第23話 最悪のジェットコースター

 意志とうらはらに、体全体が小刻みに揺れ動いている。必死に踏ん張っているつもりなのだが、手足に力が入っているのかどうか分からない。股間はうっかり放尿してしまいそうだ。全身に冷たい湿気を感じるのは、一気に吹き出した汗のせいに違いない。

 アンバランスな生き物は、玉丸の正面に立った。

 廊下は暗かったが、玉丸は生き物のその異様に目を見張った。

(やはり、こいつは人間じゃない。)

 狂った体型。異様に巨大で不気味な頭。まるで脳だけが風船のように肥大化しているようだ。頭の大半をしめる大きな二つの眼は、この世のすべての暗黒を吸い込んだみたいに真っ黒で、奥はぼんやり赤く光っていた。

 直感的に、その眼に玉丸はただならぬ悪意を感じた。

(こいつは“悪意”から作られた生き物だなんだ!)

 皮膚には奇妙で細かい“しわ”が、びっしりと張りめぐらされており、地球上のどんな動物とも似ていない。口と鼻は小さく、どうやって食べたり呼吸が出来るのか全く疑問だ。

 しかし、その巨大な頭にも関わらず、銀色の服に包まれた体型はひょろりと華奢そうで、玉丸が立ち向かっても微動だにしないという感じではなかった。

「……お、おまえ、誰だ!」

 玉丸は必死に勇気を振り絞り、それだけ言うことが出来た。

 生き物はじっとこちらを見据えているが、玉丸の発したことばにはぴくりとも応えなかった。言葉が分からないのかもと思ったが、どうやらそんな雰囲気ではないらしい。相手はこちらに対してある程度の知識を持っているが、それは評価に値しないといった感じなのだ。

 “超”のつく上から目線。

 相手に見下されているという感覚が、玉丸の自尊心を刺激して、勇気へ新たなガソリンが注がれた。

「ここに、何の用だ!」

 玉丸はこの家にいるのは自分だけではないのだ、と思った。廊下の奥には母親がいる。母親を守らねばならない、という責任感が心へのしかかってきた。この生き物に立ち向かわねばならない、という決意。おまけに相手はひとりなのだ。運が良ければこいつを組み伏せられるかも知れない。大声を出せば母親だって気づいて、警察を呼んでくれるはずだ。時間を稼げば、そのうち父親だって帰って来る。

 かすかな希望を感じることで、拳を握ることが出来た。足を踏ん張った。

(立ち向かってやる。)

 ことばは解さないくせに、立ち向かってくる意志は厄介だと思ったのか――生き物は玉丸に反応した。いつの間にか小さなボックスを手にしていた。それが武器だと直感した玉丸は、すぐさま飛び退こうとした……が、生き物がボックスにあるスイッチを押した途端、いきなり玉丸の体に不快な電撃が走った。

「うぐっ」

 まるで魂をむんずと掴まれたように、全身が氷のように固まった。

 倒れ込む形で部屋の床に突っ伏した。痛みとともに、頬に絨毯のざらざらした感触を感じた。全身をミミズが這うような不快感が襲う。

 立ち向かおうと身構えたのに、それが無惨にも踏みにじられ、玉丸の自尊心は傷ついた。同時に、こうもあっさり相手に脱力させられたことで、にがい敗北と屈辱を味わった。

 生き物が玉丸の顔を覗き込んできた。かすかに笑っているようだ。玉丸の全身は前のめりに倒れ込んだ不自然な状態で硬直している。まるで内臓を抜かれた剥製だ。

 心臓の鼓動が耳に響く。怒りとともに涙が頬に伝った。

 こいつは僕をどうするつもりなんだ? 

 同時に「僕は殺されるんだ」という意識がよぎった。

生き物はひざを折って、玉丸の髪をむんずと掴み、頭を持ち上げた。目にいきなりそいつの顔が飛び込んできた。腐い息がにおった。底知れぬ暗黒の瞳に見つめられ、玉丸はがたがたと震えた。本当に放尿しそうだ。心なしか玉丸にはその生き物が、その小さな唇を曲げて喋ったように感じた。

「おまえの負けだ」


 いまの僕は「蛙」だ、と霞玉丸は思った。

 蛙は蛇と対面すると、巨大な生物の餌になるのを本能的に悟り、「もう逃げられない」と覚悟するという。

 まさに蛇ににらまれた蛙だ。

 玉丸は、自身をかつて「蛙のようだ」と思ったことがあったような気がした……途端に自身の体が矮小化して、みっともなく縮んでしまったかのような感覚を覚えた。生き物の暗黒の瞳に、まるで掃除機に吸い取られるごみのように、自分の心が吸い込まれているようだった。

 かつて「円盤部」の部室で、峠三三と宇宙の神秘に関して話し合ったことがあった。

 宇宙の外れにはブラックホールなる存在があって、そこは光さえも吸い込む重力の渦なのだそうだ。今まさに玉丸は、その穴にすべてが無理矢理引きずり込まれているようだった。その暗黒はさらに深い暗黒へ。この世で最悪のジェットコースターに縛り付けられたように……。

 しかし、そのジェットコースターには出口が無く、あるとすればそれは虚無と呼ばれる底なしなのだ。玉丸は心も体も、暗黒のさらなる奥へ落ちていく。

 ……そこで「霞玉丸の悪夢」は、終わった。

 悪夢は終わり、最悪のリアルが始まった。

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