第2話 退院
それから4週間経った。
子猫はICUの保育器を出て、ガラス張りの入院用ケージに移されていた。
切断した左の後ろ脚がなくて危なっかしいものの、残った3本の脚で立ち上がれるようになった。
折れていた右の後ろ足は手術でつなぎ直され、しっかりと固定されている。
倒れないように踏ん張る前足がふるふるしながらも一歩一歩少しずつ前に進む。
水と食事が置かれた容器に近づいてぺたんと座る。
固定した脚はピーンと伸びたままなので人間の赤ん坊が座っているみたいな恰好になった。
消化の良い入院食を一心不乱に食べ始めたのをマサミツは嬉しそうに眺めていた。
院長先生の説明によると、猫は生後1年で大人になるらしい。
たったそれだけの間に、人間の15年ほどを一気に成長する。
子猫は一日経つごとに目を見張るような回復と成長を見せていた。
よくがんばったね。
声には出さないで呼びかけると不意に子猫が顔を上げた。
マサミツを不思議そうに見ている。
みー。
優しい眼差しで子猫を見つめるマサミツに、返事をしているようだった。
翌日は休日だった。
マサミツは午前中に私用を済ませて、昼前に病院に着いた。
子猫の容態説明を受けてから子猫を見ていると、院長先生がマグカップを片手にやってきた。
午前の診療が終わって、昼の休憩時間になったようだ。
「今だから話せるんだけどね」
そう前置きして申し訳なそうに頭を搔いた。
「運び込まれたとき僕は『助からない』と思ったんだよ。だから安楽死を勧めるつもりだった」
ちょっとびっくりしたマサミツに先生は続けた。
「助かったとしても人の手を借りないと生きていけない。それはこの子の幸せかどうか、こういう仕事をしていると考えてしまうことが多くてね」
先生はずずっとコーヒーを啜った。
「でも君を見てそれはやめようと思った」
子猫がこんなことになっている理不尽さへの怒り。
子猫をなんとか助けたいと願う強い想い。
子猫を励ます言葉を何度も呪文のようにかけていた優しさ。
いくつもの気持ちが、思いつめたようなマサミツの表情に現れては消えていたのを先生は見たという。
だから十中八九は助からないとは、とても言えなかった。
泣き出しそうな、怒っていそうな、そんなマサミツに先生は思わず言った。
「きっと助かるよ」
後からとんでもないことを言ってしまったと苦笑いしたのだと。
そして全力で救おうと決めたそうだ。
受付のお姉さんもまたマサミツと子猫のために手を尽くしてくれたことを教えてくれた。
お姉さんの名はミユキさん。動物看護師だ。
最初の数日は病院に泊まり込んでくれたらしい。
夜中でも数時間おきに治療と世話をして、手術があった日はほぼ終日つきっきりだった。
手術自体はそれほど難しいものではなく、むしろ予後のケアのほうが難しいという。
状況に応じて的確に対応出来るかで生存率が決まるので目を離すことができない。
気を抜けない大変な仕事だ。
この動物病院は院長先生とミユキさんの二人で切り盛りしている。
入院中の他のペットの治療や日中の診療だけでも大変なのは容易に想像がついた。ミユキさんは受付などもこなしている。
人手が足りなくなる。
ミユキさんはすぐにそう思った。
子猫が運び込まれた翌日に獣医学校時代の友人に助けを求めたそうだ。
二人の動物看護師がすぐに応じてくれた。
後輩のリョウコさんとアキさん。
おかげで、ミユキさんは子猫に集中できた。
子猫は今、院長先生、ミユキさん、リョウコさん、アキさんの前でちょっと痛々しいけれど愛くるしい姿を披露できるようになった。
毎日ここへ通っていたマサミツは、すぐにスタッフと親しくなった。
ほかの患者の飼い主さんとも自然に知り合いになってこの病院のことをいろいろ教えてもらった。
3年ほど前に開院したときは半年も閑古鳥が鳴いていたこと。
でも院長先生はなかなか腕がよくて、飼い主さんの間で評判となり、徐々に口コミが広がっていったこと。
今では隣町からわざわざ通院してくる飼い主がいることや、ミユキさんが先生の婚約者だということまで聞いていた。
二人の看護師さんは、これまでも手が足りないときにときどき手伝ってくれていたことも教えてもらっていた。
院長先生がミーの頭を軽くなでるのを見ていたマサミツに、ミユキさんが話しかけた。
「もうこの子は大丈夫だよ、マサミツさん」
マサミツははっと顔を上げた。
いつのまにか、昼食を終えた4人のスタッフがミーのケージに周りに集まっていた。
ちょっと驚きながらもすぐに気を取り直してマサミツは姿勢を正して呼びかけた。
「みなさん」
マサミツは院長先生とミユキさん、それと助っ人にきてくれたアリョウコさんとアキさんに頭を下げた。
「本当に、本当に、ありがとうございます」
マサミツは頭を下げたまま続けた。
「この子がここまで回復できたのは、皆さんのおかげです。大事にします。約束します。この子を守っていきます」
急にお礼を言いだしたマサミツに、今度は院長先生たちがびっくりした。
けれどマサミツがどれだけ子猫を大事に思っているかを知っているから、すぐに微笑んだ。
「マサミツさん。ミーちゃんが幸せになってくれるようにお手伝いするのが私たちの仕事だからね、そんなこと言わなくてもいいのよ」
「頭を上げて、マサミツさん。感謝したいのは私たちのほうなの。ミーちゃんが助かって私たちとても嬉しくて幸せな気分なのよ」
「まだもう少しここでしっかり治しましょうね。そういうことは退院するときに言ってね」
そんな言葉をかけられて、マサミツの目は熱くなってきた。
20年以上前、まだ小学生だったマサミツは、実家で飼っていたミーが亡くなったとき、大泣きして抱きしめたのを思い出した。
寿命だったけれど、あのミーのおかげで家族みんなが幸せな時間をミーと過ごせたはずだ。
そしてこの子猫のミーも、病院のみなさんを幸せな気持ちにしてくれている。
診察券のためにとりあえず付けた名前だったけれど、ミーと呼ばれている子猫が今また幸せを運んできたように思えた。
そう思うと涙があふれてきた。
みなさん、本当にありがとう。
マサミツは何度も何度も感謝した。
みー。
おなかが膨れた子猫が、マサミツの背中越しに一声鳴いた。
2週間がさらに過ぎた。
一日過ぎるごとに見違えるような回復を見せた子猫は、マサミツの姿を見つけるとケージの奥からひょこひょこと駆け寄ってくるまでになっていた。
片目はつぶれてしまっているけれど、残った目でマサミツのことをしっかりわかっているようだった。
マサミツは仕事の合間をぬって子猫と暮らせるアパートを探した。
そして昨日ようやく引っ越しを終えて、いつでも子猫の世話をしながら飼えるように準備を整えたばかりだった。
この日。
子猫のミーは真新しい大きなキャリーバッグに入れられて退院した。
院長先生とミユキさんたちが見送る中、マサミツは新しいアパートに向けて軽で走り出した。
元気なってよかった。
これから仲良くしようね。
助手席のミーは、ごそごそ何か動いているみたいだ。
だけど落ち着かせるために毛布を掛けてあるので何をしているのか見えない。
そして。
マサミツとミーを乗せた軽自動車は大型ダンプの追突事故に巻き込まれた。
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