三日目・1
朝、三つのバンガローから人が出てきて、彼らはそれぞれ胸を撫で下ろした。誰ひとり欠けなかった。昨日薪を囲んだ全員が、またこうして顔を合わせている。
「よかった」ナンシーが言った。「皆さん無事みたいですね」
「ひとまずはよかったね」とジム。「ペネロピはいる?」
ジェシカは――なぜか昨日から彼女がペネロピ担当のようになっていた――「ちょっと待って」と言い《3》のバンガローに向かう。中から音はしなかった。ノックをする。一度、二度。
「ペネロピ、いる? いたら返事をして」
声はなかった。衣擦れの音すらない。
ジェシカはノブに手をかけた。それは予想通り――抵抗なく回った。
ドアを大きく開け放つ。異変を感じた五人が戸口に集まってくる。ジェシカは一足早く中へ入った。そこはもぬけの空だった。
脱ぎ捨てられた衣服が散らばっている。ブラウスにスカート、下着まで。ベッドシーツの一枚ははぎ取られていて、何度も踏みつけたのか靴跡が残っていた。枕は右のベッドの中央にひとつ、部屋の左端にひとつ落ちていた。ペネロピのバッグはそのまま残っていたが、中身はほとんど飛び出していた。
「いない」
たいした反応は返ってこなかった。ジェシカにも驚きはなかった。昨日は多くの意見が出たが、結局のところは何も解決しなかった。これといった証拠もなく、出てくるのは死んだ人間が人殺しだった証だけ。広場で六人が顔をあわせたときから、何かあるならペネロピのところだと思っていた。まだ何も終わってないのだ。
「外に出たのか」ゲイリーが言った。「俺がいるのに?」
「みんなが寝たのを確認してから出たんでしょう。何しに出たのかはわからないけど」
「本当に寝てたのか?」サディアスがゲイリーを見て言った。
「どういう意味?」ナンシーが言った。「それぞれ証人がいるでしょう」
「証人?」ジムが訝しげな顔をした。「そういえばナンシー、きみは昨日どこで寝たんだい」
ナンシーは僅かに逡巡して言った。「メイナードのベッドを使ったわ」
ジェシカはサディアスが何かしらふたりを揶揄するような反応をすると思った。今までを見る限り、彼はそういう男だからだ。だがサディアスは眉をひそめ、一瞬ジムの方に視線をやった。それから取り繕うように「お楽しみだったのか」と言った。
「違うわ。ゲイリーはすぐに寝たわよ。昨日はみんな疲れてた。変な邪推はしないで」
サディアスは「へーへー」とあしらう。ゲイリーは大きくため息をついた。
「今日はどうするんだ。昨日お前らが小屋に引っ込んだ後、俺たちは明日もベンを探したいって話をしていたが……この分だとペネロピも探したほうがいいんだろうな」
「意味あるのか」サディアスが言った。「死んでる可能性のほうが高そうだぜ」
彼の口調は妙に確信めいていた。「どうしてそう思うの」ジェシカは尋ねる。
「探してたやつはみんな死んでる」サディアスは意外そうに言う。「これでペネロピも生きてると思うほうが楽観的だろう」
「ベンはまだ生きてるわ」ナンシーがかみついた。「勝手に殺さないで」
「そうだったな。悪かったよ」サディアスは謝罪した。何も感じていないような口調だった。
「じゃあ少なくとも昨夜、同室の相手は外に出ていないとみんな思っているんだね」
ジムの言葉に皆が頷いたが、その場には妙な空気が残った。
「なんだかもったいぶった話し方をするんだな」ゲイリーが言った。「何か進展があったんなら共有してほしいんだが」
ジェシカも同感だった。彼女たち四人は昨晩ろくな意見交換をしていない。ナンシーは混乱しきりだし、ベン擁護派だ。イヴェットは死体が見つかってからほとんど口を開かない。ジェシカも正直なところ考えがまとまっていなかった。
自殺説は論外だ。ジェシカも人殺しは自殺などするはずないと思っている。人を殺す理由はさまざまだが、メイナードとサマンサはいわゆる快楽殺人犯の類だろう。そういう人間は自分のために他人を殺す。その刃を己に向けることなど考えもしないに違いない。
じゃあベンがふたりを殺したのかと言われれば、それも疑問が残る。まず、ベンが犯人でなぜメイナードが死ぬのかがわからない。ベンならメイナードを殺せるだろう――だが彼らには互いを殺す理由がない。想像を飛躍させて、ベンが島に殺人者がいることすら許せない過激派だったとするならば、ふたりを殺したこともまだ納得できる。しかし、モーテル・キラーはともかく絞殺魔はR国の話だ。メイナードには手記の類もなかったし、ベンが知っていたとは考えにくい。
となると、ゲイリーが言っていた説――サマンサがメイナードを殺し、それを知ったベンがサマンサを殺した――というのが落としどころとしては一番綺麗だ。だがサマンサがなぜベンの小屋に運ばれたのか、ベンはなぜショットガンを持っていかなかったのかなどの疑問も依然として残る。
そもそもあの小屋はすべてがちぐはぐだ。無線を壊したということは、彼女たちを島から出したくないという意思表示に他ならない。しかし小屋周辺に置かれた武器に転じられそうなものには一切手をつけられておらず、虎の子のショットガンすら残されている。
「特に進展はなかったな」ジムは言った。「異論はあるだろうけど、とりあえずはまだベンを犯人とみて考えているよ」
「とりあえずは、ね」ゲイリーは肩をすくめた。「含みを持たせた言い方だな」
ゲイリー。彼はベンの次に怪しい。サマンサを殺せたのは、ベンを除けば彼だけだ。だが彼ならあまりにもあからさますぎる――そして、彼が殺したのならばあまりにも動じてなさすぎる。このまま本土に戻れば少なくとも彼は拘束されるだろう――それにしては平然としすぎているのだ。これは無実であるが故の自信なのだろうか。
加えて利き手の問題もある。彼は右利きだ。メイナードは左手前方から首を突かれていた。犯人は左利きのはずだ。
それに何より、ゲイリーにも動機はない。いや――動機はこの島の誰にもないのだ。自分たちは初対面だ。出身もばらばらで、偶然この島に集ったにすぎない。初対面の人間を殺す理由なんて……。
「ジェシカ」ナンシーがジェシカの肩を揺さぶった。「朝食にしましょ」
「え、ええ」
三日目からの食事は冷蔵の必要がないものが主だ。缶詰や乾パン、スープやパスタなどで、ベンの小屋の裏手に積んであった。死体が視界に入らないことから、彼女たちは全員でそれを取りにいった。
食糧には一切手がついていなかった。「ベンは何も食べてないのね」とナンシーは言ったが、それはのんきな意見だった。皆自分の分だけを持って広場へ戻った。
火を使わなければならないスープやパスタは夕食にする事になっていた。皆は缶詰の中身をぼそぼそと食べた。会話はない。ジェシカも黙って先ほどの続きを考えていた。
そうして、突如振ってきた考えに動きが止まった。
「……まさか」
あまりにも荒唐無稽だ。しかし――ありえないとはもはや言えない。
ジェシカの呟きに、隣に座っていたイヴェットがこちらを向いた。「どうしたの」消え入りそうな声で言う。彼女は死体が出てから幽鬼のようだ。死んでしまったのかと錯覚するほど存在感がない。ときおり気配がないのにそこにいてびっくりすることがあった。
「なんでも。それよりイヴェット、あなたは大丈夫なの?」
昨夜はすぐベッドに潜り込んでしまい会話もなかった。ジェシカはしばらく眠れず事件のことを考えたりもしたのだが、隣のベッドに横たわる体はぴくりとも動かなかった。
イヴェットは緩慢に首を振る。「わからないの。何も」
「わからないって? 誰が犯人かっていうこと?」
「違うわ」イヴェットは言った。「どうしてこんなことが起きてるのかってこと」
ジェシカは少し考えて、彼女の耳元に唇を寄せた。「それなら、予想があるわ」
イヴェットの瞳に光がともった。「なに?」彼女も小声で言う。
「考えても無駄ってこと……つまり、理由なんてないのよ」
彼女の答えにイヴェットは失望したようだった。たちまち瞳が暗くなり、膝を抱えてうつむいてしまう。
「ごめんなさい、がっかりさせて」ジェシカは口先だけの謝罪をした。彼女はこの結論に確信を持っていたが――言葉を尽くして説明したところで、イヴェットに理解できるとも思えなかった。
「私、神さまを恨むわ」イヴェットは呟いた。
そう――イヴェットがほしいのは結局のところ、なぜ殺人が起こったかではなく、なぜ自分が巻きこまれてしまったかに対する答えなのだ。そんなものは運が悪かったとしか言えない。
ジェシカにはイヴェットの気持ちがわからない。彼女は一部非常にロマンチストなところがあった――主に恋愛面で――が、それ以外の部分では恐ろしくリアリストだった。彼女は合理主義者ではない。自身のロマンチストな部分で生じた不利益は多々あるが、だからといってそうしたふるまいを止めようと思ったことはなかった。それは性質で、どうしようもないことなのだ。受け入れたうえでうまく付き合っていかなくてはならない。
だからこそ、ジェシカにはイヴェットのふるまいが理解できなかった。彼女はずっと逃げ続けている。人が死んでも、どこかそれを受け入れていない感じすらあるのだ。起きてしまったことの原因にいつまでも固執して、前に進もうとしない。しまいには神さまなどと口にし出す……。
「神さまなんていないわ」ジェシカは突き離すように言った。「あなた、いつまでもうじうじして、何がしたいの?」
イヴェットは顔をあげた。目を丸くしてジェシカを見る。皆の視線も集まっていた。
「人が死んでるのよ。ベンに襲われない保証もない。あなたのことは誰も守ってあげられない。それはわかってるの?」
「わ、わかってる……」
声は泣き出しそうだった。ジェシカの口調はあからさまにイヴェットを責めていた。彼女が同性に対して強く当たるのは初めてだった――それもイヴェットに。
「ならもっとしっかりして。自分の命は自分で守るのよ。命だけじゃない、権利だってそうよ。人殺しにいいようにされてたまるもんですか。私は何ひとつ侵害されずに元の生活に戻る。そのために犯人を捕まえるわ」
サディアスが「威勢のいいことで」と茶化したが、彼女は無視した。彼の反応など些細なことだ。ジェシカが元の生活に戻るためには、犯人を捕えることが絶対に必要なのだ。
「起きてしまったことをいつまでも嘆いても仕方ないわ。そういう運命なんだと受け入れて、向き合わなきゃだめなのよ。自分で答えを見つけるの」
イヴェットの目は潤んでいた。瞳の底に陽光が溜まっている。
「神さまに祈ったってだめ。守りたいものは自分で守るのよ、どんなことをしても」
イヴェットはうつむいた。ゲイリーが「見解の相違だな」と言うのが聞こえた。もはやとっくに内緒話ではなくなっていたが、ジェシカは改めて周囲に宣言する。
「殺人は起こってしまったの。どうして、なんて考えても仕方ないわ。それは人殺しの都合。私たちには関係ない。私たちが考えなきゃいけないのは、どういう状態で島を出るかよ」
「というと?」とジム。
「明日の朝には船が来る。そうすれば私たちは無事に帰れる。だからここで待つ――というのがひとつの手」ジェシカは皆を見回す。「ふたつめは今も言った通り、犯人を捕まえるってこと。私は犯人を警察に突き出せるようにしてから島を出たいと思ってる」
「どうして?」
ナンシーが震える声で言った。いろいろな感情がこもっている。殺人犯を捕まえるなんて危険なことだ――彼女の目はそう言っていた。しかし、ベンが自分たちに危害を加えるはずはない。彼女はそういう立場を取っている。だからそれと主張することができない。
ベンが犯人でないと言うのなら、ナンシーは別の犯人を提示するしかない。しかし場の空気はほぼベン犯人説で固まっている。ジェシカも反対する気はなかった。彼は犯人ならずとも、何かしらに荷担していると思っているからだ。ナンシーにはそれを覆せるだけの主張がなかった。
しかしナンシーの絞り出すような問いに、ジェシカは一瞬言葉に詰まった。沈黙が広がる。視線が自分に集まっている以上、あまり黙ってはいられない。
「いちはやく元の生活に戻りたいの。そのためには犯人が捕まっていることが必要なのよ」
ジェシカは周囲を窺った。特に反応はない。言葉が足りていないのは明らかだったので、なるべく自然に付け加える。
「コーレルが嫌ってわけじゃないのよ。でも、このまま警察に保護されても、事件が解決を見せるまでは私たち帰れないかもしれない。それは嫌なの……わかるわよね?」
「まあ、そうだな」サディアスが言った。「俺たちだってそうさ。せっかくのバカンスはもう台無しだ。そのうえこんなド田舎に拘束されるいわれはないよな」
ゲイリーもイヴェットも同意した。ナンシーは自分たちで犯人を捕まえるというのにはやはり渋っていた。しかし表立って反対する気はないらしい。
すんなりと話がまとまった。当座の目的は『ベンを見つけて拘束すること』となった。ペネロピの捜索はナンシー以外あまり声をあげなかった。昨日の捜索で死体しか出なかった徒労感が響いているのだろう。脱出がいよいよ目前になって、他者の安全より自身の安全を優先する段階に入ったというのもある。
そして、ジェシカはこの状態を奇異に思っていた。彼女のあの台詞。あまりにも身勝手な意図を多分に含んだあの言葉に、誰も一切の反感を示さず、ただ同意している。
そもそも、ベンを捕まえるという主張がこんなにすんなり通ることが意外だった。結局のところベンが犯人と確定したわけではないのだ。現状は確かに一番怪しい。怪しいが、彼が犯人という証拠もない。そこをはっきりさせないまま、ベンを捕えるということで話が進んでいる。
ジェシカはいいのだ。彼女はベンを捕えたいと思っている。だが――この感じ。まるで全員が同じことを考えているかのようだ。彼女と同じことを……。
小屋からロープを回収してチームごとに持つことになった。チームは前日と同じにすることにした。ジェシカは体格のいいサディアスとゲイリーは別にするべきだと考えていたが、他ならぬサディアスが昨日と同じチーム分けを提案した。そしてジムも同意した。
この兄弟は強い。単純に、人数が減ったせいで三分の一の数を兄弟が占めるため、ほぼ割れないふたりの意見が強く響くというのもある。加えて、極端に異なる容貌と態度がどうにもうまく働いていた。サディアスが言えば反発を受けそうなことをジムに言わせ、ジムが言えば反感を買いそうなことをサディアスに言わせる。あるいはふたりで対立した意見を述べ、通したい意見を言ったほうを勝たせる……。そんなちょっとした――しかし非常に強力な細工を、ふたりはごく自然に行っているように見えた。
初対面のときは、ジムがサディアスに追従しているものだとばかり思っていた。しかし事実は違う。彼らは平等な立場で、ただ明確に役割が分かれている。チームの頭脳はジムだ。サディアスも頭が悪いわけではないが、自分の頭脳以上に彼はジムを信頼している。
ジェシカは反対しなかった。彼らは何か考えていて、それを自分たちに隠している。そうはっきりと感じたからだ。真意を確かめるためにも、ある程度は彼らの意見を通しておいたほうがいい。肝心なのは自分の真意を悟られないようにすることだ。
結局反対意見は出なかった――またしても。今回は広場に待機する組は作らず、きっちり二組に分かれて島を回ることにした。昨日と同じ組み分けで、ペネロピの代わりにゲイリーがサディアス・ナンシーと組むことになる。「武器の配分的にもちょうどいいね」とジムは言った。
島をどう回るかについては昨日と同じにはならなかった。同じ道は飽きるから違う道を歩きたい、とサディアスが言ったからだ。ゲイリーは「俺は二日連続同じ道だぞ」と言ったが、特別反対する気はなさそうだった。
ジェシカ・イヴェット・ジムの組は島の東側を歩くことになった。ジムは変わらずナップサックを持ち、水とロープと洞窟用のライトの運搬を一手に引き受けた。彼はナイフを持って先頭を歩いた。「いざというときは僕が前に出るよ」と彼は言った。
今度の捜索は前回と違っていた。対象は殺人犯と目されるベンであるため、皆声を殺し、周囲を窺いながら進む。ジェシカは鉈を手にジムの後ろを歩いた。最後尾はイヴェットだった。
彼女たちのチームの計画は単純だった。ジムが足止めをし、そのすきにジェシカがなんとか拘束をはかる。イヴェットはそのサポート……というものである。ジムは武器の配分について触れていたが、だとしてもバランスが悪いチーム分けだとジェシカは思った。確かにサディアスとゲイリーの持つ武器自体は強くない。しかしふたりとも恵まれた体格をしているし、ナンシーにいたっては銃を持っている。あまりにも偏りすぎているのだ。仮にこちらのチームがベンと遭遇した場合、自分たち三人でベンを拘束できるのか甚だ疑問だった。彼もサディアスと同じくらいの体格をしていたはずだ。
「あなた、ベンを傷つける覚悟はあるの?」
歩きながらジェシカは小声でジムに尋ねた。彼は一度こちらに目を向けると、すぐにまた前を向く。「場合によってはね」彼は言った。それがずいぶんと他人事に聞こえ、ジェシカは眉をひそめた。ベンが余程弱っているか傷ついているかしないと、この三人で彼を拘束するのは不可能に近い。彼は小屋にある食品類に手をつけていないようだが、意図的に隠れているのであれば、ジェシカたちの知らない食料を確保していてもおかしくはないのだ。
やはりちぐはぐだ。何もかもが。
そのうちに洞窟が見えてきた。大きなものじゃないと誰かが言っていたが、代わりに数があった。高くせり出た岩肌の根元に草木が生い茂り、人がくぐらず通れそうな大きさの穴が七つ並んでいる。洞窟間は僅かだが距離があり、見れば今歩いている道からそれぞれの洞窟へ向けて道のようなものが延びていた。草木を切り開いて作られたそれは、いかにも秘密の通路といった様子だ。
ジムはサディアスから聞いていたのか平然としていたが、薄暗い大口が並ぶさまは壮観で、ジェシカは思わず声を漏らした。後ろからイヴェットが同じような反応を示すのが聞こえた。
「手分けして探そう」ジムは一番目の洞窟に続く道の手前で立ち止まった。「洞窟は七個ある。中はそんなに広くないらしいから、覗くくらいで大丈夫だよ。昨日も見たし、あからさますぎて隠れたりはしていないと思うけど……一応軽く見て回ろう。手前と真ん中と奥で手分けしたいんだけど、どうする?」
「私はどこでも……」とイヴェットが言い、ジェシカも頷いた。
「じゃあ、僕が手前の三つ、ふたりで四つを手分けしてもらっていいかな」
ふたりは頷いた。ジムがナップサックからライトを三本取り出す。それを見ながらジェシカはふと「私が手前を見てもいい?」と言った。
兄弟には何かあるとずっと思っていた。彼らの真意は知りたいが、思い通りにさせ続けるわけにもいかない。意に反したことをするならここではないか――そう直感したのだ。
しかしジムは少し驚いた顔をした後「構わないよ」と笑った。
「じゃあ、きみが手前のふたつを見て。僕は真ん中の三つを見るから」
彼があまりにもすんなり快諾したので、取り越し苦労だったかとジェシカは思った。結局取り下げることもできず、彼女は手前のふたつの洞窟を見ることになった。ジムはイヴェットを六つ目の洞窟の道まで送り、五つ目の洞窟から見て回るようだった。
中はがらんとしていてせまかった。本当にバンガローほどの大きさで、覗いてライトを振れば誰もいないのはすぐわかる。入り口からの光で物の有無くらいは確認できるので、ライトもいらないくらいだった。
意外にも空気はこもっていなかった。どこからか風が吹いている。穴でも開いているのだろうか――そう思って見上げれば、上方の壁に歪な光が差し込んでいるのが見えた。
ふたつめの洞窟も同じだった。覗いて出てくるとイヴェットは既にノルマを終えていて、元の道に心細そうに立ち尽くしていた。ジムは三つ目の洞窟の前に立っていたが、イヴェットを気にしており、ジェシカの姿に気づくと「行ってあげて」というジェスチャーをした。ジェシカも彼女の元へと急ぐ。ひとりきりはさすがにまずい。
ふたり並んでジムが洞窟に入るのを見た。ライトの光がちらちらと瞬く。
「ジェシカ……」イヴェットがおずおずと彼女を呼んだ。
「どうしたの?」ジェシカは応えたが、事件が起こった理由について彼女がまだ考えているようであれば付き合う気はなかった。その段階はとうに過ぎているし、ジェシカは確信を持っている。これは交通事故のようなものだ。誰が運転していたかは、車を避けてから考えればいい。
「あなたに言われて気づいたの」イヴェットは言う。「私、ずっと……逃げてばかりだった。いろんなものを失って……向き合わざるを得なくなって初めて、問題に対峙して……結局何も解決できずに……ただ奪われて終わってた。でも……それじゃだめなのよね」
ジェシカは驚いた。イヴェットは静かに涙をこぼしていた。彼女は悲しみの底にいた。人がふたりも死んでいるのに、自分の記憶をさらって嘆いているのだ。
あまりに――あまりに危機感がない。
「そうね」ジェシカは心のこもらない相槌を打った。「そう思うわ」
「私に足りないのは、運命を受け入れる力なんだわ」イヴェットは言った。「嫌だけど……受け入れれば、何かが変わるかもしれない。受け入れて……」
イヴェットの言い回しにはまだ他力本願な部分があった。ジェシカはそれに不快感すら覚えたが、指摘はしなかった。
「問題に向き合うの」
言うとイヴェットはうつむいた。ぱたぱたと滴が足元の草に落ちる。そこにジムが戻ってきて、泣いているイヴェットを見て驚いた。
「どうしたの」
「何かあった?」ジェシカは尋ねる。
「何もなかったけど、でも……」
あからさまに狼狽えるジムに、イヴェットは頬を拭うと「大丈夫」と笑った。
「私、うじうじ悩むのはもうやめる。そうジェシカに話してたの。心配してくれてありがとう」
ジムは顔を赤くしてうつむいた。「べ、別に……」と口元をこすり、持ったままのライトに気づく。「回収するよ」と言うので、ふたりはジムにライトを渡した。
「行こうか」
ジムが先頭に立って歩き出した。イヴェットが先ほどより足取り軽く後に続く。ジェシカもそれに続いた。ジムは一度振り返って、ふたりがついて来るのを確認した。
ジムはそれまでも定期的に背後を警戒していたが、洞窟を離れてからはより頻繁に振り返った。どうやらイヴェットが泣いていたのを気にしているらしい。彼女はジェシカに決意表明をしてから雰囲気ががらりと変わった。目に見えて明るくなっている。
対照的にジェシカの口数は減っていた。何かが引っかかっていた。ついさっき感じた何かだ――しかしそれが思い出せない。イヴェットがメイナードの死体の前で言っていたこと。「変だと感じたことは覚えているが、それがなんだったかは思い出せない」。その感覚が一番近い。何かが引っかかっていて、補強する何かもあったのだ。思い出さなくてはいけない。違和感が警鐘を鳴らしている――。
洞窟から離れてしばらく経った。ルートは中盤を越え、距離的にはそろそろ沼の位置に近い。沼は島の中央付近にあるので、もちろんここからでは見ることも、あのこもった臭いを嗅ぐこともできない。しかし、そこにはまだメイナードがいるはずだ。淋しく骸を晒して、虫にたかられて。
ジェシカは立ち止まった。そして、違和感の正体に気づいた。
「ねえ――ちょっと」ジェシカは言った。前のふたりは振り返る。
「お守りを落としちゃったみたい」
「お守り?」ジムは訝しげに言う。「なんだいそれ」
「ずっとポケットに入れてたのよ。小さなペンダントトップで、父親の形見なの」
「いつ落としたの?」とイヴェット。
「洞窟を出発したころにはまだ持ってたから、この辺で落としたと思うのよね。ちょっと不安になってポケットから出し入れしてたから……そのときにしまい損ねたんだと思うの。少し戻ってくるから、ここで待ってて」
「一緒に行くわ」
ジェシカは首を振った。「すぐそこまで行って、なければ戻ってくるから。私にしかわからないものだし、ふたりを付き合わせるわけにはいかないわ。仮にベンが襲ってきても、私のほうが身軽なはずよ。逃げるだけなら充分できる。鉈もあるしね。ふたりはここにいて。ジム、イヴェットをよろしくね」
突如話を振られたジムは目を白黒させて「え? ああ」と言った。ジェシカはすかさず走り出す。同意を得る気ははなからなかった。しかしああ言っておけば、イヴェットが仮に彼女を追おうとしてもジムが止めるだろう――おそらく。
あとは、いかにはやく戻ってこれるかだ。そして――ジムがいかに鈍感でいてくれるか。
お守りの話は全部嘘だ。しかしジェシカは最後尾だったから、彼女がポケットを探っていたかどうかなど誰も知らない。ジェシカは始めこそ何かを探すそぶりを見せながら進んだが、彼らの姿が見えなくなると背を低くして走り始めた。目当てはもちろん洞窟だ。
あのとき――ふたりの元へ戻ってきたジムからほんの一瞬、妙な臭いがした。すぐに森の香りにかき消されたその臭いに、彼女は覚えがあった。
思えば、洞窟の分け方。ジムは自然と自分が多く負担するようにしていて、ジェシカはそれに違和感を抱かなかった。だが、イヴェットはほとんど自分の意志がない。彼女を最奥の担当にすることは難しくないはずだ。そうして残りをふたりで分けると、ジェシカがなんと言おうと、三番目の洞窟はジムが担当することになる。
それに――あの笑顔。ジムがまともに笑ったのを見たのはあれが初めてだった。
五分もしないで洞窟まで戻ってこれた。なかなかのタイムだ。あとは三番目の洞窟を確認して、また戻る。彼らが探しに来ていて道中で鉢合わせるかもしれないが、適当に言い訳しておけばいい。大事なのはここに何があるのかだ。
洞窟に頭を突っ込むとむっとする臭いがした。鼻が曲がりそうだ。虫がいるのか、たくさんの羽音が聞こえる。ジェシカが見た洞窟とは違い、三番目の洞窟の中には高さ一メートルほどの岩が突き出ていて、よりせまく見えた。そして、岩の前で何かが動いていた。
ジェシカは近づいて目を凝らす。その服装に覚えがあった。レジャーにそぐわないひらひらとしたブラウスとスカート。ペネロピだ。
「んーっ! んーっ!」
彼女は猿ぐつわをされていた。声に興奮はあるが酷く弱々しい。後ろ手に縛られているようで、足も拘束されている。ペネロピはジェシカを見てひっくり返った芋虫のように身悶えた。
「シーッ! 静かに」ジェシカは慌てた。騒がれるとまずい。「まず落ち着いて、お願い」
ペネロピの目元は光っていた。声は耳に届いたようでこくこくと頷く。
「ジェシカよ。わかる?」
頷き。
「ジムがやったの?」
頷き。首振り。
「サディアスも?」
頷き。しかしすぐ弱々しいものへと変わる。
ペネロピは猿ぐつわを外してほしそうなそぶりを見せた。ジェシカは持っていた鉈を少し離れたところに置き、ペネロピの体を検分する。後ろ手に縛られながらも彼女はライトを持っていた。取ろうとすると体を硬直させ、また身をよじって抵抗する。しかし手足が自由なほうが強いのは当然で、ジェシカはペネロピの手からライトをもぎ取った。
「ごめんなさいね、すぐ返すから。あなたの拘束を解くのに明かりが必要なの」
そう言うとペネロピは動かなくなったが、目はジェシカを恨めしげに睨んでいた。ジェシカはライトをつけて彼女の顔へと向ける。ペネロピは目をきつく閉じ、苦しそうに顔を背けた。
そうしてペネロピを照らすと服が汚れているのがわかった。ブラウスはなぜか袖が片方なく、全体が泥と血らしきもので濡れている。スカートの裾は特に赤黒く染まっていた。
「どこか怪我をしたの?」
ペネロピはそれには応えず、光から逃げるように身を縮めた。彼女は這ってどこかへ行こうとする――自分が今まで凭れていた岩の裏に。
ジェシカは身を乗り出すとライトで岩陰を照らした。耳障りだった羽音の原因が、突然の光に驚いてぱっと散った。たかられていたものが露わになる。
ベンの死体だった。それは十分に腐り、膨れ上がっていた。
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