二日目・1(2)
「本当に行くの?」ペネロピはこわごわと言った。「私たち、この島のことをろくに知らないのに?」
「何かあって、助けを必要としているのかもしれないわ。彼らを放っておくつもり?」
「でも、現実的に考えて――」ジムが言った。「ベンがそんな状態に陥るとは、僕には考えられないけど」
「怪我をして動けないのかもしれないわ。なんにせよ、メイナードもいないのよ」
ジェシカはナンシーに視線を投げた。「この島、危険な場所はないのよね?」
「森で迷う人が一番多いわ。といっても海はすぐ見つかるはずだから、時間をかければ浜まで戻ってこれると思う。他には……沼がある。一応柵はありますが……落ちれば……溺れるかも」ナンシーは言葉を選ぶようにして言った。
「危ないじゃない」サマンサは意外そうな顔をした。「それでよく危険がないなんて言えたわね」
「森を散策する人にはいろいろと注意があったんです!」ナンシーは叫んだ。「コンパスも渡しましたし、沼には不用意に近づかないようにと念も押しました! 夜になったら森に入ってはいけない! 夜になってもバンガローまで戻ってこれない、バンガローの火が見えない、そうなったらベンが探しに行くので、その場からは決して動かない!」
サマンサは横目でゲイリーを見た。彼はイヴェットを見やったが、彼女はゲイリーと目が合った瞬間気まずそうに俯いた。ゲイリーは口を開きかけて、やめた。
「とにかく、日の出ているうちはまだしも、夜の森は危ないんです。島を熟知しているならともかく……」
「その熟知しているベンもいないとなると、さぞかし心配だろう」代わりにゲイリーはそう言った。ナンシーは小さく頷いた。
「探すなら明るいうちってわけか」サディアスが言った。「すぐ見つかるならいいがよ」
「ミイラ取りがミイラになっても困る」ゲイリーは言った。「二組に別れよう」
「誰かは……ここに残ったほうがいいと思うわ」ペネロピが言う。「戻ってくるかもしれないし」
「私が残ります」ナンシーが手を上げた。
ジムが首を振る。「きみは探索に加わるべきだ。島に詳しい人間がひとりでもいたほうがいい」
「俺が残る」ゲイリーは言った。「ナンシー。きみは今、ひとりでいないほうがいい」
ナンシーは何か言いかけたが、やがて諦めたように頷いた。「ありがとう」彼女は小さく言った。
「なら、私も残るわ」
サマンサが笑顔でゲイリーの横に立った。「ふたり残って、三人組がふたつ。ちょうどいいわよね」
「サマンサ」
「格好を見たらわかると思うけど、行く気ないのよ。それに頭痛がするの。病人には優しくしてくれる?」
サマンサは大きく胸の開いた赤いワンピースを着ていた。森の中を歩く恰好でないのは明白だった。
大きな反対意見がなかったので、そのまま三組に分かれることとなった。同じく森の中に行く気だとは思えない――長袖のブラウスにロングスカートのペネロピが待機組に回ってくれないかとゲイリーは打診したが、彼女は探索に意欲的で彼の申し出を断った。ゲイリーも多少粘ったが、ペネロピの様子があまりにかたくなだったので結局引き下がった。
ジム、ジェシカ、イヴェットが島を左回りに、ナンシー、ペネロピ、サディアスが右回りに探索し、反対側で一度合流することで彼らの話はまとまった。サディアスは弟と別グループなことに不満げだったが、男手は別れてあったほうがいいという他ならぬジムの意見で納得した。ナンシーも親しくしていたジェシカと別れたことで心細げだった。
「ナンシー、あなたしっかりしないといけないわ」ペネロピが言った。「ベンがいなくて、頼りになるのはあなただけなのよ」
そうして二組は出発した。彼らの足音が遠ざかり、後にはゲイリーとサマンサが残った。
「せいせいしたわ」伸びをしながらサマンサは言った。「これでゆっくりできる」
「薄情だな」
「あなたもそうだと思ったけど?」
ゲイリーは何も言わなかった。サマンサとまともに会話をする気はなかった。彼女を見ていると苛々した。太陽の下だとなおさらだ。
「私たち似てると思うの」サマンサは意味ありげに微笑んだ。「そう思わない?」
「思わないね」
ゲイリーは地面に腰を下ろした。本当はバンガローに戻りたかったが、それだと残っている意味がない。サマンサはゲイリーの隣に腰を下ろした。濃い薔薇のにおいと化粧品の粉っぽさで息がしにくい。真っ赤に塗られた唇は媚を売るように潤んでいる。
サマンサはゲイリーにしなだれかかった。手の甲に触れると指を這わす。
「あなた綺麗だし、とっても素敵。今まで寝た男の中で一番よ」
「俺と寝る予定のような言い回しはやめろよ、不愉快だ」
ゲイリーはサマンサの腕を払った。彼女は唇をとがらす。
「私はいいのに。ここで――はちょっとまずいけど、コーレルに戻ったら、どう?」
「結構だ。自慢じゃないが女には困らない」
昨日からずっとこの調子だった。ゲイリーのことを聞きたがり、合間合間に誘ってくる。激しいスキンシップとねっとりした視線――彼は女が嫌いだった。特にサマンサのような女は。
「でしょうね」サマンサは言った。誘う回数こそ多いが、彼女は常に一歩引く。そこがまた腹立たしかった。
「でも私、うまいわよ」
ゲイリーは無視した。彼は同行者になんの興味もなかった――その点サマンサの指摘は当たっていた。しかし彼は純粋に自然を楽しむつもりでここに来た。その目的を達成するために、ある程度は協力する意志がある。波風を立てるようなこともなるべくならばしたくはない。
一方で、ゲイリーは忍耐という言葉も知らなかった。譲るのはいつも彼以外の人間で、それでうまく帳尻があっていた。世の中はそういうものだという認識が彼にはあった。
サマンサは立ち上がり、ゲイリーの正面に座った。彼の顔を覗き込む。
「ねえ、退屈じゃない?」
「きみと一緒にいることを言ってるなら、退屈だな。確かに」
サマンサはおかしそうに笑った。彼女はゲイリーの言葉を意に介さない。どんなに傷つけようと言葉を選んでも、何ごともないかのようにふるまうのだ。それも彼が気にくわないことのひとつだった。
「世の中のことを言ってるの。退屈じゃない? 刺激がほしいと思わない?」
「毎日充分刺激的だよ」
「うそ。退屈だって顔に書いてある」
サマンサは決めつける。それがなおもって彼を不快にする。
ゲイリーは嘘をついていない。だが、サマンサの言葉も正しかった。彼は刺激になれきっていて、退屈していた。
「退屈してたらなんだっていうんだ。おもしろい話でも聞かせてくれるのか? きみと寝る気はないぞ。退屈のほうがまだ有意義だ」
「あなたってホント素敵。クラクラしちゃう」
「頭痛のせいだろう」
ぬるい風が吹いて、サマンサの人工的な香りをさらっていった。梢が鳴る。ふたりの間に草と潮の混ざったにおいが満ち、ゲイリーはなぜか故郷を思い出した。彼の故郷には海も森もない。ガラクタまみれの工場町だ。それでも今、彼には――幼少期に戻ったような錯覚があった。
「ナイショね」
サマンサは言った。今までの妖艶さはなりを潜めた、少女のような顔だった。
「私、人を殺したことがあるの」
時間が止まり――そして戻ってきた。サマンサの突飛な告白にゲイリーは――彼にしてはめずらしいことだが――ほんの一瞬言葉を失った。だがすぐに彼自身が昨夜したことを思い出す。
「嘘つけ」ゲイリーはせせら笑った。一瞬でも信じてしまった自分がばかばかしかった。
「本当よ」サマンサは娼婦の顔に戻っていた。「できないと思う? 結構簡単なのよ」
「色気で吊るとしたら簡単かもな。あのホテル殺人だってどうせ――」
男をその気にさせて連れ込んだんだろう。そう続けるつもりでゲイリーはサマンサを見やる。だが彼女の顔を見て口を閉ざした。
「“モーテル・キラー”?」
サマンサは今までと変わらず笑っていた。ゲイリーは人の表情を読むのに長けているという自負があった。彼女の唇の端には含むものがあった。
「冗談だろう」代わりにゲイリーはそう言った。
サマンサは大きくため息をつきながらうつむくと、諦めたように笑った。「ええ」
「さすがに驚いたよ――でも残念だな。昨日俺もイヴェットに似たようなことをしたんだ。最近起きてる殺人事件の話をして怖がらせた」
イヴェットの名前が出るとサマンサの顔に不愉快そうな色が浮かんだ。彼女は隠すことなく皮肉に笑う。
「やっぱり私たち似てるじゃない。イヴェットもかわいそうにね、いじめられて」
ゲイリーは昨夜イヴェットに言ったことを思いだしていた。俺たちの中に紛れて……逃げて……。
そこまで考えて彼は肩をすくめた。そんな偶然があるわけない。
サマンサはゲイリーの腕に手を置いた。
「こうでも言わないとあなたの関心が引けないと思ったの……本気なのよ、私」
彼女の指は真っ白だった。なまめかしくうねりながら、ゲイリーの肌を撫でる。
「私、たぶんあなたの想像通りの人間よ。きっともっと酷い。でも――」
サマンサは彼の頬に触れた。伸びた爪は血だまりのような色をしている。
「綺麗なものが好きなの。あなたみたいな人に一度だけでも愛してもらえたら、私――ものすごく幸せだろうって、そう思うわ」
ゲイリーは何も言わなかった。サマンサは彼の下唇を軽く引っ掻く。
「メリットがないって言いたいんでしょう。その通りね。どうしたらいい? お金?」
ゲイリーは金には困ってはいなかったが、金はあればあるだけいいと思っていた。だからサマンサの言葉には気持ちが動いた――が、ほんの僅かだけだった。サマンサのような女と金のために寝るというのは彼自身の否定に等しかった。
ゲイリーはサマンサの言葉をもはや疑っていなかった。彼女は本当に彼と寝たいのだろう。ゲイリーの指先は冷たく硬くなっていた。彼女のような女と相対するとき、彼の体は大抵そうなった。
「人を殺したなんて戯れ言まで述べてあなたのことをほしがる人間が、ベッドの上でどんなふうに悶えるのか見たくはない?」
サマンサの手が太ももに伸びた。足の付け根から内側へ指先が這っていく。
「あなたが殺してくれてもいいのよ……あなたのこれで串刺しにして……めちゃくちゃにして……私を殺して」
彼女の顔が近づいてくるのをゲイリーは他人事のように見ていた。彼女の、爪と同じく血だまりの色をした厚い唇が、彼の口に押しつけられた。肉の割れ目から別の肉が出てくる。彼の顔面の切れ目をこじ開け、体の中に入ってくる――。
ゲイリーはサマンサを押しのけた。血が冷たくなって心臓に溜まっている。
自分がどんな表情をしているのかゲイリーにはわからなかった。サマンサは彼の顔を見て含み笑う。ゲイリーは自分の頬に触れた。彼は笑みを浮かべていた。
「ここじゃだめって言ったの、訂正するわ。しましょ、今……みんなしばらく帰ってこないわ」
「結構だ」
「強がっちゃって。あなたは来る。私のここも――もうびしょ濡れ。あなたが欲しくてぱくぱくしてる」
サマンサは立ち上がった。森の方へ歩を進め、ゲイリーの方を一瞥すると木々の隙間へ消えた。
ゲイリーはしばらく宙を見ていた。彼は我慢を知らなかったが、愚かでもなかった。気持ちが静まって血液の温度が戻ってくるのを彼はじっと待った。そのうち指先の熱が戻り、ゲイリーは手の甲で唇を拭った。彼の左手に血の色が移った。
サマンサは戻ってこなかった。
「サマンサ」
ゲイリーはすぐそこにいるであろうサマンサに呼びかけた。森へ入るつもりはなかった。彼女の思う通りになるのが癪だったからだ。
返事はなかった。
「サマンサ。ふざけるのもいい加減にしろ」
サマンサは応えなかった。葉擦れの音も聞こえない。森は静まりかえっていた。頭上で小さく葉が鳴るのだけが遠くに聞こえた。
ゲイリーは舌打ちした。あの女は今の状況を忘れてやがる――。
「サマンサ!」
理由は知らないが、既にふたりの姿が見えないのだ。あいつらも大概だが――ここでサマンサを放っておくわけにもいかない。
「いるんだろう! 戻ってこい!」
ゲイリーは立ち上がった。ズボンの砂を払いながら再度舌打ちをする。
――どうして俺がこんなことをしないといけないんだ? ただバカンスに来ただけなのに?
ゲイリーは苛立っていた。いろいろなことが積み重なって、心がささくれ立っている。
特に不愉快なのはサマンサだ。あの女は俺を好きに動かせると思ってる――。
「サマンサ! 出てこい!」
ゲイリーは彼女を追って森へ向かい、後には誰もいなくなった。
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