三日目・3
衝撃があった。左手と――次いで全身に。
あまりに突然のことでジムはよろめく。地面に膝を強く打った。体勢を立て直そうとして左手が動かないことに気づく。
「え?」
左手が――正確には左手に持ったナイフの先が、ペネロピの胸に埋まっていた。ペネロピは猿ぐつわをきつく噛みしめ唸っている。目をカッと見開き、口の端からよだれを垂らしていた。
「な――」
右頬に衝撃。殴られたと気づいたのは数秒後だ。倒れて頭を地面に打ちつける。硬直していた左手がそのままペネロピの体からナイフを引き抜いた。血が吹き出て腕にかかる。ライトがふたつ、もつれるように転がっていく。
ジェシカが躍りかかってきた。ジムは動けなかった。左手を何度も蹴られ、踏みつけられてナイフを手放す。右手でジェシカの足を掴んだが、彼女の攻撃は激しく正確だった。関節を蹴られて無力化される。
何より先ほどのショックが尾を引いていた。あまりにもあっさりと刺さったナイフ。ペネロピの形相。血の熱さ。ナイフが割いた肉の感触。
「やっぱりあなたは違うのね」
ジェシカはジムの腹めがけて飛び乗った。「ゔおえ」と間の抜けた声が漏れる。右腕は彼女の足に押さえ込まれて動かせない。左手は自由だったが、重く痺れていた。持ち上げかけたところをジェシカの靴底が捉える。
張りのある太ももが眼前にある。その影から持ち上がってくる右手には、彼が先ほどまで手にしていたナイフが握られていた。ジェシカはジムの上半身を見て小さく唸った後、一切のためらいなくそれを彼の左肩に振り下ろした。
ほんの一瞬、肩に冷たいものが当たったように感じた。それはたちまち燃えるような熱さとなって肩を焼く。痛みはその後やってきた。
「ぐうっああああ」
痛い。熱い。痛い。心臓が突如左肩に現れたようだ。どくどくと脈打って、その熱の隙間から飛び出た痛みが神経を引き裂いていく。
ジェシカは無表情のまま同じ箇所に何度もナイフを振り下ろす。その都度血が飛び散り、自分の体を構成する繊維がブチブチと切れていく感覚がした。ジムの左半身は首筋から二の腕まであっという間に血塗れとなり、肩口がぐじゅぐじゅと膿んだ音を立てた。
ジムは肩口の傷が大きく開いていること、そこに自分の血やら何やらが溜まって、おおよそ人の体から出ているとは思えないほどの水音がすることに気づいた。ナイフが突き立てられるたびに傷の縁から血が溢れ、シャツに広がる赤い染みの上を流れた。
そのうち一刺しごとに体内で硬い音が鳴り、芯を刺すような冷たい痛みが染みてくるようになった。耐え難い不快感に、頭の奥で何かの軋む音がする。彼は無意識に歯を食いしばっていた。顎が硬くこわばっている。唇の端からよだれが垂れて頬を伝った。
ジムの体がときおり妙な痙攣をし始めるようになってようやく、ジェシカは動きを止めて顔をあげた。
「もしかしたらと思ってたけど、さっきので確信が持てたわ」
返り血を浴びた顔でジェシカは平然と言った。天気のことでも語るかのような口調だ。雨が降ると思ったのよ――そういうにおいがしたの。気楽な予想が的中したときの、ほんの少しだけ満足を含んだ、しかしたいしたことはないと言いたげな、そんな言いようだ。
「あなたたちって、同じ事柄に向き合っていても完全に役割が分かれてる。なら、殺すのがサディアスの役目なのね? あなたはそのサポートってとこ?」
ジェシカの体の向こうに横たわるペネロピの姿が見えた。胸が小さく上下している。まだ生きている。
「ペネ、ロピ……」
ジェシカがペネロピを突き飛ばしたのだ。ナイフが刺さることなどお構いなしに。
ジェシカは目を丸くした。小さく首を傾げ、刺さったままのナイフの柄をノックする。ジムは再び歯を食いしばるが、隙間から苦悶の声が漏れる。
「ペネロピなんかどうだっていいでしょ。どうせ殺す気だったんじゃないの? それなら、はやいか遅いかだけの違いじゃない」
そう――ペネロピもジェシカも殺す気でいた。それは間違いない。しかし、彼は自分で殺すつもりなど毛頭なかった。ジムにとって、殺人は兄の存在に付随して初めて意味を持つ行為だ。逆を言うなら、サディアスがいないのならば、彼は人の死など望まない。
「そもそも、どうしてペネロピをまだ殺してないのかが疑問だわ。あなたならではの考えがあるんでしょうけど……教えてはもらえないでしょうね。あなたのこと刺しちゃったし」
熱の周りが冷たくなってくる。不思議な感覚だ。服が血を吸って肌に張りつく。
「嘘だろ……きみも、なのか……?」
ジムのか細い声にジェシカは皮肉に笑った。「ほんと、嘘みたい」
それは単純な肯定だった。ジムは呆然とする。ありえない――ありえない。
「でも、メイナードやサマンサみたいな連続殺人犯を期待しないでね。確かに人を殺したことはあるけど……たったふたりよ。それに、殺したくて殺したわけじゃないの。殺さないと遠くに行ってしまうから、仕方なく殺しただけなのよ」
ジェシカの目はまともだった。どこかネジの外れた――狂人を思わせるものではない。まっとうな意志に基づいたそれは――自分のしたことを当然のことだと認識している人間特有の、まっすぐな光さえ持っていた。
「でもやっぱりわかるのね。私にもわかったわ、あなたが人を傷つけたことすらないだろうってこと。あなた、ナイフを持ったって、使いたくなさそうだった。切っ先に出てたわ」
ジェシカはたわむれにナイフをノックする。そのたびにもはや鈍痛と化していた左肩の刺激が激しくなる。
「私に挑発されて刺さないのだってそう。あんなの、刺さなきゃだめよ。私としては、こうなることを期待してたからありがたくはあるけど。他人にナイフを向けたら大人しくなるような女に見えたのね。そういう評価をしてくれたのは素直に嬉しいわ」
ジェシカはそう言ってナイフを抜いた。体内から更に液体が出ていく。切っ先から跳ねた滴がジムの顔にかかった。
血。見慣れたものだ。サディアスはいつも細切れになるまで楽しむので、そこら中に血がまき散った。ジムは毎回、それを見ると暖かい気持ちになった。人間の体を破壊して楽しむ兄が、子供のようで、加えて人ならざるもののようで、魂が霧散し死が広がっていくにつれ、妙な恍惚と満足とが彼の中にわき起こった。彼は直接人を殺しこそしなかったが、そうした恍惚を感じるたびに、殺人は兄のものであり、自分のものでもあるのだという思いを強くした。
左肩が冷たく、重くなっている。先ほどから動かそうと試みてはいるが、ろくに力が入らない。
ジェシカはしゃべり続けている。顔には出ていないが興奮しているようだ。人の死を前にすると饒舌になる性質らしい。
彼と似ている。サディアスもそうだ。彼は女を殺しながら、ずっと話し続けている。死体に向かって。ジムに向かって。
「経験って大事ね。私、人を殺したことがなかったら、間違いなくあなたに従ってたと思うわ。でも、なまじ経験があるせいで――なんていうか――他人の命を使うことが自然と選択肢に入るのよね。例えば、人を刺したことがないだろうあなたにペネロピを刺させて、その隙にあなたを殺す、みたいなことが」
「そっくりそのまま、返すよ……」ジムは切れ切れに言葉を吐いた。「僕を殺したって、すぐばれる……」
完全に動きをふさがれ、利き手も潰された。ジムは非力なのだ。ジェシカが言った役割分担はまさしくその通りだった。東のルートにこのメンバーで入ったのは消去法に他ならない。ゲイリーと銃持ちのナンシーをこっちに入れるわけには行かなかった。万が一ペネロピが見つかったらすべてがおじゃんになる。ジェシカとイヴェットであれば、ジムひとりでもなんとかなると思っていた。それは驕りだったが――。
「それについては考えがあるのよ」ジェシカは笑った。「一応ね」
ナイフの先がジムの皮膚を滑る。優しく、撫でるように。
「島で殺人が起きて――それが私の一切関係ないところでって、もうこれだけで最悪じゃない? 誰がやったか知らないけど、詳しく調べられたりしたらこっちのことまでバレちゃうわ。でも、ベンなら――あの子供殺しの変質者なら、犯人にもってこいよ。証拠はたっぷりあるし、話題性だってある。だから私はベンに犯人になってほしかったんだけど……」ジェシカは背後をちらりと見た。「どうにも無理そうね、これじゃ」
その通りだった。後ろ暗いところのある人間にとって、警察の介入はあまりにもデメリットが多すぎる。詳しく捜査されることのないように、ジェシカが主張していた通り、島を出る前に犯人が明らかになるか、捕まっているかがベストだった。それにはベンがもっとも都合がよかった――彼が腐って見つかるまでは。
「何がどうなってるのか、さっぱりわからなくなっちゃったわ。ペネロピがベンを殺したって本当なの? じゃあ彼女がメイナードも殺したってこと? それともサマンサ?」
頭が痛くなってきちゃった、とジェシカは言った。それはそうだろう。洞窟の中は血と腐臭で充ち満ちている。
ジェシカは立ち上がり、片足をジムの腹に乗せた。ようやく右手が自由になったが、こちらの手ももはやまともに動かなかった。指先が痺れて、持ち上げるので精一杯だ。
ジェシカはジムをまっすぐ見下ろしていた。目だけがぎらぎらと光って見える。
サディアスに殺された女たちも、こんな景色を見ていたのだろうか。
「島に何人人殺しがいようが、そんなことはこの際どうだっていいわ。むしろ――これを切り抜けられたら、これからなんだってできそうなものよ」
自分の足元に目をやると、ペネロピの虚ろな瞳とかち合った。まだ息をしているようだ。
「あなたのことも、申し訳なく思ってるの。あなたを殺さずともこの場を切り抜ける方法があったんじゃないかって、今さらだけど思うわ。でも、そういうことを考えると余計に頭を使うし……人殺しに相手にそこまで気を使ってやる必要もない気がするし……まあ、いいわよね」
ジェシカは自分の言葉に納得するように頷いた。ジムの上から足を退かすと、彼の左側に屈み込む。ナイフを構えつつ、何度かその向きを変えながら――「この辺でいいかしら」と彼女は呟いた。
「じゃあね、ジム」
喉元に衝撃があった。ジムはそれが振り下ろされたナイフによるものだとわかっていたが、意外なことに痛みは一切感じなかった。彼が感じたのは、ただ喉元に冷たい板が差し込まれたということと、それが彼に残っていた少ない熱を、残らず体の外に引きずり出していったことだけだった。
混濁していく意識の中で、彼は腐敗も血も死も殺人も、兄についてすらも考えなかった。彼は一昨日船上で見た光景を思い出していた。
水平線に消えゆく陽光が海面に照り映えり、宵闇を飾り立てるさまは酷く美しかった。それだけでジムは、このツアーに参加してよかったと思ったものだ。
目を開けているはずなのにとても暗い。あらゆるものが黒く滲んで見える。視界の端から暗闇がせりあがってくる。
その奥に、小さく明滅する光があった。ジムはすがるようにそれを見つめる。
彼の思考はやがて白光の中に溶けていった。
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