三日目・5

 四人はバンガローまで戻ることにした。あの状態のサディアスに近寄るのは避けたいということで、イヴェットを除いた三人の見解は一致したのだ。彼が向かった東側を避け、少し遠回りではあったものの、西寄りのルートを通って戻ることになった。

 サディアスの異常な様子は、ベンを警戒していたときよりも具体的な恐怖心を皆に抱かせた。ジェシカは目を飛び出さんばかりに開いて辺りを見回し、ちょっとした音にも敏感に距離を置いた。ナンシーは銃の暴発で右耳をやられたらしく、サポートするようにゲイリーは彼女の右隣を歩いた。予備の弾も含めて銃は彼が持つようになり、ナンシーも異論はなさそうだった。彼もジェシカが反応するたびにそちらへ銃口を向けたが、大抵は風や蛙や、そういったこまごまとした何かだった。

 四人は無言だった。何ごともなくバンガローまで戻り、無事開けたところに着いてようやく誰からともなく息を吐く。それからジェシカの話を聞くことになった。

 ジェシカは兄弟を怪しんでいた。そのため探索の途中でペンダントを落としたと嘘をつき、洞窟まで戻った。あそこは手分けして探したので、ジムが見た場所に何かあるのではないかと思ったのだ。すると案の定、ジムが探したはずの洞窟にペネロピがいた。彼女は縛られており、その拘束を解いたところでジムが現れた。

 彼はサディアスと共にペネロピを拘束したことを告白し、ジェシカのことも捕えようとした。その隙を突き、ペネロピがジムのナイフを奪って彼を攻撃した。始めこそ優勢だったものの、ジェシカの鉈をジムが拾って反撃する。ペネロピの縄を解く際に手放していたのがあだとなったのだ。そうして相打ちのような形でふたりとも死んでしまった。ジェシカはイヴェットの元へと急いだが、彼女の姿は見あたらず――混乱のなかでナンシーたちと会ったらしい。

「どうしていなかったの」

 ジェシカは恨みがましそうにイヴェットを見た。

「私もジムの後を追ったのよ」イヴェットは言った。「ジムはあなたが行ってしまって……そう時間が経たないうちにあなたを追いかけていったわ。私は待っているように言われたけど、ひとりでいるのが怖くなって……追いかけたんだけど、どこに行ったのかわからなかったの。道を辿っても誰もいないし……だから私、森に入ったわ。少しでも見つかりにくいようにと思って。そうして隠れているうちに、大きな音がして。音の方に向かったら、あなたたちが……」

「洞窟まで来たの?」

 ジェシカが尋ね、イヴェットは言い淀んだ。

「いいじゃない、無事だったんだから」ナンシーが言った。

「とりあえずサディアスだな」銃に弾を込めながらゲイリーは言う。「あいつはきみの血を見て、弟に何かあったと察したんだろう。急にいなくなったのは、ジムの安否を確認しに行ったからだろうな。ジムが死んだのが本当なら、あいつは相当キレてるぞ。きみを逆恨みする可能性が高いし、俺たちにも何をしてくるかわからない」

「十中八九殺しに来るわ。なんとかしないと」ジェシカの言葉には焦りが滲んでいた。

「殺しに? まさか……」ナンシーは言った。「そもそも、どうしてふたりはペネロピを拘束していたの」

「あいつらも人殺しなのよ!」ジェシカが叫んだ。「兄弟で殺しをしてるってジムが言ってた! ペネロピを拘束してたのも殺すつもりだったからよ! 彼女があんなに必死で反撃したのも、殺されるってわかってたから! ジムを殺したのが誰だろうが関係ないわ! あの場にいた私は殺されるし、この島にいたあなたたちだってただじゃすまないわ!」

 ジェシカの言葉は鬼気迫っていた。実際に人が殺し合うさまを見た人間ならではの興奮と恐怖と焦燥が、その表情には刻まれていた。

 もう昼も過ぎていた。ジェシカは体を洗いたいと言って浜へ向かった。ひとりで行かせるわけにもいかないので全員が同行する。彼女が服のまま海に身を沈めると、赤黒いものがしみ出て水面を汚した。

 ナンシーとイヴェットが小屋に水を取りに行き、ゲイリーはジェシカの護衛で浜に残った。食糧の横には生活用水として彼らと共に送られた水があり、ふたりはそこでバケツ一杯分の水を汲んだ。

「結局、誰もシャワー使わなかったわね」ナンシーがぽつりと言った。

 ナンシーが水のはったバケツを持ち、イヴェットは小さな手桶を持って浜へ戻った。そのころにはジェシカは海からあがっていた。手桶を受け取って体を流す。最後に頭をバケツに浸し、微笑みながら顔をあげた。

「ありがとう。さっぱりしたわ」

 彼女の髪から濁った滴が垂れてバケツに落ち、同じく濁った水を揺らした。

 四人は広場に集まり昼食を取りつつ、これからのことについて話を始めた。バンガローにこもるか、広場で警戒するか。食糧をまとめて持ってくるべきか、残った武器をどこに置くのか。そして、サディアスが来たらどうするのか――。

 イヴェットは黙っていた。彼女は別のことを考えていた。

 ジェシカとゲイリーは懸命に話し合っている。イヴェットとナンシーも本来ならそれに加わらなければならない。自分たちの命がかかっているのだ。だがナンシーはもはや気力もないようで、食事もそこそこにぐったりと頭を抱えていた。

 そしてイヴェットは――。

 そろそろと視線をジェシカに向けると、彼女もこちらを見つめていた。イヴェットは目を逸らす――逸らしてしまう。

 彼女の目が見れなかった。

 イヴェットは――あそこにいたのだから。

「イヴェット?」

 ジェシカが話しかけてくる。イヴェットは反射的に「な、なに」と返し、自分を案じるジェシカの声にこくこくと頷く。彼女の優しさは知っている。彼女の厳しさも――理解できていると思う。それでも彼女は……。

 ジムがジェシカを連れ戻しに行った後、イヴェットは時間をおかずに彼を追った。不安なのももちろんあったが、待っているよう彼女に言ったときのジムの顔に妙な険しさがあったのが気にかかったのだ。道なりに進むと遠くに彼の背が見えたので、十分な距離を開けて後をつけた。彼は来てほしくなさそうだったし、それでもついていきたいと思うなら、間をとって気づかれないようにするのが一番自然に思えた。

 彼が姿を消したのは洞窟の前だった。ジェシカがここに来たとジムが考えたのであれば、向かう先は彼が探索していた洞窟のうちのどれかだということは見当がついた。そうしてそっと近づけば、三番目の洞窟から声がした。

 そのころにはもうふたりは争っていた。洞窟のそばの茂みに身を隠し、イヴェットはじっと聞き耳を立てた。ジェシカがペネロピを助けようとし、ジムを挑発する。彼はペネロピにナイフを向け――その後のこともすべて。

 イヴェットは膝に顔を埋める。ジェシカは被害者だ――殺されそうになって反撃しただけにすぎない。

 だが、それからのことは?

 彼女はペネロピの命を使ってジムの隙を作った。そうしてジムを殺した後、ペネロピにとどめをさして相打ちになったような構図を創りあげたのだ。死にかけのペネロピを引っ立ててきて、ジムの死体の上に重ね、彼の手に鉈を握らせてペネロピを殺した。そしてペネロピの手にナイフを握らせ、殺し合ったかのように見せかけた。

 イヴェットは見た。ジェシカが悲鳴をあげながら去った後、洞窟の中を覗いたのだ。折り重なってふたりが倒れていた。それまで聞いたことをすべて知らなければ、彼らは相打ちになったと信じただろう。合流した彼女は同じように説明した。ペネロピがジムを刺して、ジムが反撃した。ふたりは相打ちになったのだと。

 ただジェシカがジムに反撃しただけなら――その結果ジムが死んでしまっただけなら。イヴェットはこんなにも悩まなかった。嘘をつくのは理解できる。ジムを害したとなれば、サディアスの怒りを買うのは目に見えているからだ。

 しかし彼女はペネロピまで殺した。少なくとも聞いていた中では、ペネロピは拘束のせいかまともに話すことすらできなかった。ジェシカは無抵抗の彼女を保身のためだけに殺したのだ。

 ――これは違う。

 だがそれを主張してなんになるというのだろう。ジェシカにこれ以上誰も害する気がないのなら、無事に島を出るという目的に対し、彼女が人を殺した事実はさして重要なことではない。逆に言うなら、この状況でジェシカの嘘を指摘することに彼女を糾弾する以上の意味がないのだ。明確な敵を前にして集団には不和の種が植わり、ジェシカはサディアスに加えてイヴェットのことも敵だと認識するだろう。

 デメリットのほうが大きすぎる。サディアスの動きがわからないからだ。真実に気づけば彼はジェシカを殺そうとするだろう――しかし彼女単体を狙ってくると考えるのはむしろ楽観的で、ジェシカに兄弟の秘密を知られている以上、全員を敵と認識して動く可能性のほうを強く考えるべきだった。

 そして、そうなるとイヴェットにはどうしようもない。単独でサディアスから逃れるビジョンを彼女は持たなかった。

 生き残るためにも今は団結している必要がある。彼女の嘘を明らかにしたいなら、島から出た後だって遅くはないのだ。

 そう頭では理解しているものの、心がついていかなかった。内向的なイヴェットを気遣い仲よくしてくれたのは彼女だ。太陽の下の彼女と洞窟の中での彼女――その差の激しさはイヴェットの理性をぐらつかせた。ジムを殺したときの酷薄な口調。今なお行われている見事なまでの演技。ジェシカは平気で人を殺すことができるのだ。

 ペネロピの死に際の声が蘇ってくる。猿ぐつわをされていたのだろう。子供がむずがるようなうめき声から、それが外され、はっきりとした甲高い叫びへ。

 助けて、助けてえと、泣いていたあの声。

 イヴェットの視界が滲んだ。瞬きをすると頬に冷たいものが伝った。

「イヴェット……?」

 ナンシーが訝しげに声をかけてくる。彼女の奥でジェシカがまっすぐこちらを見ていた。

「大丈夫……なんでもないの」

 イヴェットは急いで涙を拭った。ジェシカを見返し微笑んでみせる。ぎこちない気はするが、やらないよりはましだ。


 ――神さまに祈ったってだめ。

 ――守りたいものは自分で守るのよ、どんなことをしても。

 

 ジェシカの瞳を見ていると、彼女の言葉が思い出された。そしてその瞬間――妙な話だが――イヴェットは初めて命の存在を自覚した。

 彼女は命を大切なものだと感じたことがなかった。粗末にしているわけではない。愚弄しているわけでもない。ただ――命が生まれ、失われることに――それ以上の感情を抱いたことがなかった。生命は光だ。この世界という大海に飲まれ、かろうじて生きながらえている脆弱な光。ただ、ふと風が吹けば――高い波がくれば。たちまちかき消えてしまうものだ。そう彼女は思っていた。

 それは自分自身についても同じだった。死にたいわけではない――殺されるのは絶対にごめんだ。しかし彼女は、消えたいといつも思っていた。

 だが今、イヴェットは自分を形作る生命の輪郭をはっきりと感じた。そして気づく。これは彼女だけのものではない。大勢の人に紡がれた……とても大切な……。

 小刻みに震える体を強く抱き締める。

 守らなければならない。

 たとえ人殺しの顔色をうかがわなければいけないとしても。

 ジェシカに笑みを向けると、彼女も笑い返してきた。その目が静かに色を濃くしていくのを、イヴェットだけが気づいていた。

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