三日目・7

「どういう意味、今のは?」

 トイレの前の暗がりで立ち止まりイヴェットは振り返る。ジェシカも同じく立ち止まってこちらをじっと見つめていた。

 暗闇の中から見ると浜は明るかった。白い砂が月光を浴びてきらめいている。それを背にした彼女の顔には影が差し、目だけが不気味に光っていた。

「どういう意味なの?」

 ジェシカは一歩踏み出した。浜の光から離れ、姿が闇に同化する。暗がりからじわじわと浮かんでくる輪郭にイヴェットは後じさった。

「別に……」

「別にってことはないでしょう。あなたは私を危ないって思ってるのね。どうして?」

 ジェシカが更に一歩踏み出し、イヴェットは更に後じさる。ふたりの姿は完全に小屋の影へと隠れた。

「サディアスは……あなたを狙ってくるわ」

 イヴェットの言葉にジェシカの動きは止まった。一段声が低くなる。

「どういうこと?」

 イヴェットは逡巡した。しかしジェシカがためらいなく追ってきたことを考えると、彼女も察しているに違いない。隠しても意味がないだろう。

「サディアスはあなたがジムを殺したことに気づいてる」イヴェットははっきりと言った。「だからまずあなたを狙ってくる」

 ジェシカは黙ったまま否定も肯定もしなかった。頬が熱くなっていくのを感じる。誰かに対してこんなにも断定的に何かを言ったのは初めてだった。暗がりにいられてよかった。顔色を見られなくてすむ。

「あなたが何を言ってるのかわからないわ」少ししてからジェシカは言った。「ジムはペネロピが――」

「見たのよ」イヴェットは即座に返した。「見てたの」

 風が止まった。葉擦れの音も消え、波の音だけが絶えず聞こえる。心臓の音がうるさい。もっと音が必要だ。この鼓動が聞こえないくらいの。でないと――。

「あなたは気づかなかったようだけど、私はあそこにいたの。あなたがいなくなってから死体の状況も見た。相打ちということにしたかったんでしょうけど――無理があるわ」

 ジェシカは目を細めた。明るく皆を引っ張っていく快活な女性はどこにもいない。瞳の奥にいるのは、獲物の隙を突いて命を刈り取る捕食者だ。

「言いがかりはやめてほしいわ。無理? 事実なんだから仕方ないでしょう。見てたなんて嘘よ。私は助けを呼ぼうと何度も入り口をうかがったし、そこにあなたの姿はなかった。どうしてそんなことが言えるの? 私を陥れたいの?」

 ジェシカの言葉は強くてまっすぐだった。負けてしまいそうになる。彼女が距離を詰めてきて、イヴェットはまた一歩後じさった。

 震える右手をズボンのポケットに伸ばす。先ほど突き入れたナイフが指先に触れる。

「やめて、イヴェット」

 ジェシカがナイフを握り直すのが見えた。

「ロープ……」

 イヴェットは呟いた。ジェシカが訝しげに眉根を寄せる。

「何?」

「ロープに血がついてた」イヴェットは続ける。「血だまりの外――二本分のロープが岩の近くに落ちてたわ。ペネロピを縛ってたもののはずよ。結び目があったし、刃物で切られた跡があったもの」

 ジェシカは黙った。嫌な沈黙だ。イヴェットは更に距離を取りながら話し続ける。

「あれに血がついてるのはおかしいわ。あなたの話では、ふたりが殺し合いを始めたのはあなたがペネロピの拘束を解いた後のことよ。それなのに、血だまりの外に落ちたロープに血痕が残ってる。自然に飛んだようなものならまだしも、血に濡れた何かが擦れたような跡だった。つまり……本当に血が流れたのはあなたが拘束を解く前なのよ」

「ペネロピの血でしょう」ジェシカは言った。「一晩拘束されてたのよ。逃れようと試しているうちに手首を傷つけたに違いないわ。古傷が開いたのかも。彼女の手首に傷があったのを見たわ」

「血は結び目についてたのよ」

 ジェシカは一瞬だけ視線を逸らした。「なら……ベンの血よ。それは」

「ベン? どうしてここでベンが出てくるの」

 イヴェットは知っている。あの異臭で気づくなというほうが無理だ。岩陰に隠れた腐りかけの死体。

「ベンも死んでるのよ。あの洞窟に死体があったの。紐まで見たのに気づかなかったの?」ジェシカの言葉に力がこもる。「あの岩の後ろに死体があったのよ。彼女は拘束されたまま一晩あそこにいた。彼のところまで移動していたのかも。それなら血がついててもおかしくないわ」

「……だといいわね」

 ジェシカの目つきが険しくなった。「何が言いたいの」

「それを判断するのはサディアスだってことよ。私は確信を持ってる――だってあそこにいたから。でもサディアスは別。状況から判断するしかない。そして今私が言ったのと同じか、他の理由で――ジムがペネロピに殺されたんじゃないと判断する可能性が高いってこと。そもそも拘束された後に這ってベンの元まで行って、それで手の紐を汚したなら、彼女の服の背だってもっと汚れてないとおかしいわ。まさか手を前で拘束されてたわけじゃないでしょう?」

 ジェシカの表情が消えた。彼女は気づいているはずだ。イヴェットの言葉の重みを。実際にどうやってふたりが死んだかは、彼女しか知らないことなのだから。

「ペネロピの拘束を解いた人間の手からでなきゃ、紐の結び目に血はつかない。憶測だと主張したいなら構わないわ。サディアスは知っているはず。彼女を縛ったとき、あの紐がどんな状態だったか」

 ジェシカは薄く微笑んだ。イヴェットの背筋に冷たいものが走る。

「面倒になってきちゃったわ」

 ジェシカはナイフを持った手首を軽く振りながらそう言った。

「あなたがそこまではっきり言えるってことは、ホントに見てたのね。でも私が入り口を何度も確認したっていうのも本当なのよ。洞窟の前で聞き耳を立ててたってとこかしら? 確かに私、洞窟から出るときに周囲の確認はしてなかったわ。ふたりが死んで気が動転したようにしないといけなかったから」

 ジェシカが一歩踏み出すまで、イヴェットはどこか呆けたまま彼女の告白を聞いていた。彼女はジェシカが人殺しだということを知っていた――それでも最初から親切にしてくれた彼女のことを思うと、この豹変ぶりは動揺するのに十分だった。

 気づけばジェシカはトイレの扉の前まで来ていた。イヴェットは慌てて後じさる。

「縄を切るときも、結構気をつけたつもりだったんだけど。甘かったみたいね。この島に来てから変なことばっかりで……私も動揺してたみたい」

 変なこと――そう。これは“変なこと”なのだ。人殺しがどんどん増えていく。

「どうしてジムを殺したの」イヴェットは声の震えを抑えながら言った。「そんな必要があった?」

「あなたもあの場にいたのならわかるでしょ」ジェシカはなんてことないように返す。

「他に切り抜ける方法があった? 捕まるのは論外だし、洞窟を出るにはジムをどうにかしなくちゃだめだった。殺す必要はあったわ――だってあの兄弟と仲良しこよしはできないでしょう。彼らにだって無理だったはずよ。あのふたりにとって殺人は秘密の共有という意味も強かった。彼らが人殺しだってことを彼ら以外が知ってるんじゃ――なんの意味もないわ」

 ジェシカはナイフを持ち上げた。切っ先が残酷にきらめく。

「殺さず逃げれば敵がふたり――殺せばひとり。なら殺すしかないわよね?」

 イヴェットの頬を冷たいものが伝う。彼女がこぼした「どうして」という言葉に、ジェシカは困ったように笑った。

「まだ泣く元気があるのね。あとは何が知りたいの? 教えてちょうだい、聞いてあげる」

 イヴェットは覚束ない手でポケットからナイフを取りだした。強く握り締める。血の流れがおかしくなっているのが自覚できた。四肢は暖かく、頭と心臓は恐ろしく冷たい。

「どうして……私ばっかり……」

 ジェシカは険しい表情を浮かべた。「やめなさい――あなたには無理よ」

 イヴェットは刃を出さないままナイフを構え、更に一歩後じさった。ジェシカは彼女の表情に感じるものがあったのか、厳しい目とナイフを彼女に向けた。

「……え?」

 と、ジェシカが声をあげた。眉をひそめてイヴェットを見つめる。

「あなた――」

 蝶番の軋む音がした。かすかに漂っていた糞便の臭いが強くなる。ジェシカの後ろでトイレの扉がゆっくりと開いていき、ふたりを更に濃い影が包んだ。

「満点だ」

 暗闇の中からサディアスの声がした。

 サディアスは見慣れない棒を持っていた。先ほど間近でみたそれは伸縮可能な警棒だ。どこかに忍ばせてあったのだろう。小型のため、サディアスが持つとおもちゃのようなサイズ感だ。

 それでも彼の体躯であればとてつもない威力を発する。ジェシカが振り向くのとほぼ同時に、サディアスは彼女の肩口に警棒を振り下ろした。

 ジェシカは膝から崩れ落ちる。サディアスは彼女の胸ぐらを掴み、今度は頭に打ち下ろそうと右手を振り上げた。

 イヴェットは身を屈めて数歩前に出た。既にナイフの刃は出ている。彼女はナイフを握った右手を彼の左肩に叩きつけた。皮膚に刻まれた蛇が裂け、サディアスの顔が歪む。

 しかし勢いは止まらず警棒はジェシカの頭を捉える。イヴェットの攻撃が功を奏したのか彼女の頭が割れることはなかったが、ジェシカは倒れて動かなくなった。

 サディアスは血走った目をイヴェットに向ける。ナイフは彼に刺さったままだ。

「このクソアマ――!」

「ゲイリー――ッ!!」

 イヴェットはあらん限りの声で浜にいるふたりを呼んだ。サディアスはナイフを抜かないまま警棒を彼女に向ける。イヴェットは左手に持っていた釘抜きでそれを受けた。大きな金属音。手の感覚が一瞬なくなった。

 彼の力を受けきれずイヴェットは森に飛ばされる。転がって少しでも距離を取ろうと試みたが、サディアスは追ってこなかった。ゲイリーたちの声が近づいてくるとともに、彼の気配が遠ざかっていくのがわかった。

 イヴェットは大の字になって空を見あげた。左脇腹に熱を感じる。触れるとぬるりとした感触とともに痛みが走った。出血している。警棒を受け止めたときに釘抜きの先が刺さったのだ。

 つくづく運がない。本当に――。

 体の上で木々がさざめいている。このまま意識を失えたらどんなに楽だろう。目を開けたらすべてが終わっていて……。

 イヴェットは自嘲気味に笑った。

 どんなに威勢のいいことをしてみても、本質は結局こうなのだ。自分の不幸を嘆いて、誰かの影に隠れて逃げ惑う。そんな気質が不幸を呼び寄せているのかもしれない。

 血が出ているからか、四肢と体表にはまだ熱が残っていた。

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