二日目・5

 死体の元へは三十分もかからず着いた。一度通った道ははやく歩ける。メイナードは変わらずそこにいた。あのときは気がつかなかったが、死体はずいぶんと虫にたかられている。腔内の眼球の横から大きな蝿が這い出てきた。

 ジムはあまりこだわっていないのか、ためらわず死体に近づいた。蝿に体を叩かれながらも腐ったそれを観察する。細いペンライトまで出してきたのでジェシカは些か驚いた。いやに本格的だ。一方のサディアスは死体には興味がないらしく、弟のそばで周囲の警戒に専念していた。

 ついてきたはいいものの、ジェシカには蝿の群れに頭を突っ込む勇気はさすがになかった。遠くから死体を眺める。抉られた目、割かれた口。右半身は血塗れ。服装は昨日と同じ。きちんと整えられていた金髪は乱れに乱れ、顔も変形しているので、服がなければすぐメイナードとは気づけない。眼鏡は見あたらなかった。どこかで落としたのだろうか。

 近くの地面を探していると、同じく地面に目を落としているイヴェットに気がついた。ジェシカは彼女の隣に立つ。

「捜し物はあった?」

 イヴェットは首を振った。「もしかしたら、気のせいだったかも」

「何かは思い出せる?」

「ごめんなさい……なんであんなものが落ちてるんだろう、って感覚は覚えてるんだけど具体的には……」

 あやふやな話だった。ふたりはしばらく周囲を探したが、妙なものは見つからなかった。メイナードの眼鏡は発見した。それは死体から少し離れた草むらの中に落ちていた。

「殺されたときに飛んだのかしら」

 ジェシカの呟きにイヴェットは泣きそうな顔をした。

「なんだろう、これ」

 ジムの声がし、全員の意識がそちらに向いた。遠巻きに彼の回りに集まる。メイナードの死体と木の間からジムは赤い布を引っ張りだした。蝿が何匹も止まっては飛び立った。

「何それ? ハンカチ?」

 いい加減蝿にうんざりしたのかジムも死体から遠ざかる。まとわりつく羽音を払うように腕を振ると、皆に見えるように持っていた布を広げた。

 それはスカーフだった。大きな赤い無地のスカーフだ。といっても、糸の織り加減が柄になっているようにも見える。太めの糸は光沢があり、触ればしっかりとした手応えがある。ジェシカはその生地に覚えがあった。

「これ、タッサーシルクね」

「なんだそりゃ」

「生地の種類よ。インド製のシルクなの。前働いてたジムで、こんな感じの大きなストールを持ってた人がいたわ。すごいお金持ちのおばさまで、外国から仕入れた――いわゆる本場のものをたくさん持ってたの」

「金はあるところにはあるもんだな」

「ほんとね」

 ジェシカとサディアスが笑いあう横で、イヴェットはますます泣きそうな顔をした。

「インド製のシルク……?」

「どうしたの、イヴェット」

 イヴェットは下唇をぎゅっと噛み、何かに耐えているようだった。ジェシカとジムは狼狽える。サディアスは何も言わなかったが、明らかにうんざりした様子だった。

「わからない……わからないけど……」

「気づいたことがあるなら言え。こっちは命がかかってんだぞ」

 イヴェットは身をすくめた。ジェシカが支えると、彼女はうつむき加減のまま話しだした。

「昨日……ゲイリーが……R国の連続殺人犯がこっちに流れてきてるかもって話を……」

「なに言ってんだあいつは」サディアスは呆れを隠さない声で空を仰いだ。

「R国の殺人犯って?」ジムが尋ねる。

「若い女性だけを狙って……首を絞めて殺すの」それからイヴェットは彼の持つスカーフを見た。「死体に、インドのシルクでできた……赤いスカーフを残すんですって」

 全員がスカーフを見た。動くのは蝿だけになった。羽音と梢の音が不協和音を奏で、空気を濁らせた。

「ちょっと待て」サディアスがメイナードを指して言った。「じゃあこいつはそのR国のやつに殺されたって言うのか?」

「若い女性を狙った絞殺でしょう。彼は何もかも違うわ」とジェシカ。

「ちなみにだけど、彼は首をひと突きされて死んでるよ」ジムは言った。「絞殺されたような跡はない」

「そもそもだ」とサディアス。「R国の殺人犯だかなんだか知らんが、そいつが関わってるならベンとは明らかに違うだろう。こいつを殺したのは本当にベンなのか?」

「そのことなんだけど」ジムが言う。「メイナードの傷を見たんだ。首以外に右手の甲にも傷があるんだけど、どちらも細いナイフのようなものでできた傷だ。目もおそらく同じものでくり抜かれているね。どちらの傷もなんというか……すごく綺麗なんだ。特に首のほうはすごいよ。一発で頸動脈を捕えてる」

「綺麗な傷っていうのは、どういうこと?」ジェシカが尋ねる。

「ためらった様子がないってこと。彼女は――ナイフを持って、それを躊躇なく人間の急所に突き刺せる人間ってことさ」

「殺人の経験があるってことか」サディアスが言った。

「場合によってはね」ジムが頷いた。

「ちょっと待って」ジェシカがふたりを制する。「彼女?」

「メイナードの傷は――こう」ジムは左の人差し指を右斜め上に向ける。「下から上に入ってきてる。彼が最初からこんな風に座っていたなら別だけど、それなら手の傷はできないんじゃないかな。つまり、手の傷はメイナードが抵抗した跡で、彼はもっと体の自由があった――彼らは立っていたんじゃないだろうか? 彼は背の高いほうだ。彼より明らかに背が低い相手じゃなきゃこんな傷にはならない」

「なるほどな」サディアスは満足そうに言った。「それで女か」

「それと、彼女は左利きだね」ジムは得意げに続ける。「傷は彼の右首筋にある。手の傷からも彼が犯人に対峙していたのは明らかだ」

 そこまで言ってジムは時計を見た。

「それで」ジェシカは言った。ここははっきりとさせておかなければいけない。

「あなたの利き手はどっちなの?」

 ジムはジェシカを見あげた。いや、彼は本来彼女よりも少し背が高いはずだ。だがいつも猫背なので、下から見あげるような格好になる。

 彼の時計は右腕に巻かれている。彼は左利きだ。

「ジムを疑ってんのか?」サディアスが威嚇する。「俺の弟を?」

 そう言うサディアスは右利きだ。先ほどからずっと右手で鉈を持っている。

「疑ってはいないわ。だけど、情報は正確に伝えなきゃ。メイナードを殺したのは、左利きで彼より背が低い人間。こっちのほうがよっぽど正確よ」

「まあ、そうだね」ジムが嘆息した。「あくまで僕視点での話だ。忘れてたよ」

 サディアスは舌打ちした。ジェシカは言う。

「でも、これでベンは犯人じゃない可能性が出てきた。ひとまず戻りましょう。ふたりにも伝えないと」

 四人は歩き出した。ジムはスカーフを持って行くようだ。彼らの間に会話はなかった。

 おかしいことが多すぎる。ジェシカは考えていた。R国の殺人犯とベン。これらふたりが同一人物ということはまずあり得ない。ベンは島からほとんど出ないそうだ。……だがそれが嘘だったら? 戻ったらナンシーに確認するべきかもしれない。この島からは船がないと出られない。だから島から出ていれば、コーレルの人々が把握しているはず。合わせてゲイリーにもR国の殺人犯の話を確認しておくべきだろう。

 ゲイリー。ベンが犯人でないなら、彼が一番怪しい。サマンサが殺されたとき、彼とベン以外の六人は互いのアリバイを証明できるからだ。だが彼はメイナードとそう変わらない背丈で、右利きだった気がする。何より彼がR国の殺人犯なら、そんな話を自らするだろうか。赤いシルクスカーフの話をしたときの彼の反応も観察しなければならないだろう。

 イヴェット。彼女の捜し物は結局見つからなかった。どうも彼女からはちぐはぐな感じがする。怯えているのは確かなのだが、ときおり――例えば今のように、死体を見についてくるなど、想像できない行動に出ることがある。殺人者がいると知って泣きそうになるかと思えば、死体を見ても心ここにあらずといった態度を取ることもあり、一番何を考えているのかわからないかもしれない。

 わからないといえば、ペネロピがあそこまでベン犯人説に反対する理由もわからない。彼女はゲイリーを犯人と決め打っているようだ。その根拠が知りたい。

 ジムはメイナード殺しの犯人の条件には当てはまるが、サマンサ殺しは絶対に無理だ。サディアスはどちらの条件にもはずれている。だから疑ってはいないのだが、あの兄弟には別に隠し事がある気がする。

 そこまで考えて前方に目をやると、ふたりは何やら小声で話し込んでいた。いつのまにか距離が離れており、内容までは聞こえない。静かに近づくと「諦めるべきだよ」とジムが強い口調で言うのが聞こえた。

「何を諦めるの?」

 ジェシカが声をかけると、ふたりは能面のような顔で振り向いた。ジェシカは思わず硬直する。似てない兄弟だと思っていたが、今この一瞬の不気味な表情はあまりにもそっくりだった。

「何を――諦めるの?」もう一度聞く。自分の声が震えているのがわかった。

 先に表情が変わったのはジムだった。自信なげな、どこか媚を売るような顔に戻る。「いや……僕ら……その」

「女あさりにきてたんだよ」サディアスが言った。「つまりさ。いろんな場所で、女引っかけて遊んでたわけ。今回もそういう目的だったんだが――もういい加減諦めなきゃな、って話をしてたんだ。それどころじゃないからな」

 ジェシカは安堵と不安とある種の不快さがない交ぜになった感情を覚えた。その不快さはサディアスから女を思う通りにできるという傲慢さを感じることからきていた。逆にジムのほうは羞恥を全面に出していて消え入りそうなほどだった。「僕は全然……」と小さく呟くのが聞こえた。

「まあ、俺らのことはいいとして」サディアスは続ける。「ジムはああ言ってたが、俺はベンが犯人なんじゃないかってまだ思ってるぜ。むしろさっきの話をふまえれば、余計にベンが犯人に思えてくる」

「どうして?」

「そもそも殺人鬼だかなんだか知らんが、ひとつの島にそう何人も人殺しがいてたまるかって話だ。インドシルクはメイナードの私物で、たまたま持ってただけじゃないのか。あのシャツに赤いスカーフは似合うだろう」

 ジェシカはピンクのポロシャツに赤いスカーフを巻くメイナードを想像してみた。うまくイメージがまとまらず、死体の赤黒い首元を思い出す。あんな感じだとしたら、おそらく似合わない。それ以前にあのスカーフは彼の印象から逸脱しすぎている。

「それに、メイナードは若い女でもないし、絞殺されたわけでもない。結局そこが解決してないだろう。そう考えるとあれはメイナードの私物だって説が俺の中では非常に濃厚なわけだ」

「首の傷のことは?」

「メイナードより背の低いやつは確かにああいう傷のつけ方しかできないだろう。だが、メイナードと同じくらいかそれより背の高いやつが、ああいう傷のつけ方をできないわけじゃない。左利きってのは重要かもしれないが、背の高さ低さはそんなに重要じゃないと思うぜ。あいつらが立っていたってのも根拠に乏しいことだからな」

「ベンが左利きだったってこと?」

「それはわからん。だがそうだと思うぜ。確かなのは、メイナードを殺したやつは左手で頸動脈を一発で傷つけたってことだけだ。そのうえ今この島では、明らかに人を殺したことのあるやつがいまだに行方不明だ。犯人だろう、どう考えても」

 ジムは黙っていたが、やがて頷いた。「うん、僕も……サディアスの話を聞いていたら、そう思えてきた。メイナードの死の直前の様子は完全に想像だから……根拠が乏しいと言われてしまえばそれまでだ。それに、僕の提示した条件だと、少なくともこの島にふたりは人を殺したことのある人間がいることになってしまう。その確率はとても低いよ。殺人で追われる人間が、こんな辺境のツアーに参加するとも思えない」

 兄弟はそれで納得しているようだった。確かに筋は通っている――しかしジェシカは同意できなかった。結局のところは情報の取捨選択だ。どれを重視してどれに目をつぶるか。しかし彼女には目をつぶっていい情報があるとは思えなかった。すべてが重要であり、またすべてが些細なことのようだ。喉の奥に痰が絡むような引っかかりがある。

「イヴェットはどう思う?」

 ジェシカは肩越しに振り向いた。イヴェットは返事をしなかった。ぼうっと宙を眺めている。

「イヴェット」

 二度目の声かけにようやくイヴェットはジェシカを見た。「ど、どうしたの?」

「……聞いてた?」

「ご、ごめんなさい。ぼうっとしてて……」

「疲れてるんだよ。大丈夫」

 ジムが声をかけた。ジェシカは先ほどの話を思い出す。サディアスの狙っていた人間はわからないが、ジムは明らかにイヴェットだろう。言葉の端々から好意がだだ漏れている。彼女がまるで気づいていなさそうなのは可哀相と言うほかない。

「お腹も減ったわね」ジェシカは軽く腹を撫でた。

「帰ったらメシにしようぜ」サディアスが言った。「警戒も怠るなよ」

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