一日目・2
夕陽が海に近づくころ、船は島影を捉えた。既に海は夜の装いとなっており、水面下には闇が淀んでいる。船は水面を切って進んだ。目指す島影はだんだんと大きくなり、木々が風に揺れるのが見えるまでになる。葉擦れの音も聞こえてくるようだ。
「あれがジャレ島です」
ナンシーは言った。今や彼女も操舵室から戻り、乗客たちと海を眺めていた。彼女はときおり彼らに声をかけ、場の空気を少しでも解そうと試みていた。
どうも今回はやりにくそうだった。普段このツアーに参加するのは若者の一団や幾つかの家族連れで、だいたいが知り合いだ。今回のように、まったく見ず知らずの人間が集まることはなかったといっていい。船の中は静かだった。彼女ひとりの力にも限界がある。今夜の食事で仲が深まってくれればいいのだが。
近づくにつれ浜が見えてきた。長い桟橋がひとつこちら側に突き出ている。先端には人が立っていた。
「あれは?」ゲイリーが尋ねた。ナンシーは目を細めて人影を見た。
「島の管理をしているベンです。無口な人ですが、頼りになりますよ」
船は静かに桟橋に横づけされた。ナンシーとベンが渡し板をかけ、乗客は船から降りていく。入れ替わりにベンが乗り込み、船が彼らと共に運んできた食料やろうそく、ガソリン、生活備品を下ろし始めた。
「今回は八人です」ナンシーは言った。「私とあなたをいれて十人」
「そうか」ベンは言った。「団体か」
「そうじゃないの。全部個人客。めずらしいわよね」
ベンは愛想笑いとは無縁の男だった。年は四十半ばといったあたりだ。大きくがっしりとした体つきで、サディアスにも引けをとらない。しかし瞳はとこか虚ろで、口元はいつも緩んでいた。
彼は六年ほど前にふらりと町にやってきた。陰気で不気味な男は町民から敬遠され、子供たちは彼に近づかないようにと再三念を押された。ジャレ島を観光地にしようという計画が立ち上がったとき、彼は真っ先に管理者に立候補した。町の人間は渋ったが、それまでの仕事ぶりは堅実だったことと、彼をジャレ島に追いやれるという二点からそれを了承した。
ベンの仕事ぶりは期待以上のものだった。というより、彼は島でのもめ事を極端に嫌った。一度、島で調子づいた若者による発砲事件が起こったとき、ベンは自らその男を縛りあげて町の警察まで引っ立てていった。そうした事例以外に彼が島から出ることはほとんどなく、終の住処と定めたかのように島を慈しみ暮らしていた。彼は島を愛する者には親切だった。ナンシーもガイドの仕事を始めたてのころはずいぶんと世話になった。かつて母親から決して近づくなと言われた男は、今や彼女の立派な仕事仲間だ。
「もしかしたら、テントを使う客がいるかもしれないの。そうなったらあなたの小屋にお邪魔してもいい?」
「ああ」ベンはビール瓶のケースを持ちあげた。「ベッドを空ける」
「ありがとう」言ってナンシーは船を離れた。荷下ろしはベンと船主の役目だ。ナンシーには別の仕事があった。乗客たちが桟橋を下りて待っていた。
「お待たせしました。バンガローに案内するわ」ナンシーは桟橋の根元に荷物を置くと、先に立って歩き出した。一同は後に続いた。
メイナードが森と浜の境にひっそり立つ古びた木の小屋を指した。「あれは?」
「ベンの小屋です。中は結構広いのよ。あとで紹介するけど、トイレやシャワー室はここの周りにあるわ」
傍らに立つ木の枝葉が屋根へとかかって、小屋は背後の森と同化して見えた。壁板の色は腐っているかのように濃い。壁面に沿ってドラム缶やバケツ、網などが無造作に置かれていた。小屋の扉は森や浜に対して垂直についており、一行は前を通り過ぎた。
「森に入るの?」サマンサが顔をしかめた。
「すぐそこよ。行きましょう」
事実、入ってすぐにバンガローの影が四つ見えた。バンガローは四角になるように配置されており、中央部分は木が狩られてちょっとした広場になっている。それぞれのバンガローの扉にはペンキで数字がふられていた。
辺りはすっかり暗くなっていた。夕陽のほとんどはとっくに海に溶けていて、島には残照が頼りなく落ちるだけだ。
一同はそれぞれバンガローに入っていく。テントを使うと言い出す人間はいなかった。
バンガローの番号は浜側のふたつが《1》と《2》、森側のふたつが《3》と《4》になっていて、サディアスとジムは《1》の小屋に、メイナードとゲイリーは《2》の小屋に入った。彼らは特に話し合わなかった。そうなるのが自然とわかっていたらしい。女性陣は広場で少しもたついた。そのうちジェシカが「私、イヴェットと使うわ」と言って、残りふたりも了承した。ジェシカとイヴェットは《4》に入り、サマンサとペネロピは《3》に入った。
「少ししたら浜へ来てください。夕食の準備があるので」
ナンシーは彼らの背に声を投げた。そうして広場を見渡した。あるのは中央に積まれている薪だけだ。日が落ちてからはこれを焚いて明かりにする。
やけに静かだ、とナンシーは思った。
いつもならバンガローから声が聞こえる。はしゃいだ子供たちがすぐに飛び出てきて、大人たちが遠くに行かないよう制し……あるいは若者たちが、互いの建物を行き来して部屋の具合を確かめたり、荷物のやり取りをしたりしているのに。
落ち着かない気分だった。見慣れた森までもが、異なる類の客人に様相を変えてしまったように思える。森は彼女を遠巻きに見つめ、隙あらば取り込もうとしていた。ナンシーは浜へと向かった。自然急ぎ足になった。
森を出るとエンジンの音がした。荷下ろしが終わったのだ。桟橋の先から黒い影がゆっくりと離れ、海へと消えていった。桟橋の上には沢山の荷物と共に立つベンの姿があった。彼はさっそく箱をひとつ抱え、浜へ向かって動き出した。
「ナンシー」
背後から声がかかり、ナンシーは身を竦めて振り返った。立っていたのはメイナードだった。後ろにはゲイリーもいる。おびえた様子の彼女にふたりは目を丸くした。
「ごめん、驚かせてしまったね。荷物を運ぶんだろう? 男手があったほうがいいと思って」
メイナードはそっと彼女を支えた。冷えた肩に人のぬくもりを感じ、ナンシーは妙な考えを起こしかけていたことを恥じた。彼らは客だ。いつもとまったく変わらない、ただの――。
「ありがとう。ベンも喜ぶわ」
ナンシーは笑顔を浮かべた。森は暗かったが、彼女の見知ったものに戻っていた。
「荷物を置いてすぐ来てくれたの? 親切ね」
メイナードは苦笑した。何か言おうとするのをゲイリーが遮る。「彼はフェミニストみたいだから、それもあるだろうけどね。俺たちの部屋はランプの電球が切れてる。バンガローの中はもう夜だ。外のほうがましさ」
「ゲイリー」メイナードが窘めた。「仕方ないだろう」
ナンシーは言った。「ごめんなさい。替えの電球はすぐに出せるわ。一度戻る?」
「いいや」メイナードは首を振った。「荷物は多いんだろう? 手伝うよ」
三人は桟橋でベンとすれ違った。ナンシーは声をかけた。「ベン。手伝うわ」
ベンはただ頷いた。「三日間よろしく」メイナードの言葉にも、首を振るかどうかしただけだった。
「無愛想だな」ゲイリーは言って、小さく笑った。「好感が持てる」
「きみは少し変わってるね」メイナードは言った。ナンシーもそれには同感だった。
三人はそれぞれ積み荷を運んだ。男たちは率先して重たいものを持った。メイナードは働き者で、ゲイリーも口では色々言いながらも、メイナードと同じに動いた。ベンの指示で、積み荷は一度彼の小屋のそばに置くことになった。備品の一部は小屋の中で保管しているのだ。メイナードは中まで運ぶことを提案したが、ベンはそれを拒否した。
積み荷を三分の二ほど移動させたころ、サディアスとジムがやってきた。ジムは荷運びをしているのを見ると駆け寄って、手伝いの列に加わった。サディアスも遅れて桟橋に着いた。
「女どもは何をしてるんだ?」
彼の言葉に、ちょうどすれ違ったゲイリーが答えた。「女の支度は長いのさ。例えあとは飯を食って寝るだけだとしても」
「難儀なもんだ」サディアスは肩をすくめた。彼らは馬が合いそうだった。
それから数分もせずにジェシカとイヴェットが出てきた。ふたりは働く一同を見て大層慌て、桟橋に荷物を取りに走った。ジェシカの細かくウェーブのかかった黒髪が風に靡き、桟橋にいたサディアスはそれに一瞬注意を向けた。
ベンの姿はいつの間にかなくなっていた。すべての荷物が小屋のそばに移動したころ、木々の隙間から暖かい光が漏れてきた。ベンが薪に火をつけたのだ。既に互いの顔を確認するのも難しくなっていた。一同は光に誘われるように森へと入った。
広場では焚火がふたつ、赤々と燃えていた。そばにはペネロピとサマンサもいる。桟橋から運ばれた箱のうちの幾つかが広場に移動していた。中には肉や野菜が入っている。
「夕食はバーベキューですよ」
黙々と準備をするベンを指してナンシーは言った。初日は新鮮な肉を食べるのが決まりになっている。というのも冷蔵庫がなく食料を保存しておけないため、日持ちしないものは早い段階で食べてしまわなければならないからだ。食事はどんどん貧相になり、三日目ともなるとほとんどが保存食になる。そのためツアーは大抵二泊三日、または今回のように三泊四日で組まれた。
「ナンシー」ペネロピが言った。「バンガローの明りだけど、ランプだけなの?」
「ええ。島には電気が通ってないの。『文明と離れる』のがコンセプトだから。無線とか、不可欠な器具の分の電力はベンの小屋にある発電機が賄うけど、余計に使える分はないわ。ランプの替えの電池はサイドテーブルの引出しに入ってるわよ」
ペネロピとサマンサは顔を見合わせた。「しょうがないわ」ペネロピが言った。
「水回りはどうなってるの? トイレはあるのよね?」サマンサが尋ねる。
「一緒に水を運んできてるから、基本的にはそれを使ってもらうことになるわ。近くに川が流れているから、そこの水も使えます。トイレはベンの小屋の裏手。水洗じゃないから気をつけてね。シャワーは事前に説明があったと思うけど、できなくはない程度だと思っておいて。ドライヤーは使えないのでそこは考慮してください。使いたい人は言ってくれたらお湯を沸かすわ。ベンの小屋のそばに専用のスペースを作るから、シャワーだったり体を拭いたりしたい人はそこを使ってね」
ナンシーは内心ひやひやしていた。文明を離れたツアーだと明言し、それを売りにしているというのに、時たま島の環境や衛生状態に文句を言う客がいるのだ。今回は全員個人客のため、そのタイプの人間が混じっている可能性は高い。特にサマンサとペネロピはそうでもおかしくなかった――彼女たちの服装はとてもアウトドアに向いているとは言えない。
しかしふたりは特段気にした様子もなく頷き、構えていたナンシーは拍子抜けした。
「さあ、私たちは何をすればいいの? 早く済ませましょう、お腹が減ったもの」
髪を結わえながらジェシカが明るく言った。彼女は親しみやすい女性だった。口数の少ないイヴェットやペネロピとは対称的に、船の中から彼女はよくしゃべった。ナンシーはそれをありがたく思っていた。
一同は協力して夕食の準備をした。女性陣は食材を切り、男性陣は火の具合を整えたり、金網を設置したりした。しかしサマンサは男性陣の組に加わって、代わりのようにジムが食材組に加わった。ベンはビールを川へ冷やしに行き、ナンシーは手の足りないところを手伝った。人手があったため準備に時間はかからなかったが、それでも皆が一息つくころには夜になっていた。
ひとつのことを成し遂げたおかげで彼らはずいぶんと打ち解けた。焚火を囲んで話に花を咲かせる彼らにナンシーは安堵する。妙な勘ぐりは馬鹿げていた。彼らは愉快で優しかった。
一同はナンシーだけでなく、普段客と最低限しか交わらないベンをも引き止め、共に食事をして酒を飲んだ。サディアスとゲイリーは質こそ異なるがユーモアにたけ、皆を楽しませた。ジムは電気機器に詳しかった。島での生活に興味津々で、ベンに根ほり葉ほり暮らしのコツを聞いた。その会話にはペネロピも参加した。彼女は聞き上手で、ともすれば沈黙に陥るベンをさりげなくリードした。イヴェットはいまだ緊張していたが、ジェシカの横にいる限り態度には出さなかった。ジェシカも彼女を気に入って、ふたりはよく一緒にいた。メイナードは女性を含め皆に優しかったが、引っ込み思案のイヴェットを特に気遣っていた。
「楽しいわ」
ジェシカが言った。彼女はナンシーの右隣に座っていた。その隣にイヴェット、その隣にメイナード。ゲイリー、サマンサ、サディアス、ジム、ベンの順で続き、ペネロピがナンシーの左の隣に座って円を閉じていた。
ナンシーも笑顔でビールをあおった。彼らの歳がナンシーと近いからか、または彼らがもともと知り合いではないからか、こうして仲良くなってしまえば、まるで彼女も彼らの仲間で、共に船に乗って旅行に来たかのような気分になった。
「私も楽しい」ナンシーは言った。呂律が回っていなかった。
「そんなに飲んでいいの?」ジェシカが言った。「あなた幾つ?」
ナンシーはニヤニヤ笑った。「もう成人してるわ。二十一だもん」
「イヴェットと一緒じゃない!」ジェシカはイヴェットを見た。メイナードと話していたイヴェットは、自分の名前に反応して彼女たちの方を向いた。
「イヴェットはあまり飲んでないわね。お酒嫌い?」
「ええ。あまり得意じゃないの」
「もったいない」
「いいじゃないか。その子が飲まない分だけ、俺らが飲めるんだから」ゲイリーが口を挟んだ。
彼の右手にまとわりついていたサマンサが唇を尖らせる。「もう、ゲイリー」甘ったるい口調で腕を引き、彼の注意を自分に向けようとする。
「勘弁してくれ」ゲイリーは言う。そこには絶えず言葉に込められている皮肉な調子は一切なかった。
メイナードとイヴェットは気まずそうに彼らを見た。ジェシカとナンシーは顔を見合わせ苦笑した。
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