のために――人に手をかけたのだ。
「あなたは悪くないわ。私を守ってくれたもの……」
イヴェットは顔をあげた。唇がつたなく笑みの形を作る。
「ありがとう……そう言ってくれると、私……」
ナンシーはイヴェットに身を寄せる。肩の傷が思い出したように痛んだが、互いの体温を感じていると痛みが和らいでいく心地がした。
「ごめんなさい、イヴェット」ナンシーは呟いた。「私、あなたに殺されると思った。一瞬……本気でそう思ったの。私を助けようとしてくれたのに……」
「いいの……」イヴェットは首を振った。「私のほうこそ、怖がらせてごめんなさい……」
「謝らないで」ナンシーは痛みも構わずイヴェットを抱き寄せる。「謝らないで、イヴェット……お願いだから……」
人を殺すことの重みをナンシーは知らない。彼女は十分恐怖を味わい、それは他人と比べる類のものではない。だがそれでも――誰かを救うためとはいえ、人を殺めたイヴェットの感じている絶望や恐怖、罪悪感は――いかほどのものだろうかと思うのだ。
回した腕に力がこもる。イヴェットはされるがままだった。彼女の体は温かった。死者に奪われた熱が改めて与えられ、ナンシーはそれに何より生を感じた。
離れがたかったが、いつまでも死体のそばにはいられない。彼女は静かに立ち上がった。皮膚一枚隔てたところにあった熱が失われ、立ち位置が生と死の狭間に戻ったような気がする。だが隣で確かに呼吸をしているイヴェットの存在が――彼女を生者の世界へと繋ぎ留めていた。
「行きましょう。浜で船を待たないと」
イヴェットは頷いた。トイレの前に置いてあった救急箱を回収し、ふたりは浜に戻った。
手当てを終えた後は暗い海を眺めて過ごした。ナンシーにはそれが世界に満たされた血のように見えた。島と死体に背を向けて血だまりを見つめていると、生の喜びと死の虚無とが彼女の中でない交ぜになって、言葉にしがたい感情が湧き起こった。
やがて太陽が昇ってきて、海面が白く輝き始めた。島を包む死の臭いが晴れていく。
ナンシーはイヴェットを見る。視線に気づき、彼女もこちらを向いた。
彼女の血と泥に濡れた髪は、それでも白く陽光に溶けていた。ナンシーは――彼女がそのまま消えてしまうのではないかと思った。
強い風が吹き抜けて、水平線からエンジンの音を運んできた。
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