三日目・2
「ジェシカ」
背後から声がして振り返る。洞窟の入り口に人影が立っていた。ライトを向けようとしたが、先に向けられた。光に縫いつけられたように動けなくなる。
「何をしてるんだい、こんなところで」
表情が見えないからか、その声にはかつてない凄みを感じた。ジェシカは先ほど手放した鉈を探す――遠い。
「あなたこそ、こんなところで何をしてるの」
「きみを追ってきたんだ。やっぱりひとりじゃ危ないと思い直してさ」
「イヴェットを置いて? 洞窟の中まで?」
人影は緩慢に頷く。「そう。だからすぐに戻らなきゃ。いつまでもひとりきりにしちゃ危ないよ」
「どこに危ないことがあるの。彼女は安全よ。絶対に」
人影は――ジムは黙った。その隙にジェシカはライトを彼に向ける。彼はライトを持った右手にロープも持っていた。
「まいったな」ジムは言った。ライトで彼女を捉えたまま、腰からナイフを引き抜く。「本当はこんなことしたくないんだけど」
「どうしてこんなこと」ジェシカは歯を食いしばる。「ベンが何をしたって言うの」
「子供を殺したじゃないか」ジムの表情は陰鬱そうだった。「確かに僕たちにはなんの関係もないことだけど、何もしてないってことはないだろう」
「そういう意味じゃないわ。どうしてベンを殺したのかって聞いてるのよ」
ジムは心底不思議そうな顔をした。一瞬ペネロピの方へライトを向ける。横たわる彼女はいまだ猿ぐつわをしたままで、怯えた目を彼に向けていた。再びライトはジェシカに向く。
「殺してないよ」
「嘘をつかないで」
「嘘をついても仕方がないよ。殺したのはペネロピだ」
今度はジェシカがペネロピにライトを向けた。ペネロピは何度も当てられるライトに神経をすり減らしたのか、地面に額をこすりつけながら泣き出した。ジムの言葉を否定するように何度も何度も首を振る。
「ペネロピがどうしてベンを殺すのよ」
「それは僕じゃなくて、彼女に聞くべきことだったんじゃないかな。知らないし、興味もないけど……彼女には彼を殺す理由があったんだろうさ。僕が――いや、もうごまかしても意味ないだろうね――僕らがやったのは、昨日の晩ペネロピの後を追って死体を見つけ、彼女を拘束したことだけ。他のことは知らないよ」
「嘘……」
ジェシカは口にしたが、そう言い切れない雰囲気がジムにはあった。彼が昨日まで見せていた、事件について考える姿勢というのは本物だったように思う。バカンスが邪魔されたと言ったときのサディアスの苛立ちも。
ジムが一歩踏み出した。「近づかないで」ジェシカは叫んだが、まるで無意味だった。二歩、三歩とジムは洞窟へ入り、地面に落ちていた鉈の柄を踏んだ。
「ラッキーだな。きみに鉈を向けられたらどうしようかと思ってたんだ」
「置いていた鉈が見えたから入ってきたんじゃないの?」
ジムは喉の奥で小さく笑った。それは肯定に近かった。
彼は鉈を軽く蹴り、より入り口の方へとやる。ライトを軽く振ると、その下でロープがゆらゆらと揺れた。
「よければきみも、ペネロピと一緒に待っていてほしいんだ。悪いようにはしないから」
「信用できると思う?」
「この状況でも勝ち気だな」ジムは苦笑しながらため息をつく。「でも、それがいいんだろうね」
ジムはライトの前にこれ見よがしにナイフをかざした。ふたつの光がそれぞれ反射して岩壁を照らす。
「なんにせよ――きみを傷つける覚悟はあるよ」
ジムは言った。ナイフの先が揺らいで見えた。ジェシカは距離を取ろうとして、すぐに岩にぶつかる。
「私たちをどうする気なの」
ジェシカの声は震えていた。ジムは満足げに笑うと、言い含めるようにゆっくりと話す。
「本当に、悪いようにはしないよ。ペネロピを拘束したのだって、少し考える時間がほしかっただけなんだ。ペネロピは放っておくと危険だった。僕らが来たとき、彼女は泣きながら狂ったみたいにベンにナイフを突き立ててた。危ないから少しばかり……殴って――もちろん、サディアスがね――大人しくしてもらうことにした。ああ、ナイフは回収してあるから安心して」
ナイフ――光明が見えたと思った途端打ちのめされた。ジェシカは歯がみしながらジムを睨む。
「僕らもここから無事に出たい――できれば余計な干渉をされずに。だからどうするか考えたいんだ。いったん状況をフラットにしたいんだよ」
「うまくいくと思う? 私まで消えたら怪しまれるわ」
「きみが戻るほうが怪しまれると思うんだ。ペネロピがここにいることを秘密にしてくれるとも思えない」ジムは言った。「イヴェットなら大丈夫。きみのことをとても心配すると思うけど、説得する自信はあるよ。そうしたら、あとはゲイリー、ナンシー、僕とサディアス……うん。結構いい感じになるんじゃないかな」
ジムの口ぶりには妙な自信があった。おそらく既に描き終えているのだ――この島での顛末となるべきシナリオを。
知りたかったが――聞けるはずもない。具体的に聞くことで、彼女の未来が今ここで潰えるかもしれないのだ。だがこのままでは……。
ジェシカはちらりとペネロピに目をやる。彼女はジムが何か喋るたびに全力で首を振っていた。おそらく彼女は何か――決定的なことを聞いている。そのためジムの言葉にいちいち反応しているのだ。
兄弟は昨夜、ペネロピの処遇について彼女の前で話したのだろう。そしてそれは絶対に「悪いようにしない」ではない。
ジェシカはきつく唇を噛んだ。ベン、メイナード、サマンサ。ジムの言葉が本当ならペネロピも。そしてジムにサディアス――人殺しが多すぎる。
「ペネロピ」ジェシカは屈み込むと横たわるペネロピを抱き起こした。「しっかりして。このままじゃ殺されるわ」
光が徐々に大きくなり、ふたりを照らすようになる。気づけばジムはすぐ近くにいてジェシカにナイフを突きつけていた。
「殺すなんて物騒なこと言わないでくれ。大丈夫だよ、ジェシカ……僕を信じて、少しだけここで大人しくしていてくれ。きっとうまく収めてみせるから」
ペネロピはジェシカの腕の中でぐったりとしていた。長い髪の隙間から見開かれた目が見える。焦点が合っていない。
ジムもふたりの前に屈んだ。ジェシカと視線を合わせると、ナイフの先を彼女の眼前十センチほどで揺らす。
「後ろを向いて、両手を出してくれるかな。きみが抵抗するなら刺してからにする。ひと刺しくらいなら……兄さんも許してくれるさ」
ジムの頬は紅潮していた。話しぶりは落ち着いている。ナイフの先はときおり思い出したように揺れた。ジェシカは彼の様子を一通り確認し、顎の先をあげた。
「刺すなら刺しなさいよ」
ジムは僅かに目を見開いた。一瞬の静止を挟み、彼は唇の端を歪める。
「僕にできないと思ってる?」
「できないわ。あなたにそんな意気地はない。サディアスならともかく――あなたには無理よ」
ナイフの先が大きくぶれた。動揺している――それならまだ望みはある。
「悪いことじゃないわ。人を傷つけるための意気地なんて、なくて当然よ。あなたは賢い。こんな逃げ場のない場所でそんなことをしても、なんにもならないってわかってるんでしょう? サディアスに付き合って、あなたまで沈むことはない。悪いことを悪いと指摘できるのが本当の関係よ」
ジムはジェシカの目をじっと見た。ジェシカはつばを飲む。どちらに転ぶか――。
「サディアスはいいやつだよ」
ジムは言った。歪んだ唇のまま笑みを形作る。
「強くて、優しくて、楽しくて……こんな僕にも敬意を示してくれる。素晴らしい兄だ。僕らにとって殺人は――きみたち女がよくするおしゃべりみたいなもんだ。しなくても死にはしないが、しなければ互いを知ることができない。最初に女を殺そうと言ったのは僕だ。サディアスの渇きには気づいてた。どうすれば彼が満たされるのかも。彼が気づくのは時間の問題だったけど……僕が提案することで殺人は彼のものでなく――僕らのものになったんだ。僕は人を殺したいわけじゃないが……サディアスが楽しく過ごせるのなら、誰が死んでもいいと思ってる」
ジムはジェシカでなく、ペネロピにナイフを向けた。
「きみが大人しくしてくれないなら、今ここでペネロピを殺す。きみにはこっちのほうが効きそうだ」
ナイフがペネロピの胸元に突きつけられる。ペネロピはナイフを認識したのか、喉奥からか細い声をあげた。
ジェシカはナイフを見――次いでペネロピを見た。他にできることは思いつかなかった。
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