無敵猫 海ちゃん
出海マーチ
第1話 小さな命
帰宅途中のマサミツは消え入りそうな小さな鳴き声を聞いた。
みー、みー。
薄暗い路地をのぞき込むと、側溝に横たわる猫の姿。
明かりが届かない場所でよく見えない。子猫のようだ。
捨て猫かと思ったけれど、なにか様子がおかしい。
側溝には一日中降った冷たい雨水が溜まっている。
泥水につかったまま身じろぎ一つしないでただ小さく鳴いている。
車かバイクに跳ねられ、側溝に落ちて動けなくなったのかもしれない。
この辺りは駅につながる大通りからは1本だけ通りを離れた静かな住宅街。
近所の人以外はあまり通らないし、街灯の影になっているところはとても暗い。
傘を首と肩の間に挟んでから、両手で子猫をそっと持ち上げた。
子猫の身体は冷え切っていた。
ぬるっとした感触があった。流血している。
よく見ると後ろ足がおかしな向きに曲がっていた。目もなんだかおかしい。
自分の両手に救い上げた命が、無慈悲に消えようとしていると感じた。
不意にやりきれい怒りと悲しみが込み上げてきた。
「もう少しがんばるんだよ」
マサミツが励ますようにつぶやくと子猫は鳴くのをやめた。
ぐったりした子猫をいったん膝の上に乗せる。
折り畳み傘を通勤鞄にしまって、右腕に子猫を抱きかかえた。
左手で鞄を持つ。子猫を落とさないように自分のお腹も使って支える。白いワイシャツに泥水が染みて冷たさが伝わってきた。
マサミツは雨に濡れるのも厭わず、まずアパートの部屋に向かった。
部屋に着くと、すぐに子猫の体に付いた泥水をタオルで軽く拭いた。
別の柔らかいタオルケット2枚によく振ったホカロンを挟み込む。
そして冷え切った子猫を包み込んだ。
実家から送ってきた小さめの段ボールの空き箱にそっと入れる。
「じきに暖かくなるよ。もうちょっとがんばろうな」
蓋を閉める前にもう一度声をかける。
子猫はじっとして動かなかった。
アパートの裏手にある月極駐車場の軽自動車の助手席の足元に子猫の入った段ボールを静かに置く。
焦る気持ちを抑えて、軽を走らせた。
マサミツがこの街に暮らし始めて10年以上経つ。
常連だった中華料理店の向かいに動物病院があったのを思い出していた。
炒飯が旨いその店は店主が高齢になって数か月前に閉店してしまった。
けれど、動物病院はまだあったはずだ。
軽で5分走って中華料理店の駐車場に車を停める。
まだ動物病院の明かりが付いていた。
段ボールを抱えて動物病院の扉を開ける。
診療時間に間に合った。
受付にいたお姉さんに段ボールのふたを開けてみせた。
顔だけ出してタオルケットに包まれている子猫を見ただけで
「まあ、ひどい! ちょっと待ってて。すぐに先生に伝えてきます」
とパタパタ走っていった。
待合室にはだれも居なかった。
マサミツは一人受付の前に立って待った。
1分もしないで奥から獣医の先生がやってきた。
段ボールの子猫とともに診察室に入る。
詳しい事情、といっても子猫を見つけた状況くらいしか説明できない。
それから応急処置と検査が始まった。何本も注射針が刺されて呼吸器も付けてられたが、子猫は動く気配がなかった。
ただ白い呼気がプラスチック製のマスクに浮かんでは消えていることでまだ生きていることがわかった。
3時間経っても子猫の容体は安定しなかった。
獣医の先生からは、今夜はこのまま入院させて様子を見ること、現在の重篤な容態からある程度回復し安定したら本格的な治療を行うことを伝えられた。
ただ、今夜から数日は何が起きてもおかしくないので覚悟だけはしておいてくださいと告げられた。
マサミツは先生に子猫をよろしくお願いしますと頭を下げた。
そして、透明な治療用の箱で静かに横たわる子猫に声をかけた。
「もう大丈夫だよ。きっとよくなるからね」
子猫は頑張った。
マサミツの思いに応えるように。
翌日の子猫は一日中眠り続けていたらしい。
時折ピクっとする以外はぐったりと横たわっていたけれど、確かに生きようとしていた。
先生と受付のお姉さんがこまめに様子を確認して治療してくれているようだ。
入院3日目に、はじめてお姉さんの手から水を飲んだと聞かされた。
後の両脚は骨折、片目は失明していた。
けれど内臓に損傷がなかったのが不幸中の幸いだった。
なんとか命を拾えそうだとこの院長先生が教えてくれた。
感染症にいくつかかかっていたのでその治療も必要だった。
左脚は状態が悪く切断が必要ということもわかった。
たぶん車に引かれたときつぶされてしまったとのこと。
5日目。
壊死の兆候が見えた左脚と潰れた左眼の手術をした。
弱っている子猫が耐えられるかわからなかったけれど放っておけば数日で死んでしまうからだ。
手術が無事に終了したと連絡があって仕事中のマサミツはほっとした。
マサミツは毎日、勤め先の市役所の帰りに動物病院に立ち寄っていた。
受付のお姉さんに診察券を作るから子猫に名前を付けてあげてと言われて、とりあえず「ミー」と名付けた。
子供のころに実家で可愛がっていた三毛猫の名前だ。老猫でとても凛々しい雄猫だった。
そのことを言ったら、お姉さんが笑いながら「この仔はロシアンブルーですよ。女の子ね」と教えてくれた。
いろいろ治療用の器具が取り付けられて毛並みや色をはっきり確認できなかったけれど、元気になったら美しいアッシュブルーの毛並みが見れるらしい。
マサミツは毎日「がんばれ」「まけるな」と子猫に話しかけた。
「元気になったら美味しい魚を食べようね」「いっしょに街を散歩しようね」とつぶやき続けた。
子猫はマサミツの声が聞こえているのか、ときどき細い小さな声で
みっ
と鳴いて答えた。
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2022/05/05 初回公開
以降随時誤字脱字などを変更します。
2023/07/27 段落の先頭文字下げ実施
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