母と子と『鬼』

第1話 母と子と『鬼』 1

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 周りの人は誰もが彼女に言った。


 仕方のないことだったのだと。


 確かにその通りだ。これが他人事ひとごとであれば、彼女自身であっても『仕方のないこと』だと言葉を発しただろう。


 正真正銘の悲劇ではある。


 ニュースで流れれば、まともな神経を持つ者は憤りと悲しみを覚えるだろうが、だからと言って、何かをしようと行動を起こすこともないだろう。


 自殺。いや、心中と呼ばれる行為。諸々を苦にしての末のこと。


 とある母親が、我が子……幼い兄弟と共にビルから身を投げた。


 母親と兄は死亡。


 弟の方は辛うじて一命を取り留めたのだが、その心を含めて、身体にも後遺症が残ることになった。


 彼は当時五歳。心身共に傷つき、父親に引き取られるも、育児放棄からの虐待という道を辿る。


 父親の遠い親戚であり、亡くなった母親と友人同士だった女は、そのあまりな状況に介入した。

 父親は当然として、亡き母親側の親類とも相談を重ねて、友人の遺児であるその子を彼女は引き取った。自らの両親を含めて、家族ぐるみで彼を支援すると決めた。


 当時、その女は三十路前。それは勢いに任せた行動だったが、今になって振り返っても、彼女に後悔などない。


 ただ、その子を引き取ったことで彼女は知った。知ってしまった。


 この世には、異能と呼ばれるオカルトが、息を潜めてすぐ隣に在るのだと。



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 ……

 …………

 ………………



「……一体どういうことですか?」


 応接室。

 革張りのゆったりとした三人掛けのソファに一人。二十代半ばの女性。


「お伝えしたままです。この度の報告で、この件についての私どもの調査は終了とさせていただきます」


 対面……テーブルを挟んだ一人掛けのソファにも一人。身綺麗な四十代の女性。


 彼女の名はまゆずみ香織かおり。調査会社の黛エージェンシーの代表であり、所謂興信所、探偵と呼ばれるものを生業なりわいとしている。


「……おかしな事を仰っしゃりますね? 調査を終了するかどうかは、顧客である私の判断では? それとも、この度の報告には、私の望む情報がすべて揃っているとでも?」


 整った顔立ち。可愛らしい系の美人……ではあるが、いまは険のある顔つき。冷たい印象を纏う。


 鹿島かしま麻衣まい。異世界帰りの男……鹿島かしま秋良あきらの元妻。


「申し訳ございませんが、今回の報告にも鹿島様が求める情報はないかと……」

「では何故ですか?」


 被せる。平坦で冷たい言葉。


 黛香織は心の内で盛大な溜息を吐き出しながら、顧客である鹿島麻衣に応じる。用意していたストーリーを語る。


「お恥ずかしい話ですが……尾行途中に対象者に気付かれました。その上、こちら側のことを逆に仔細に調べられてしまい……彼の調査を続けること自体が困難となりました。……申し訳ございません」


 黛は丁寧に頭を下げる。本来なら調査会社としては恥晒しもいいところだ。それでも彼女は、自分たちの不甲斐無さを赤裸々に明かし、全面的に謝罪する。


「……彼にバレたということですか?」

「はい。有り体に言えば……」


 もとより何かを期待しての……証拠を集める類のものではなく、相手の近況を知るための調査だ。

 対象者に調べていることを知られるというのは致命的とまではいかないが、黛はとしての調査を打ち切った。


「それはそちらのミスですよね?」

「その通りです。今回の分に関しては当然に料金をいただくことはありません。重ねて謝罪します」

「…………」


 鉄の謝罪。麻衣にも判る。どうゴネても、黛香織は結果ゴールを動かさない。謝りながらも顧客に譲歩する気はない。この件は終わりだと。


「…………分かりました。納得は出来ませんが、今回の報告で終了ということで」

「お力になれず……申し訳ございません」


 引き下がる麻衣。しかし、それは黛エージェンシーに対して。鹿島秋良への歪んだ執着が失せるわけでもない。


 報告書の詰まった封筒を受け取り、事務所を足早に去る麻衣。イライラが滲んでいる。


 そんな“元顧客”の後ろ姿を見送る黛の瞳は冷たい。もはや顧客向けの顔ではなくなっている。


「……それで? その鹿島秋良は、私の後ろに“それなり”の連中がついていると?」

「は、はい。す、少なくとも、俺の家族構成などは正確に把握していました」

「……ハッタリの可能性は低い……か。西藤さいとうの単純なミスという訳でもないようね」


 西藤さいとう雅人まさと。黛エージェンシーの社員探偵。


 鹿島麻衣から『鹿島秋良の近況、今の人間関係などを調べ上げて欲しい』というザックリとした……しかも金に糸目はつけないというおいしい依頼。その担当者として西藤が対象者を張っていた。


 振り返って考えれば、初期のころから西藤は泳がされており、対象者である鹿島秋良に逆に色々と嗅ぎ付けられていたのだと黛は推察している。そして、ある程度の情報が出揃った時点で警告と共に切られたのだと。


 その後、警告を受けた西藤はムキになり、黛に詳細を報告せずに独自に対象者を追うという馬鹿をしでかす。しかし、以降はまるで対象者の動きを掴むことが出来なくなった。


 鹿島秋良は自宅である安アパートには戻らず、行きつけのバーで張っても現れない。消息が掴めないままに数日が経つ。


 そして、ある日、西藤が自宅へ帰った際……妻子の待つその自宅に、鹿島秋良が居たのだ。仕事の関係者だと名乗って上がり込んでいた。


 恐慌。


 自らのテリトリーが侵犯されるという、得体の知れない恐怖と怒りを西藤は知った。自分の情報を相手に知られていた……そのことも知っていた筈なのに、彼はこの事態を想定していなかった。


 西藤は思っていた。

 自分が相手を調べるのは仕事。しかし、相手が自分を調べて行動に移すなど有り得ない……と。


 平和ボケも甚だしい。


『西藤さん。言ったでしょう? 「やったらやり返される」って。ちゃんと黛さんに報告しないとね? あぁ……安心してください。俺はやり返すときはちゃんとにやり返しますから……何も知らない奥さんやお子さんを“いま”以上に巻き込むことはありませんよ』


 平凡で特徴のない顔。その瞳に生気は無かったが、柔和な表情を作り、鹿島秋良は言ってのけた。


 西藤雅人の心は折れた。自らのちっぽけな意地などどうでも良いと。


 鹿島秋良が去った後、その場で、震える手を叱咤しながらスマホを操作し、代表である黛に覚束おぼつかない報告をした。


 彼女が鹿島麻衣からの仕事を打ち切ることを決めたのはその時。即決即断。


 西藤からの要領の得ない報告であっても、黛香織は看破した。


 鹿島秋良はブレーキが無い、あるいは壊れた人種。


 当人が言う『やり返す』を必ず実行する人物だと。


 


「西藤。あなたはこの件から外します。ここから先は仕事じゃない。あぁ少しの間、気休めに鹿島麻衣を張りなさい」

「……は、はい。この度は……すみませんでした。鹿島麻衣を張ります」


 黛香織は知っている。“そういう”連中は扱いが難しいが、扱いさえ間違えなければ有用な人材となり得ることを。


 ここからは顧客用の仕事ではなく、彼女自身による勧誘スカウト



:-:-:-:-:-:-:-:



 ……

 …………

 ………………



 黛香織は想定している。鹿島秋良は自分の接触を待っているはずだと。

 でなければ、尾行を呆気なく躱せるにも関わらず、わざわざ尾行者に接触するような真似はしないだろう……そんな風に考えている。


 黛は彼の行きつけのバーへ足を運ぶ。まずはそこから。彼女とて多相市において、表に裏にと情報を扱う者だ。実際に訪れるのは初めてではあるが、その店がどういう店かを知らない訳でもない。


 仲介屋。その本名を誰も知らないが、“マスター”と呼ばれる男が諸々を仲介してくれるという……都市伝説じみた場所。


 しかし、ただの都市伝説もどきではなく、それなり以上に“裏”を知る者たちにとっては割と知られた店でもある。


 嘘か実か、本当に大事な用件があるときには、他の客が来ないなどと言われていたりもする。


 上質なドアベルの音ともに、黛はその店に足を踏み入れる。初めて。


 地元で探偵業を営みながらも、黛香織は裏の界隈では知られたその店に、足を運んだことがないという事実。


 彼女は疑問に思わない。思えない。認識が阻害されていることに気付くことはない。


 その店は“招かれた者”以外は立ち入れない。


 抑え気味に流れているスムースなジャズ。カウンター席だけの小さな店。静けさと妖しさの漂う空間。


「ようこそお越し下さいました」


 カウンターの向こう側には、まるで備品の一つであるかのように、店内の風景に紛れている初老の男性。マスター。


「人を捜しているの。この店の常連だと聞いて……鹿島秋良と言う人なんだけど、マスターはご存知?」


 単刀直入。多少、店の雰囲気に思うことはあったものの、黛はマスターに問う。思わせ振りなやり取りはなしだ。


「えぇ。存じ上げております。……今夜は、貴女と彼との貸切とした方が良さそうですね」

「ふふ。準備万端……既に網を張られてたってわけね」


 黛は自分の読みが正しかったことを知った。そして、鹿島秋良が“話の通じる相手”だということもだ。


「白馬の王子様を待つ間、何かカクテルをいただける?」

「どのような物がお好みでございますか?」

「少し強めでも構わないから、口当たりは甘めで……後はお任せするわ」


 客の要望を聞き、早速にマスターはグラスに氷を入れ軽くかき混ぜステアする。作業工程も店内で流れるジャズのようにスムース。カラカラと鳴る氷の音色が店内に調和して響く。


 グラスに溜まった水を切り、テキーラをベースとしてカルーアコーヒーを。そして仕上げにステアして完成。


「……どうぞ」


 カウンターの上で静かに差し出されるグラス。

 質問は後。

 香織はまずグラスに口を付ける。

 口に広がるのは確かな甘みとほのかな香り。そして余韻に爽やかな酸味。


「ふぅ。コクのある甘さね。気に入ったかも。それで? このカクテルは何ていう名前なの?」


 それはマスターに向けての問い掛け。彼女にとっては、待ち人を待つ間の時間つぶし。バーでの正当な楽しみ方を少し考えていただけ。


「くく。そのカクテルは『ブレイブ・ブル』。“勇ましい雄牛”って名前ですよ」

「ッ!!?」


 不意の声。そして店の入口付近、カウンターの端に男。あり得ないモノを香織は見た。男の手には既にグラスまで納まっている。


「……随分と趣味の悪い白馬の王子様ね。鹿島秋良が“異能者”だという情報は無かったような気がするのだけど?」


 黛香織は異能など持たないただの一般人だ。しかし、この街で探偵業を営む以上、知らない筈もない。異能のことを。そもそも、ある頃からは積極的に異能ソレに関わる案件を増やしているほどだ。


「はは。流石にそれほど動じませんね。百戦錬磨の黛香織さん。あぁ、ちなみにですが、あの西藤さんという残念な方が調べた俺の情報に意味はありませんよ。まぁ傑作でしたね。赤の他人の家を必死に張っている彼の姿は」


 西藤雅人はムラはあるが、それでも黛エージェンシーの社員の中では優秀な部類。いくら勧誘が目的とは言え、“身内”を馬鹿にされ、黙っていては女が廃るというもの。


「……私は有能な人間は好きよ。でも、無礼な人間は好きになれない。当たり前のことだけどね」

「くく。なら、西藤雅人さんこそだね。アイツは有能かも知れないが、職業上のプロとして礼を失しているよ。調査が完了した依頼人に対して、人を使って再度問題を起こし、アフターフォローと称して再び自分を頼るように仕向けている。特に好みの女は念入りに囲い込むみたいですよ? ま、昔から業界では言われてるらしいじゃないですか? 『メンヘラは金になる』ってさ」


 黛からすれば軽いジャブのつもりが、カウンターでの右ストレートが返ってきた。


「……言い掛かりは止めてもらえる?」

「信じたいものだけを信じるというのも……まぁ一つの幸せでしょうね。ただ、残念ながら事実ですよ。はは。彼、次は麻衣のことを狙っていたみたいだけど……さてどうなることやら……」


 平々凡々な見た目。写真で見たよりも影が薄くなっているというのが、黛から見た鹿島秋良の第一印象の感想。


 ただ、その代わりと言って良いのか……生気のない虚ろな瞳が、薄暗い店内でやたらと目を引くのだ。黛からすると、登場の仕方といい、まるで死神のような不吉なナニかに見えて仕方がない。


「……結局、何が言いたいのかしら?」

「俺にはルールがありましてね。異能という超能力デタラメを用いて他者を食い物にする奴の中でも、俺が引いた一線を越えたらアウトだ。ただ、異能を用いずに、一般人の範疇において悪さをする奴に対しては……まぁギリギリってところです。そういう奴らは、同じ一般人や法制度で相手をするのが筋だと考えてるんでね。ま、あくまで暇潰し程度のことですけど」


 淡々と語られるマイルール。

 聞かされる側として、黛香織は改めて自分の考えが間違いではないと確信する。


『鹿島秋良はブレーキの壊れた奴』だと。


「……つまり、私に西藤をどうにかしろとでも?」

「はは。思わせ振りな態度をとってはみたけど……実のところ、西藤さんはどうでも良い。まぁ勝手にやってろって感じです。本命は黛香織さん……貴女だ」


 彼の語りをそれ以上聴きたくないと香織は願ってしまう。虚ろな瞳が彼女を捉えている。どうしようもなく心をざわつかせる。まるで心の内を見透かされているかのよう。嫌な予感が膨らんでいく。



「俺は貴女の望みを叶えられる」



 黛香織にとって、それは甘美なる悪魔の契約の誘い。



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