二日目・1(1)
ゲイリーは昨晩バンガローに入ったとき、メイナードがいないことにはさほど驚かなかった。あの男のことだ、フェミニズムを発揮し率先して片づけを手伝っているのかもしれないし、誰かをたらしこんでよろしくやっているのかもしれない。あるいはサディアスたちと意気投合して、彼らのバンガローにでも行っているのかもしれない。色々なことが考えられ、そのどれもがゲイリーには関係のないことだった。バンガローには内鍵しかないため、鍵をかけられないことだけが不満だったが、彼は迷わずベッドに入って朝までぐっすりと寝た。
だから彼は目覚めて初めてメイナードがいないことに驚いた。何をしていたとしても朝までには戻っているだろうと思っていたのだ。ゲイリーは起き上がって彼のベッドに近づいた。ベッドシーツには腰かけたときについたのだろう皺が寄っていたが、いつのものかはわからなかった。シーツはとても冷たかった。
そうしていると、どこかのバンガローの扉が開く音がした。先を争うように出てきた彼らは口々に「イヴェット!」「イヴェット!」と覚えのある女の名を呼んだ。ゲイリーはバンガローの扉を開ける。広場には狼狽えた様子のふたりの女がいて、現れた彼にすがるような目を向けた。ジェシカとナンシーだった。
「どうしたんだ?」ゲイリーは尋ねた。「イヴェットに何かあったのか」
ジェシカは言った。「イヴェットがいないの。戻ってないのよ」
「昨日、きちんとここで別れたぞ。自分のバンガローに戻るのも見た」
ナンシーは体を強張らせ、泣きそうな声で言った。「私のせいだわ。私が彼女のベッドで寝たりなんかしたから。ガイド失格よ」
ゲイリーは言った。「焦るにははやい。どこかのバンガローにいるのかもしれないじゃないか」
ナンシーは祈るようなポーズで呟いた。「そうよね。……そうよね」彼女の体は震えていた。
メイナードもいないことはまだ伏せておくべきだと彼は思った。ナンシーには同時にふたつの問題を扱えるほどのキャパシティはなさそうだった。それに、おおごとにすべきことなのかもわからない。イヴェットと同じく、昨夜自分のバンガローに戻らなかったというだけなのだ。
「俺はサディアスたちを起こしてくる。ジェシカ、きみはサマンサとペネロピを。ナンシーはベンのところへ行ってみてくれ」
ジェシカは頷いた。ナンシーは始めこそひとりで行くのを心細そうにしていたが、やがて自分の役割を思い出したのか、覚束ない足取りで小屋へと駆けていった。
ゲイリーは《1》のバンガローへ行くと扉を叩いた。「サディアス! ジム! ふたりだけか?」
少しして勢いよくドアが開いた。入口を覆うようにしてサディアスの巨体がある。彼は突然の来訪者に不愉快さを隠そうともしなかった。
「うるせぇヤツだな。見たらわかるだろう? 俺らしかいねえよ」
サディアスの体のせいでゲイリーに室内は見えなかった。「やめなよ、サディアス」奥からジムの声がした。サディアスが体を退かし、シャツを羽織ったジムが顔をのぞかせた。「何かあったのかい?」
「イヴェットが昨夜バンガローに戻っていないらしい。……メイナードも」
「しけこんでんだろ」サディアスは欠伸をした。「くだらないことで起こすんじゃねえよ」
「普通に考えたら、ばれないよう夜のうちに戻ってくるだろう。あと二日、「私たちは会ったその日にヤりました」って顔をして俺たちの中で過ごすのか?」
サディアスはにやついた。「それもそうだな」
広場にはジェシカがペネロピとサマンサを連れ出していた。ペネロピは見るからに困惑していたが、サマンサは朝に弱いのか不機嫌で、誰がいなかろうがどうでもいいといった顔をしていた。
「女連中には、メイナードがいないことはまだ言ってない。そのうち出てくるかもしれないからな」
「出てこないみたいだけどね」ジムは言った。ジェシカのよく通る声は彼らにも聞こえすぎるほど聞こえていたが、メイナードの現れる様子はなかった。
「おい」サディアスが言った。「イヴェットだ」
浜の方から、ナンシーがイヴェットを連れて戻ってきた。ジェシカは安堵の表情を浮かべふたりに駆け寄った。
「イヴェット! どこにいたの!」
イヴェットはおずおずとナンシーを見た。ナンシーの顔は彼らと別れたときより青ざめていた。ゲイリーと兄弟は広場へ下り、一同の中に加わった。
「どこにいたんだ」
「ベンの……小屋にいたの。ナンシーがテントか彼の小屋で寝るって言ってたから、彼女の寝床を代わりに使わせてもらおうと思って……」
「よかったじゃないか」ゲイリーは言いながら周囲を見渡した。メイナードはいまだ姿を見せなかった。
「よくないのよ」ナンシーは言った。「その……イヴェットはベンの小屋の中で……ドアに凭れて寝ていて……」
「さぞ寝にくかったでしょうね」ジェシカは言った。男たちは苦笑したが、ナンシーとイヴェットの表情は固いままだった。
「ベンがいないの」ナンシーは小さく言った。
彼らは顔を見合わせた。「島のどこかにいるでしょう」サマンサは頭を押さえ、吐き捨てるように言った。
ナンシーはくってかかった。「それはそうでしょうけど、今の時間……彼は水汲みか薪割りか、朝食の用意か……とにかく何か仕事をしているはずなんです。それが、今日に限ってひとつも終わってない。何かしようとしていた様子すらないの。小屋に戻っていないのよ。昨夜小屋は空だったってイヴェットは言うし、ベッドだって冷たかった。お客様が来てるのに……!」一息に言い終え、彼女は呟いた。「こんなことって……今までなかったわ」
ナンシーは明らかに動揺していた。イヴェットがいないときよりいくらか冷静さを装ってはいたが、抑えきれない心細さが体中から滲みでていた。
「探すなら手伝うわ」ジェシカが言った。「ベンがいなきゃ困るもの。男手が多いに越したことはないしね」
ナンシーは顔をあげるとぎこちない笑みを見せた。「え、ええ……ありがとう。そう……でも、まずは朝食を取りましょう。ベンが戻ってくるかもしれないし。それでも戻らなかったら、少し探してみます。皆さんは自由に過ごしていて下さい」
誰も何も言わなかった。その沈黙には違和感があり、彼らは原因を探して顔を見合わせた。「メイナードは?」ペネロピが言った。一同の視線が一斉にゲイリーに集まった。
ゲイリーは一瞬空を仰ぎ、それから諦めて言った。「そのうち出てくるだろうと思って黙ってたが、メイナードもいない。ベッドで寝た様子がないから、彼も昨夜から戻ってないらしい」
ナンシーは喉の奥が引き攣れたような声をあげた。ジェシカは慌てて彼女を支え、励ますように言う。「森の中で一晩過ごすくらい、どうってことないわよ。熊がうろついてるわけでもないんでしょう?」
ナンシーは激しく息を吸って何事かを言いかけたが、相手が客人だということを思い出し、己の衝動を振り払った。彼女は泣きそうな顔で俯いた。「ごめんなさい……取り乱してしまって」
ゲイリーは深く息を吐いた。場は混乱していた。昨日まで、客側からのフォローはメイナードがさりげなくおこなっていた。それがなくなり、パートナーのベンまで不在の今、彼らをまとめるにはナンシーは若すぎた。ただでさえ、客の行方不明というツアーにあるまじき事態なのだ。
「いい大人がふたりしてどこへ行ったのかは知らないが……放っておくわけにもいかないだろう。ナンシーの言う通り、まずは飯を食おう。ベンがいなくてもそれくらいはできるよな?」
ナンシーはこくこくと頷いた。支持者を得たことで、潤んだ彼女の瞳には幾分か力が戻った。
「食い終わるまでに戻ってきたらそれでよし。戻らなかったら探しに行く。島でできることなんて限られているし、一日ぐらい散策に使っても構わんだろう。もちろん強制するつもりはない。遊びたいやつは釣りでも海水浴でもしていればいいさ」
彼は本心からそう言ったが、不参加を言いだす人間はいなかった。「みんな協力するわよ」ジェシカが言った。
「どうしても見つからないようなら、無線を使って本土に連絡する。無線の操作はできるんだよな、ナンシー?」
「ええ」ナンシーは頷いた。「任せてください」
「無難だな」サディアスが言った。「バカンスが台無しだ」
「仕方ないわよ。おおごとにする前に解決したいでしょうし」サマンサはせせら笑った。ナンシーは一瞬険しい顔を彼女に向けたが、すぐ一同に向きなった。
「では、食材を運んできます。皆さんはここでお待ちください……」
彼らは広場の真ん中に残された。「手伝ってくるわ」ジェシカが言った。
「わ、私も行く」イヴェットが言い、ジェシカの後を追ってベンの小屋へと駆けていった。
誰かが溜息をついた。ゲイリーは再度周囲を見回した。森がささめいているように感じられる。ふたりの所在を知っていて、戸惑う一同を笑っているのだ。
「何してるんだか」ジムは呟いた。
ペネロピは薄く笑った。「心配?」
ジムは眉をひそめて、前髪の隙間からペネロピをじっと見た。「気にならないのかい?」
ペネロピの笑みは困惑を孕んだものへと変わる。「ふたりともいい大人よ」
「いい大人だからこそ、こんな状況で、誰にも何も言わずにいなくなるっていうのはおかしいと思うけどね……」
サマンサが舌打ちした。「そんなことより、誰かアスピリン持ってない? 頭痛がするのよ」
「持ってるよ」ジムは言った。「取ってこようか」
「ええ」
ジムはバンガローへと戻っていった。サディアスは小さく舌打ちする。「頭痛持ちなら、薬くらい自分で持ってこいよ」
サマンサはサディアスを睨んだ。「こんなの初めてよ」
「二日酔いでしょう」ペネロピが言った。「仕方ないわ」
サマンサは得心がいかないようだった。ジムが戻ってきて小瓶を彼女へと渡す。そのときナンシーたちが箱を持って戻ってきたので、彼らの意識はそちらへと向けられた。
一同は沈黙のうちに朝食を済ませた。ベーコンや卵を焼いてパンに挟んだ簡素なものだ。缶詰も幾つか開けられ、彼らの腹の中へと収まった。食事が終わると誰からともなく視線を交わす。ベンとメイナードは戻っていなかった。
「行きましょう」ジェシカが言った。「探しに行かなきゃだめだと思うわ」
誰しもが漠然と、ふたりは探しに行かなければもう戻ってこないだろうと感じていた。しかし口に出して同意する者はいなかった。ゲイリーもそうで、彼は他人事のように一連の出来事を見ていた。
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