一日目・3

 誰もが酔っていた。ジムは飲みすぎたのかぐったりとしていた。サディアスは見た目によらず弟思いで、かいがいしく彼の世話をした。ミネラルウォーターが何本か彼の為に消費された。サマンサはゲイリーにべったりで、彼の酌を務めていた。ゲイリーはそのせいでおそらくこの場の誰よりも飲んでいたが、酒に強いのかけろりとしていた。ペネロピは熱心にベンに話しかけ、ベンのほうも酒のせいか饒舌になっていた。ジェシカはナンシーと飲み比べをしていた。女性同士の飲み比べなので規模はささやかなものだったが、彼女たちの言葉遣いはだいぶ怪しくなっていた。

 イヴェットはメイナードの話に耳を傾けながら幸せを噛み締めていた。勇気を出してここに来てよかった。予想以上に参加者が多く、恐恐としていたが――話してみれば皆いい人だ。こんなに静かな場所では何か起こるなんてそうそうない。三泊四日、楽しく過ごせるに違いない――。

 考えていると頭がくらくらしてきた。正体はわかっていた。イヴェットは酒に弱かった。メイナードに勧められていくらか飲んだが、やはりおいしいとは思えない。水を飲んで抜いたつもりが、左右から発せられるにおいに再びあてられたのだ。

 イヴェットは立ち上がった。メイナードが火照った顔を彼女に向けた。

「どうしたんだい?」

「歩いてくる。少し酔ったみたい」

「ひとりじゃ危ないよ」

「大丈夫。平気よ」イヴェットは微笑んだ。

 メイナードは眉をひそめた。「そんなことはない。何があるかわからないし、僕が――」

「俺が行く」

 ゲイリーだった。サマンサを引き離しながらイヴェットに尋ねる。「俺も飲みすぎてる。いいかい?」

 彼の口調には有無を言わせぬところがあった。イヴェットは頷いた。

「ゲイリー、私も」

 サマンサが立ち上がりかけたのをゲイリーは無視した。イヴェットの腕を掴むと早足で広場から離れる。イヴェットは広場とゲイリーとを交互に見やった。

「ゲイリー」

「サマンサの相手はうんざりだ。悪いが協力してくれ」

 ゲイリーはイヴェットを見もせずに言った。イヴェットは彼の背に小さく頷いた。

 サマンサが追ってこないように、ゲイリーは森を隠れるようにして進んだ。そのうち海が見えてきたが、そこから桟橋は見えなかった。イヴェットが改めて振り返ると、遠くにぼんやりと光が見えた。帰るのに迷うことはなさそうだ。

 そこでようやくゲイリーはイヴェットの腕を離した。「悪かったよ。強引だったろう」

「……少し」イヴェットは言った。

 酒、暗闇、ふたりきり――さまざまな要因が重なって、彼女は気が大きくなっていた。普段ならどんなに嫌なことをされても、言葉で相手に抗議することはないのに。

 イヴェットは笑みをこぼした。なぜだかおかしかった。

「なに」ゲイリーが言った。「何がおかしいんだ?」彼の声も笑っていた。

「別に」

「言えよ」

「サマンサと仲良くしてたのに、急に逃げるのね」イヴェットはごまかした。

「急に? 嫌がってるように見えなかったか?」

「見えたけど……結局彼女の元に戻ってたから、まんざらでもないのかと思ってた」

「言うね」ゲイリーはその場に座り込んで、傍らの木に凭れた。「きみはどうする?」

「どうするって?」

「散歩するって言ってたろ? 俺はサマンサから逃げられたから、きみを引き留めておく必要がない。もし歩きたいんなら、俺のことは気にしないで行ってくれ」

 イヴェットは少し考えて、彼の向かいに腰を下ろした。「私もここにいる。迷ったら大変だし、遠くにはいけないもの」それからもう少し考えて、付け加えた。「あなたがひとりになりたいなら別だけど」

「なら、ここにいてくれよ」ゲイリーは言った。「話し相手がいたほうが退屈しない」

 目が慣れると互いの顔も見えるようになった。ゲイリーは足元の草を千切って遊んでいた。イヴェットもつられて草に指を伸ばす。暫くの間、草が切れるブチブチという音が辺りに響いた。

「しけこんでると思われるかもしれないな」ゲイリーは笑いながら言った。何気ない言葉だったが、イヴェットの体は強張った。

 彼女の手が止まったのにゲイリーは気づいた。「どうした? 冗談だよ」

「ええ、そうよね」イヴェットの声は小さかった。

 ゲイリーはじっとイヴェットを見ていたが、やがて得心した様子で言った。「そうか。そういう冗談が嫌いなんだな。そういえば、サディアスのジョークに困った顔をしていたし。気がつかなくて悪かったよ」

「ごめんなさい。私……」

「男が苦手?」ゲイリーが尋ねた。からりとした口調だった。

「……少し」

 イヴェットは草を千切った。彼女は自分のことを話すのも苦手だった。

「俺も女が苦手だ」ゲイリーは言った。「どっちかといえばね」

「嘘」イヴェットは笑った。絶えずサマンサが侍っていたからか、ゲイリーと女を切り離して考えることが彼女にはできなかった。

 ゲイリーは皮肉に笑い返した。「嘘をついてどうするんだ。苦手なのは仕方ない」

「女性に好かれそうな顔してるのに」

「実際好かれてしょうがない。だからこんなにきつい性格になったんだ」

 イヴェットは膝に顔を埋めて笑いを堪えた。ゲイリーも声を殺して笑っていた。

「思ったより笑うんだな」顔をあげたイヴェットにゲイリーは言った。「もっと笑ってやればいいのに。メイナードも喜ぶ」

「メイナードが?」

「きみのことを気に入ってる。見ればわかるだろう? さっきだってついてきたがってた」

「私……」イヴェットは呟いた。「わからないわ。そういうことにとても……疎いの」

「かもね。彼には意地の悪いことをしたな。折角のチャンスだし、譲ってやればよかった」

 イヴェットの顔がまた強張ったので、ゲイリーはすかさず付け足した。「今のはなし」

 イヴェットはぎこちなく笑った。「いいの。それに……メイナードはそんなふうに思ってないと思うわ」

「そうかい?」ゲイリーは心底意外そうに言った。「ああいう真面目そうなやつほど――おっと、悪い。まあとにかく、人は見かけによらんぜ」

「信じることから始めなきゃ」イヴェットは自分に言い聞かせるように言った。

 ゲイリーは小さく唸った。「見解の相違だな。俺は疑うことから始めるべきだと思っているから」

「寂しくならない?」

 ゲイリーは口角を上げた。「やめろよ、酔いが冷める。人を信じたっていいことないぜ。きみもそのうちわかる」

 イヴェットは答えなかった。彼の言う通り、これは『見解の相違』だった。

「明日は何をするつもり?」代わりに彼女は尋ねた。帰りの船が来るまで丸二日、彼らは島で自由に過ごせる。

 ゲイリーは顎をさすった。「まずは島を一回りしたいな。聞けば近くに川もあるみたいだし、どこに何があるか知りたい」

「それもいいわね。他のみんなはどうするつもりかしら」

「さてね。俺と話しても仕方のないことだ」

 イヴェットは頷いた。彼の物言いは率直で、時には辛辣だったが、彼女は少しも気にならなかった。

「なんだか不気味じゃないか? この森」

 ゲイリーが突然、一段と低い声で言った。といっても口元は笑っていたので、イヴェットにはからかわれていることがわかった。

「そうかも」イヴェットは彼の話に乗った。「少し不気味ね」

「知ってるか? この地方の――あちこちで男が殺されてる話。全裸のままホテルで発見されてるっていう」

「知ってる。ラジオでやってた。同一犯なんでしょう? 私には関係ない話だったから……よく覚えてないけど」

 ゲイリーはもったいぶって少し間を置き、それから静かに言った。「俺たちの中に紛れて……逃げてきてたりしてな」

 イヴェットはくすくす笑った。「私を疑ってる?」

「少しね」ゲイリーは嘆息した。「怖がらないんだな」

「そういうことを……考えないためにここに来たのよ。変な心配をしてたら本末転倒だわ」

「確かに」ゲイリーは草を投げた。「じゃあ、これはどうだ」

「怖がらせたいの?」

 苦笑するイヴェットに、ゲイリーは緩く首を振った。

「警鐘を鳴らしてるんだ――善人のきみに。本土に戻ったら関係のある話になるかもしれないから」

「どういうこと?」

 ゲイリーは一際声を潜めた。「R国の絞殺魔さ」

「R国の……?」

 ゲイリーの表情にふざけた様子はなかった。「俺は隣国に知り合いが多いんだが、そこではここ数ヶ月、奇妙な事件が続いてるらしい。まあ――殺人だな」

 イヴェットは眉をひそめた。彼が世間話のひとつのように話すので、その情報はやけに真実みをもって彼女の耳に届いた。

「若い女が首を絞められて殺される。凶器は柔らかいスカーフのようなもので、なんだっけな……インドのシルクでできてるらしい。とにかく、みんな赤いスカーフを巻いて死んでるんだそうだ」

「絞殺魔……」

「そう」ゲイリーは頷いた。「ホテルのほうは男だけだから、たぶんきみには関係ないさ。だが、女だけを狙うやつもいる。それも最近ね」

「でも、隣国での話でしょう?」

「まあね」ゲイリーは笑った。「ただ一番最後の事件は国境に近い町で起きてる」

 イヴェットは息をのんだ。ゲイリーは続ける。

「犯行現場は都心部から郊外へ、そして国境へ。移動しているようにも思えるよな。だから次の事件はこっちで起こってもおかしくない。だろ?」

 イヴェットはうつむいた。膝を抱える手に力がこもる。ゲイリーはそんな彼女をよそに空を仰いだ。

「悪気はないんだぜ。ただきみがあんまり――儚い感じがするからさ。“信じたがり”みたいだし。親切心から知らない男についていって死体になりました、ってんじゃ寝覚めが悪い」

「私、そんなふうに見える?」沈んだ声でイヴェットは言った。

「なにが」ゲイリーは彼女を見る。「死にそうに見えるかって?」

 イヴェットは頷く。ゲイリーは立てた膝を使って器用に頬杖をついた。

「見えるね。吹いたら消えちまいそうだ」

「……どうしたらいいのかしら」

 イヴェットは海を見た。月光を浴びて黒くなめらかな光を放つ水面が延々と広がっている。底知れないが落ち着く色だ。彼女は小さく安堵の息をこぼすと視線を戻した。

 ゲイリーと目が合った。

 彼の美貌は月光と闇とで際立っていた。柔らかそうな黒髪は夜に溶け、持ち主を神秘的に見せている。月のきらめきを映した黒い瞳は夜空そのものだ。

 彼の言葉の端々に感じる自信と傲慢さの理由を、イヴェットははっきりと理解した。彼は美しい。多少自分勝手なふるまいをしたとしても、この視線と言葉さえあれば、大抵の人間は許すだろう。

 彼に目を奪われるイヴェットに対し、ゲイリーもまた彼女を見て何か考えている様子だった。強い視線にいたたまれなくなりイヴェットはうつむく。

「なに……ゲイリー」

 非難のこもる弱々しい声に、ゲイリーは目を瞬かせた。

「え? いや――なんでもないよ」

 信じるのは難しかった。なんの理由もなく彼女を見つめる人間はそういなかった。

 縮こまって後ずさるイヴェットに気づき、ゲイリーは苦笑した。大きく両手をあげ、手の平を彼女に向ける。

「ちょっとぼーっとしただけだ。眠くてさ。きみに何かしようなんて気はないよ、誓っていい」

 イヴェットはしばらく警戒していたが、ゲイリーに動く気配がないので肩の力を抜いた。

「ごめんなさい……」

「いや、俺も悪かったよ。男が苦手だと知ってたのに、きみを怖がらせた」

 彼の口調には違和感があった。だがイヴェットは関係の修復を優先した。信じることから始める。そう言ったのは彼女自身だ。

 イヴェットが元の位置に戻るとゲイリーは笑顔を見せた。彼女も笑みを返した。

 それから少しの間、彼らは今回のツアー客の話をした。イヴェットはジェシカやメイナードから聞いた話を、ゲイリーはサディアスの話をした。彼はずっとサマンサにまとわりつかれていたが、それを適当にあしらいながらも、サマンサの更に隣に座っていたサディアスとよく話をしていた。「あの兄弟はおもしろいぜ」と彼は言った。

 会話は途切れ途切れだった。合間には短い――時には長い沈黙が挟まったが、イヴェットには心地よかった。なぜそう感じるのかはわからなかった――ゲイリーのふるまいは常に自然で、人に受け入れさせる何かがあった。

 何度目かの沈黙のころになって、イヴェットはふとバンガローの方を振り返った。

「あら?」

 ゲイリーも気がついた。いつの間にか焚火の光が見えなくなっている。立ち上がって辺りを見回し、彼は小さく舌打ちをした。「火を消したのか」

「戻れるかしら?」

 ゲイリーはズボンの土を払う。「大丈夫だ。方向は覚えてるし、いざとなったら海に沿って行けば浜に出る」

 イヴェットが立ち上がるのを待つとゲイリーは歩き出した。森の中を躊躇なく進んでいくので、イヴェットは足早に後を追う。枝葉の擦れる音があちこちで聞こえた。

どこかで何かが動いていた。それが風か、自分たちか、他の何かなのかは、イヴェットにはわからなかった。彼女の近くで音がするたび、イヴェットの足は早まった。ゲイリーから聞いた話が彼女の心に引っかかっていた。

 唐突にゲイリーは立ち止まった。彼の背だけを必死に追っていたイヴェットは、勢い余って顔をぶつけた。

「どうしたの」

 ゲイリーは振り向くと得意げに言った。「着いたぞ」

 目の前にはバンガローがあった。向こうには広場も見える。位置を見る限り、彼らの前にあるのは《3》のバンガローのようだ。

 ふたりは広場の方へ進む。そこには誰もいなかった。薪には水がかけられ、周りにはビール瓶が幾つか転がっている。四つのバンガローで電気がついているのはひとつしかなかった。《1》――サディアスとジムのバンガローだ。

「もう寝たのか。早いな」ゲイリーは自分のバンガローを見て呟いた。

「ありがとう」イヴェットは言った。「私だけじゃ帰れなかった」

「どういたしまして」ゲイリーは笑って彼女の背を叩いた。「おやすみ」

 ゲイリーが階段をのぼっていくのを見て、イヴェットも自分のバンガローへと向かった。眠っているのであろうジェシカを起こさないようにそっと扉を開ける。中は暗かったが、窓のカーテンは開いたままだった。かすかな明かりがふたつのベッドに横たわる人影を照らしていた。ジェシカとナンシーだった。

 イヴェットは困惑してバンガローを出た。気持ちよく眠っている人間を自分の都合で起こすことは彼女にはできなかった。しかしベッドを占領されている以上、眠る場所を探さなければならない。再び広場に戻ったが、ゲイリーは既にバンガローに入っていて姿はなかった。

 イヴェットは少し考え、船の中での会話を思い出した。サマンサがナンシーに尋ねたことだ。ナンシーはテントか、ベンの小屋で眠ることになっていた――。

 ベンは小屋へ戻ったのだろうか? イヴェットは浜の方を見やった。ここからならばひとりでも行ける。ベンの小屋に行って事情を話し――テントを出してもらうか、小屋の一画を借りるかしよう。自分のバンガローに戻って床で寝てもいいが――やはりだめだ。起きたナンシーとジェシカに気を遣わせるだろう。それは彼女の望むところではない。

 イヴェットは再び森に入った。歩き出すと、むき出しの腕を枝葉が引っ掻いた。浜はすぐそこだというのに、彼女にはやけに遠く思えた。

 すぐそばで大きな音がした。イヴェットは立ち止まる。前方の草むらが揺れていた。大きく――大きく――何かがそこで蠢いているように。

「誰かいるの」

 イヴェットは小さく声をかけた。答えるものはいなかった。誰もいないのだ。自分たち以外には、この島には誰も――。

 イヴェットは素早く草むらの横を走り抜けた。葉擦れの音は背後のものとなり、再び大きくなった。

 気のせいだ。イヴェットは自分に言い聞かせた。気のせいだ。気のせいだ。

 嫌な予感が膨れ上がった。押し込めようとしても叶わず、暗闇という餌を得てぶくぶくと育っていく。考えたくない。大丈夫。きっと大丈夫だ。この島には……この島には……。

 ベンの小屋が見えてきた。もうすぐそこだった。

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