三日目・4

「見解の相違、ってどういうこと?」

 ゲイリーはその単語を今初めて聞いたような顔をした。「なんだって?」と聞き返される。

「ジェシカとイヴェットがもめてたときに、見解の相違だって言ってたでしょう。あれはどういう意味なのかと思って」

 三人は島の西を歩いていた。サディアスの提案で、島の西端の道ではなく、西寄りの森の中を進んでいる。

 彼らにはほとんど緊張感がなかった。ナンシーは始めこそ警戒していたが、ふたりがあまりにもさくさくと進むので、いつしか銃を持つ手も緩んでいた。そうして最後尾を歩きながらゲイリーの背を見ているうちに、ふと出発前に彼がこぼした言葉を思い出したのである。

「あのときか」ゲイリーは言った。「なんの話をしてたっけ?」

「ジェシカが――つまり――起きてしまったことを嘆いていても仕方ない、運命は自分で切り開くものだ――みたいな話を、イヴェットにしてたわ」

「ああ」ゲイリーはそれでようやく思い出したようだった。「その前に、神さまの話をしてただろう」

「神さま?」

「ああ。確かジェシカが、神はいない――みたいな話をしたはずだ。俺が見解の相違だと思ったのはそこだろうな」

「あなたはいると思ってるの?」

 ナンシーの問いにゲイリーは心底意外そうな顔で振り返った。「きみはいないと思うのかい?」

 ナンシーは慌てて首を振った。「いいえ。いると思ってるわ」

 ただゲイリーがそう断言するのが意外だった。皮肉屋な様子があるから、無神論者ではないかと勝手に思っていたのだ。

 ゲイリーは少し歩幅を縮めナンシーと並んだ。

「俺は神がいると思ってるよ。それに、俺は神に愛されてるとも思ってる」

 前でサディアスが噴き出した。震える背中を見ながらゲイリーは口角を上げる。

「俺は――こう見えて激情屋だ。そのせいで、ああ失敗したかもな、と思うことも今までに数多くあった。でも、それらはなぜか最終的にはうまいところに落ち着くんだ」

 ゲイリーは堂々としていた。自分の一切を信じ切っているように見える。

「俺は世の中をそういうもんだと思ってる。うまくいくのは当然だし、それは俺が神に愛されているからだってね。だから、今回のこともそう心配していない」

 そう言ってナンシーに笑いかける。「大丈夫さ。きっとうまくいく」

 ナンシーは頬に熱が溜まっていくのを感じた。彼が自分にだけ微笑んでくれるのがくすぐったくて心地いい。満足感と幸福感で体がふわふわとした。自信に満ちた言葉は力を与えてくれる。彼が言うのであれば、そうなるような気がした。

「昨日の態度とずいぶん違うな」

 サディアスの冷えた口調がナンシーの熱を一気に冷ました。彼はいつの間にか笑うのをやめ、冷ややかな目でこちらを見ていた。

「サマンサを見失ったと言ってたときはやけに動揺してたらしいが――考え方ってのはたった一日でそんなに変わるもんなのか?」

「どういう意味だ?」ゲイリーの声が固くなる。

「世界が自分を中心に回ってると思えるようなら、たとえ人殺しがいる島だったとしても、女ひとりいなくなったくらいでそんなに動揺しねえだろう。今の主張と昨日の態度は、ちょっと筋が通らねえんじゃねえのか」

「つまり? 何が言いたいんだ」

 サディアスは笑った。いつもの小馬鹿にしたような表情に暗い野性が見え隠れする。

「俺はお前に親近感を持ってたんだぜ。系統は違うが――似てるもんを感じてた。だからこそ、あのときのお前の弱々しさに俺はちょっとイラついた。結局こいつもこんなもんかって思ったのさ。だがどうだ、今の話じゃお前はやっぱり俺と近い。この状況は結構やべえが、俺だって何も心配してない。俺とジムが揃ってりゃあすべてのことがうまくいくし、すぐ元の生活に戻れるってなもんだ。なあ――お前のその意見も、昨日寝て起きて得たもんじゃねえだろう。なら、昨日のザマはなんだったんだ? あの情けねえ――女に媚び売るようなザマはよ」

 ゲイリーが短く息を吸い込む音が聞こえた。喉が引き攣れるように鳴り、ナンシーははっとして顔をあげた。ゲイリーは口の端を落とし、大きく目を見開いていた。下まぶたがぴくぴくと持ち上がっている。

「俺が女に媚びてるって?」ゲイリーの声はうわずっていた。「女に? 俺が?」

 サディアスはゲイリーの様子に気づいて立ち止まった。奇異なものを見る目を彼に向ける。ゲイリーも合わせて立ち止まる。手はこわばり、甲にはくっきりと筋が出ていた。

「おっと、ご気分を害されましたかね」

 サディアスは挑発的に言った。彼自身、発した言葉が予想以上にゲイリーを逆撫でしたことに気づいたはずだ。だが彼は止めることなく、ここぞとばかりに言葉を重ねる。

「だが間違っちゃいねえだろう。今だってばっちりガードがついてやがる。お前を守ってくれる、可愛い可愛いボディーガードがな。ツラがいいってのは得だなあ、おい。媚びてりゃなんにもしなくていいんだ。これまでどれだけの女にケツ振って暮らしてきたんだ?」

 ゲイリーの口元が激しく歪んだ。顎のきしむ音。ナンシーは慌てて彼の前に立つ。彼女の背丈で視界を遮ることはできないが、少しでも意識を逸らしたかった。

 正面に立って、今度は彼女が息をのんだ。おおよそ欠点の見あたらない顔が別人のように歪んでいる。涼しげな目元と皮肉げな笑みを帯びた口元には、今や悪鬼が張りついていた。

 背筋に冷たいものが走り、ナンシーは動けなくなった。これは見てはいけないものだ。背を向け逃げ出したい衝動に駆られたが、それは違うと彼女の理性が叫んでいた。

 ゲイリーの手を掴む。彼の腕は振り払わんばかりに大きく一度跳ねたが、彼女が手に力を込めるとやがて大人しくなった。

「ねえ、気にしないで。私はそんなこと思ってないわ」

 ゲイリーは暗い目でナンシーを見下ろしたが、やがて弱々しく笑った。「そうだな。そうだとも」

 サディアスは鼻白んだ様子で歩き出した。ふたりは少し距離を置いて、彼の後ろをついていった。

 サディアスとゲイリーの関係はこの一瞬で決定的に崩壊した。彼らは相手への敵意を隠そうともせず歩いていて、ナンシーは居心地の悪さに身をすくめた。

 ゲイリーのあんな顔は初めて見た。あの憎悪にまみれた表情。それに、サディアスのあの言いようは、明らかにゲイリーに対する悪意が感じられた。

 彼らは似ていると、確かにナンシーも思っていた。それなのに――なぜだろう。先ほどのふるまいで彼女も察した。サディアスはゲイリーを疑っているのだ。

 ナンシーの心臓はどきどきと鳴っていた。ゲイリーの顔をちらとうかがい見る。彼はもういつもの顔つきに戻っていたが、目だけは暗く鋭い光を湛えていた。まっすぐにサディアスの背に注がれている。ふたりは見つめ合って歩いている――彼女にはそう思えた。サディアスは一度も振り返らなかったが、彼もまたずっとこちらを見ているような気がした。

 島の中ほどまできた。昨日東の道を歩いたときよりもだいぶはやい。これは、北へ向けて比較的まっすぐ進んでいることもあるだろうが、彼ら自身の速度も多分に影響していた。衝突してからのふたりは歩く速さも段違いで、ナンシーはついていくのに精一杯だった。それでもゲイリーはまだ定期的に振り返ってくれたが、サディアスはお構いなしに進み続けた。

 ふとゲイリーが立ち止まった。ナンシーの眼前にその背が迫る。ぶつかる直前に彼女は立ち止まり「どうしたの」と尋ねた。

「メイナードの死体はこの辺じゃなかったか」

 ゲイリーの背中の向こうでサディアスがどんどん小さくなっていくのが見えた。ナンシーは大声で彼を呼ぶ。サディアスははじめこそ無視していたが、彼女が何度も呼び、そのたび声が遠ざかるのでさすがに振り返り、そこそこの距離を戻ってきた。ゲイリーは彼の顔がはっきりしてくる前に、ひとり沼のある方へと歩き出した。

「ちょっとゲイリー、どこへ行くの?」

「死体を見に行く」

 短くそう言うと、彼は了承もなく進んでいった。戻ってきたサディアスは「逃げたか」と言って、ナンシーに睨まれた。

「メイナードの死体を見に行ったのよ」

 サディアスは意外にも「ふうん」と言ったきりだった。ふたりでゲイリーの消えた方向を見ていると、サディアスは思い出したように「行かなくていいのか? お姫さま」と言った。

「ひとりにしておいていいのかよ。王子さまが食われちまうかもしれないぜ」

 サディアスは先ほどまでとは打って変わってリラックスしていた。自分が言ったようなことなど起こりっこないと信じているのがわかる。

「あなた、ゲイリーを疑ってるの」

 サディアスの表情が消えた。ナンシーの体はこわばる。時間を止めてしまったかのようだ。微動だにしないサディアスの顔を、天敵に囚われた草食獣の心持ちで見つめていると、薄い皮膚の奥からゆっくりと笑みが浮かんできた。すべてを嘲り尽くした酷薄な表情だ。

「あいつが犯人だよ」

 サディアスの言葉はナンシーの弱りつつあった心に火をつけた。「メイナードは? ペネロピは? 昨夜は私が一緒にいたのよ」

「それでも犯人だ。お前は昨日寝ずにあいつを見てたのか?」

「根拠もないのに疑って輪を乱すのはやめて。ゲイリーの何が怪しいって言うの?」

 サディアスはナンシーにぐっと顔を近づけた。目が薄く充血している。

「根拠がないのにあいつを信じ切ってるお前はなんなんだ? ベンも違う、あいつも違う。それじゃあ誰が犯人なんだよ。自殺? ペネロピもか? んなわけねえだろうがよ。誰かが殺して、犯人はこの島にいるんだ。いい加減現実を見ろよ」

 ナンシーは口ごもった。サディアスは続ける。

「ベンじゃねえと思うなら、なんであいつを疑わない? 俺は根拠があってあいつが犯人だと思ってる。お前に言ったって意味がねえから言わねえだけだ――そうだろう? ベンが人殺しだって証拠を一から十まで並べてやっても、お前は感情ひとつで否定する。あいつに対してだって同じさ」

「そんなことないわ」ナンシーはか細い声で言った。「きちんと根拠を示してもらえれば――」

「お前は感情的な女だよ」サディアスはきっぱりと言った。「それは一生治らんだろうが、一応忠告しとくぜ。ろくに考えもせず思いつきでぎゃあぎゃあ喚いて俺たちの邪魔をするってんなら――こっちにも考えがある。生き残りたいと思うなら、ない頭を絞ってよく考えるんだな」

 ナンシーは胸の中心を貫かれたような気がした。そうだ――無意識に男たちを頼ってはいたが、彼らは元々赤の他人だ。危機に陥ったとき助けてくれる保証はない――。

 しかしそれ以上にナンシーは腹が立った。彼女は無力だ。銃こそ握っているものの、いざというときに誰かの助けなしではたちまち死に飲み込まれてしまう確信がある。しかしそんな弱みにつけ込んで他人を操ろうとするサディアスが――この上なく不愉快だった。

 確かに自分は感情的かもしれない。けれど、自分の感情に従わないで生きていると言えるのだろうか?

 ナンシーはサディアスに背を向けた。指摘された通り、ゲイリーを信じると決めたことにはっきりとした根拠はない。だが「この人は人を殺さない」と感じて、その感覚を信じることに――そもそも根拠なんていらないのだ。

「感情的でいいわ。私はゲイリーが人を殺すとは思えない。彼はいい人よ。サマンサのことだって心配してたし、自分を疑ってたペネロピのことだって気遣ってた。ベンを探そうってずっと言ってくれてた。命を軽視してるというならあなたのほうじゃないの。ここに残ってあなたに従ってるくらいなら、私はゲイリーを守りに行くわ」

 サディアスは何も言わなかった。彼女が歩き出して少しして、彼の足音が聞こえたとき、何かされるのではないかとナンシーは体をこわばらせた。しかし彼は距離を開けてただついてくるだけだった。首筋にサディアスの視線を感じ、彼女は緊張のあまり指先に痺れを覚えた。ゲイリーの姿が見えたとき――その眼前に死体があっても――ナンシーは心の底からホッとした。

「ゲイリー」

 彼は死体から離れて立っており、ナンシーを見て口角を上げた。一度彼女の背後を見やり視線は冷たくなったが、すぐ死体に向き直る。ナンシーは小走りで彼に近寄った。

「何か気づいたことはあった?」

 彼の横に立ってナンシーも死体を見たが、長くは続かなかった。メイナードは腐り始めていた。下腹部がふくれ、臭いもすごい。距離を開けているはずなのに猛烈な吐き気を覚え、ナンシーは数歩後じさった。

「いや、特にはないな」

「もう見たって無駄さ」サディアスが言った。「メイナードは誰でも殺せた。なら、サマンサを殺したやつがメイナードも殺したんだ。そう考えるのが一番自然だ――違うか?」

「同一犯じゃない可能性だってある。むしろ、メイナードが絞殺魔でサマンサがモーテル・キラーなら、そっちのほうが本線じゃないか。そんなに俺を犯人にしたいのか」

「したいというか、事実だからな」サディアスは笑った。「実はベンも死んでて、それもお前が殺したんじゃねえのか?」

 ゲイリーは腰に手を当て、細く長い息を吐いた。静かに顔をあげてサディアスを見据える。

「わかった。じゃあ、ベンも既に死んでいて、俺が殺したとしよう。ペネロピがいなくなったのも俺が関与していたとして。俺はどうしてそんなことをしたんだ? こんな逃げ場のない場所で事件を起こすなんて、まるで自殺志願者だ。お前が俺を犯人と思っているなら、ぜひ動機まで教えてくれ」

「知るかよ」サディアスは即答した。「人殺しの気持ちなんてどうして俺が考えなくちゃならない?」

「弱いわよ」ナンシーも言った。「動機のない殺人なんて」

「動機がなきゃ人を殺しちゃいけないのか?」

「だめに決まってるでしょ」

「ムカついたとか、邪魔だったとか、なんだってあるだろう。それは死体と犯人の間の話で、俺の知ったこっちゃない。それに、最初からそのつもりだったかもしれない」

「そのつもりって?」

「俺たち全員を殺そうとしてたってことさ。理由も何もない。全員殺して、被害者として島を出る。無線を壊したのはただの時間稼ぎ。そういう考え方もできるだろう」

「そんなの通るはずないわ!」ナンシーは叫んだ。「最後のひとりなら、それは犯人よ」

サディアスはナンシーに指をつきつけた。「だから、最後のひとりにはならないんだよ。自分を犯人じゃないと信じている人間がひとりでもいるなら、いくらでも都合よく事実をねじ曲げられる。結局のところ、証人は生き残ったやつらだけなんだからな」

「つまり、なんだ?」ゲイリーは言った。「俺は島で殺人をするためにツアーに参加して、三人殺して無線も壊し、最後のひとりになって島を出ようとしている。そういうことか?」

サディアスはナンシーを一瞥した。「自分に都合のいい味方もつけてな」

「ばかばかしいわ」ナンシーは断じた。「信じられない」

 ゲイリーはナンシーの言葉に同意することなくサディアスを見つめた。暗く静かで、おおよそ感情が感じられない目だ。

「なるほどな」少しして彼は言った。「お前たちの考えていることがだいたいわかった。つまり、そういうふうにしたいんだな」

「図星だろう」サディアスはせせら笑う。

「妙だと思ってたんだ。確かにベンは疑わしいし、俺も犯人だとは思ってる――俺が犯人じゃないからな。だが、お前たちがベンに固執する理由はわからなかった。脳がふたつあるんだ、もう少し柔軟に考えることもできるだろう。結局のところ、お前らは犯人をひとりってことにしておきたいんだ。昨日はベン、今日は俺……ベンが死んだって話はどこからきたんだ? どうして俺が殺したことになる? お前たち、俺を犯人にしたいんだな。俺にすべて押しつけて、この島で何がしたいんだ?」

 サディアスの双眸が細くなった。ゲイリーは続ける。

「メイナードもサマンサもベンも人殺しなら、残りのやつらが何をしてたってもう驚きゃあしないさ――お前たちも後ろ暗いところがあるんじゃないのか? もしかして、さっきお前が言ったのと同じことを――俺とお前の立場を逆にして――やろうとしてるんじゃないだろうな?」

 ナンシーは銃を握り締め、更に数歩後じさった。完全に無意識の行動だった。ふたりの気迫に飲まれてしまう。自分が心身ともに脆弱な存在だということをその身をもって理解する。彼らの間に立つことすら今の彼女にはできなかった。

「だとしたら自白をありがとう」ゲイリーは仰々しく一礼した。「警戒すべき相手がわかって、俺も安心したよ」

 ゲイリーのふるまいはなまめかしく挑発的で、悪意を含んでいた。サディアスが先ほどから匂わせていた敵意はこれによって明確な形と暴力性を持ち、遠慮なくゲイリーと――そしてナンシーに浴びせられた。耐えきれず彼女はゲイリーの背後に下がる。痛みにもかゆみにも似た刺激が皮膚の表面を走っていた。人の悪意がこんなにも肌を刺すとは思いもしなかった。

 ふたりは動かなかったが、その手がそれぞれの武器のそばにあるのにはナンシーも気がついていた。状況はもう彼女の力ではどうにもならないところまできていた。

 そこに、東の方から高く響く音がかすかに聞こえた。はじめは鳥の声かと思った。しかし聞き慣れない音で、それが人の悲鳴である可能性に気づく。

「ねえ――」

 サディアスとゲイリーはなおも睨み合っていた。ナンシーは何度か視線をさまよわせ、彼らを置いて走り出した。あっちのグループで何か起きたのかもしれない。ベンが見つかったのかも。なんにせよ、自分が行かなくてはならない――。行為を正当化する理由は幾つも浮かんだが、ナンシーは心の奥底で主張する思いにも気づいていた。彼女は恐れていて、あの場から逃げだしたかった。

 しばらく行くと声の主が明らかになった。ジェシカだ。高く張り裂けそうな声でイヴェットの名前を呼んでいる。

「ジェシカ!」

 ナンシーが叫ぶとぴたりと声はやんだ。不自然に音が途絶えたことで、不安になった彼女は足を速める。銃を持ったままでは思うように動けず手間取ったが、声の方角に走り続けると再びジェシカの声が聞こえた。

「ナンシー! どこ!」

 ジェシカは森の中で屈み込んでいた。鬱蒼と茂った木々の狭間で小さく体を丸めている。ナンシーは急ぎ駆け寄ろうとしたが、そのありさまに気づくと足が止まった。

 ジェシカは血塗れだった。髪は濡れ、束になって固まっている。服や手足も赤黒く染まり、特に首元が酷かった。物音に気づいた彼女が顔をあげる。その両頬も血で真っ赤だった。

「ナンシー」

 ジェシカは吐息とともにうつむいた。肩が小刻みに震えている。それまでナンシーの体はむせかえる血の臭いで金縛りにあったかのように動かなかったが、ジェシカの嗚咽でようやく自由を取り戻した。

「ジェシカ、怪我は」

 近づいて銃を置き、彼女の体を改める。傷らしき傷は見あたらない。ジェシカもふるふると首を振った。

「どうしたの、その血……」

「ペネロピが……」

「大丈夫か」

 足音がして、木々の後ろからゲイリーが顔を覗かせた。臭いに顔をしかめた後、ジェシカに気づきぎょっとした様子で寄ってくる。

「どうしたんだ、その血」

「ペネロピが」ジェシカは大きく息を吸った。苦しそうだ。「ペネロピを見つけたの。彼女縛られてて、そしたらジムが」

 ジェシカははっとして口を噤んだ。彼女の視線を追って振り返る。木々が揺れて、サディアスが顔を出した。

「なんだってんだよ――」

 彼はナンシーとゲイリーを見――彼らに囲まれる血塗れのジェシカを見た。瞬間、辺りは静まりかえった。彼は大股で寄ってくると、ふたりを押しのけてジェシカの胸ぐらを掴む。彼女はそのまま持ち上げられ、つま先立ちでなすがままになる。

「ジムは」サディアスは押し殺した声で言った。「ジムはどうした」

 彼の表情は消えていた。ただ目だけが大きく見開かれジェシカを捉えている。ジェシカは涙目で彼を睨んだ。サディアスの下あごに表情が戻ってくる。彼は歯をむき出しにして、おぞましい声を出す。

「ジムはどうした」

 右手がジェシカの首にかかった。指に力がこもる。ゲイリーが止めようと手をかけるが、力の差が大きすぎるのかろくな静止ができないでいた。サディアスの手の筋がどんどんと濃くなり、ジェシカの顔が赤くなっていく――。

「放しなさい、サディアス」

 ナンシーは飛びつくようにして地面から銃を拾うと、震える手でサディアスに向けた。サディアスはナンシーを見る。奇怪な表情だった。一見怒っているようなのに、何も感じていないようにも見える。それでいて、泣いているようにも、笑っているようにも、諦めているようにも見えた。

 サディアスは軽い動作でジェシカを投げた――ナンシーの方に。避けようとしたが銃口を逸らすので精一杯だった。ジェシカの体が銃身にぶつかり、ナンシーは彼女もろとも地面に倒れる。背後の木に後頭部をしたたかに打ちつけた。拍子に近くにあった別の木に銃口が当たり、合わせてガアンと硬いものが破裂したような音がした。

 ナンシーの頭は真っ白になった。音が遠くなり、世界がゆっくりに見える。ジェシカは彼女の足元に倒れていた。無事のようだ。ナンシー自身は木の根元に凭れながら頭を落とし、手足を大の字に広げていた。右手の感覚がなかった。銃を握っていたほうの手だ。視界の端に意識を向けると、右手はちゃんとあって、銃も持っていた。

 ゲイリーの声が遠くで聞こえ、頭を持ちあげられる。すぐそばに彼の顔が合った。口が何度も同じ形を作る。合わせてかすかにナンシー、と聞こえ、自分の名前を呼んでくれていることに気がついた。サディアスの姿は消えていた。

「ナンシー。ナンシー、大丈夫か」

 ゲイリーの声が聞こえるようになるまで時間がかかった。その間にジェシカも回復した。彼女はナンシーほど銃口に近くなかったのか、聴覚に異常はなさそうだった。

「もう大丈夫……右耳はまだ少し変だけど」

 右の耳は膜を貼ったようにこもっていたが、聞こえないわけではなかった。ナンシーは改めて周囲を見回す。

「サディアスは?」

「あの隙にどっか行っちまった」ゲイリーはサディアスが向かったのであろう方角を見やった。次いでジェシカに向き直る。「それで? 何があったんだ」

 ジェシカはどこかためらっている様子だった。それから小さく「ペネロピを見つけたの」と言った。

 しかし、彼女の話はまたも中断された。木の葉の擦れる音が近づいてきたからだ。緊張を孕んだ沈黙が落ちる。三人は音の方を見つめた。サディアスが去ったとされる方角だった。ナンシーは銃を探す。いつの間にかゲイリーが持っていて、銃口を音の先に向けていた。

 現れたのはイヴェットだった。彼女は困惑した様子で背後に視線をやっていたが、三人を見つけると表情を明るくした。彼女らしい控えめさはあるものの、平然と話しかけてくる。

「よかった、みんなここにいたのね。さっきサディアスが歩いていったのを見たけど、なんだか様子が――」

 イヴェットは数歩歩いたところでジェシカの状態に気がついた。その血塗れの頬を見て――彼女は笑みの形のまま顔をこわばらせた。

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