十、就眠
「なにしてんの?」
休み時間、左手を握ったり開いたりしていると隣の席の奴が話しかけてきた。
「しびれちゃってさ」
ごまかしたけど、ほんとうはしびれてなんかない。もっと悪かった。
この左手は自分のじゃない。
以前からちょいちょいあったが、最近おさまっていたので治ったかなと思っていた矢先だった。手足が自分のものではないような感じがする。見ていればちゃんと動かせるし、触れば感触はあるけれど、どう考えても自分の腕や脚に連続しているようには思えないのだった。
おじいちゃんの葬式の時に足がしびれて立てなくなり、親戚に笑われたことがあったが感じは近い。ただの物がくっついているとしか思えない。痛みや不快感はないし、十分ほどで元にもどるのでだれにもいわずに放っているけど、やっぱりきちんと医者に診てもらったほうがいいだろうか。
しかし、そんなことを考えているうちに次の授業が始まり、数学の問題を解いていると治った。治ってしまえばいつものように忘れた。もういい。気のせいなんだから。
それともうひとつ。これが起きた夜はかならず変な夢を見る。いや、変じゃない夢かも。
つまり朝起きて、学校へ行って、帰ってきて寝るという一日をおくる夢で、まったくふつうの日を夢見てしまう。
いやだった。眠ってるのに疲れるからで、まるでほんとうに一日過ごしたようになる。だから翌日が平日だと大変だし、休日はつぶれてしまう。
「休みだからっていつまで寝てんの」
翌朝、二度寝していると怒られた。もう昼前。でもちょっとしか寝てない気がする。せっかくの休みだけど、きょうはぼけっとしてるしかないなとあきらめる。
休みの日は夕食以外は自分で作ることになっている。トーストに納豆をのせたのにきのうの残りの味噌汁という和洋よくわからないので遅めの朝をすませた。自分のなかではあくまで遅めの朝だった。早めの昼ではない。昼は昼で食べるつもりだった。
居間のテレビでネット配信のアニメを見ているとまた始まった。こんどはリモコンを操作してる右だった。ボタンはまちがいなく押せるのに、その押している指は他人のを見ているようだった。いま、右手の皮膚の内側に自分はいない。人差し指を握ってみたが、左手に伝わってくる感触は、芯のある柔らかいなにかを持ったようだった。つぎに左手を頬に当ててみたが、そちらはちゃんと自分で自分に触れた感触がした。触った左手と、触られた頬の感覚が完全に同期しているので連続した自分として理解できる。
でもこの右手はいまのところちがう。体にくっついている異物だった。刃物で切ったらどうなるかなと思ったが、やる気にはなれなった。それにいずれ元にもどるんだし、切ったり叩いたりはしたくない。まあ、動かなくなるんじゃないし、あまり気にしないでおこう。
遅めの昼はインスタントラーメンにした。健康への言い訳としてブロッコリーとにんじんをレンジで蒸して入れる。ちょっと物足りない気がしたのでパックご飯もチンして残り汁に混ぜて食べた。いやしい自分がいとおしい。
腹がふくれると眠くなってきた。ちょうどいい。どうせ寝不足なら昼寝をしよう。それに、いま夢を見ておけば夜はちゃんと寝られるかもしれないし。部屋にもどってベッドに転がった。寝過ぎは困るのでスマートフォンのタイマーを一時間にセットした。
夢はいやになるくらいふつうだった。ベル音に起こされた瞬間、起きたのかまだ夢の中なのかわからなくなってしまうほどだった。夢の中でもネット配信のアニメや海外ドラマを消化していた。すじさえ分かればいいので倍速か飛ばし見で、面白そうなところだけ通常の速度にもどす。そういう見方をしてもだいたい分かると気づいてからは等倍はまだるっこいと思うようになった。
だけど、とベッドに腰を掛けて考え直す。あの話、もう見たっけ?
居間に行って視聴履歴を開くと、夢で見た作品にはすべて見た記録があった。日時は……、と。
きょう、ついさっきだった。視聴したアカウントは自分のだった。父か母が使ったとしてもそんなことをする理由がない。履歴を分けるためだけに個別にアカウントを作っているけれど、支払いは家のカードなんだし。
もっと詳細な記録が見られるスマートフォンのアプリで記録を開くと、最新のログイン時刻はちょうど昼寝を始めたころだった。
そんなことを調べるくらいなら確めればいい、とわかってはいたが怖かった。でももうすることといえばそれしかない。
履歴から、夢で見た話を選んで再生する。声が出なかった。アバンタイトルからオープニング、本編のA、Bパートとアイキャッチ、エンディング、予告、エンドカード、すべてが夢で見た通りだった。
寝たつもりが寝てなかったのなら夢遊病とかいうやつだろうか。それとも軽い記憶喪失?
こうなったら親に相談したほうが。でも、その気になれない。そういう医者にかかったことはないし、変な薬をのまされるのもいやだ。なにより日常生活にはほとんど影響ない。すこし寝不足になるくらいだし。いや、やめておこう。ちょっとばかり思い違いをしていたからといって記憶喪失だなんだとおおげさすぎる。ほっておけほっておけ。なんでもないよ。
翌朝、ベッドでぼーっとしていた。きのうの夕食がこなれきっていないようなおなかの具合だった。父が当番の時はいつもそうで、総菜屋の海老フライがのったカレーだった。とにかく重いけれど、うちのルールとして作ってくれたご飯に文句はいわないというのがあるのでみんな残さず食べた。それにまた寝過ぎたかもしれない。枕もとのスマートフォンを引き寄せて何時か確かめようとした時だった。
「またテレビのお守り? アニメばっかり。その熱心さで勉強してみな」
あっという間に目が覚めた。母の説教?
ベッドに起き上がったままドアを見つめた。耳をすませるといつも見ているアニメのキャラクターが技を出している声が聞こえてきた。
とにかく着替えようとベッドを降りたとき、両足が自分じゃなくなった。低い台に乗っている感じがする。歩くのには支障ない。見て確かめながら脚を動かせばなんとかなった。
ドアを開けたとたん音が聞こえなくなった。居間どころか家にはだれもいなかった。冷蔵庫にメモがあった。二人そろって寄り合いだそうだ。テーブルにあった菓子パンと牛乳で朝をすませた。どうしよう。いや、確かめることはわかっているけれどためらってしまう。でも結局確かめた。
きょうの視聴履歴があった。でも絶対に見ていない。そもそも内容を知らない。頭を再生してみたが、やはり覚えはなかった。さすがに続きを見る気にはならなかった。足はまだ自分じゃないままだった。
もう一度家中を調べた。こんどは部屋だけじゃなく押し入れや物置も見た。誰もいない。
居間にもどった時、自分じゃない感覚が上がってきたような気がした。いや、気のせいじゃなかった。もうひざの下は自分じゃなかった。急いですわった。もう腰まで分からなくなっている。電話をかけなきゃ。もう胸から下まで。自分の部分の方がすくなくなり、手や足だけとはちがって体の感覚がなくなったので、動かそうとするところを見ていても思うように操れなくなった。重い荷物をくくりつけられているようだった。ほとんど転がるようにして電話のそばまで行ったが、その時には首から上のみが自分だった。手足がどうなっているのか状態がつかめない。麻痺しているのではないから動かそうとすれば動かせるのに、思ったようにねらったところに手足を持っていけない。あちこちにぶつけてもがくだけだった。当たったところが赤くなっている。でもまったく痛くもかゆくもない。そのうちに口内に異物感がした。たぶん舌だろう。ためしに声を出そうとしたが、もう喉もだめだった。息がかすかにひゅうひゅういっている。その音も聞こえなくなり、すぐに真っ暗になった。
それでも自分はいた。外からのあらゆる感覚がなくなったのに自分がいるとは変だが、こうして考えているのは自分としかいいようがない。
光が見え、一瞬で広がり、つぎの瞬間居間にいた。すわっている。体は自分だった。見まわすが誰もいない。水を一杯飲む。どうしていいかわからなかったので、日常を取り戻すようにいつものことをした。
視聴履歴をもう一度開く。すべて覚えがあった。そういえばきょうも見た。お腹が減ってないので野菜ジュースを飲みながら見ていたら、アニメばっかりと母に怒られた。それから二人そろって寄り合いに出かけた。だから冷蔵庫にメモなんてないはずだ。
え、メモ? そんなのいつ見たんだろう。頭がごちゃごちゃになっている。出かけるといって出かけたのに書き置きなんて残すわけがない。でもそういうのが冷蔵庫に貼ってあったのを読んだ。ほんと?
順々にさかのぼる。今朝はいつも通り起きたけど、ベッドでぼーっとしていた。きのうのカレーは豚カツが乗っていて重かった。昼は配信のアニメを見ていた。いや、昼寝してたか。
体が自分のじゃなくなることがある。ううん、そんなおかしなことなんてない。
これは心の病気だろうか。これがもし他人に起きたことで、それを相談されたのならすぐに医者に診てもらえというだろう。でも自分だとそうする気になれない。恥ずかしいという気持ちがある。風邪なんかとちがって心がおかしくなったのを人に知られたくない。
様子を見よう、という考えが浮かび、それにすがりついた。それに日常に不便がなかったり、人に迷惑をかけたりしないのであれば、とりあえずこの、ほんのささいなできごととつきあっていってもいいんじゃないか。
それで楽になった。そうさ、あわてるな。ふつうの毎日を送ろう。適度に勉強し、適度に遊んで暮らしていこう。よし、と自分に声をかけるとなんでもない気がしたので、配信の続きを見た。
母が帰ってきてまた愚痴られた。でも見る。アニメは楽しい。父は寄り合いに残っている。日のあるうちから飲むのだろう。
「じゃ、夕ご飯はあっさりめの作ろうか」
きょうは当番だった。
「そうね、まかせる」
材料の準備をしながら、ちゃんと献立を組み立てられる自分に安心していた。やっぱりおかしくなんてなってない。
翌日、学校でも記憶の混乱があった。課題をやったのとやっていないという両方を思い出せたし、約束などもしたのとしていないの両パターン覚えがあった。しかし、ごまかしつつスマートフォンのメモとかを見て対応できた。なによりまったく忘れているのではないから他人から見ておかしいところはなかっただろう。
だが、そんな日が一週間も続くと新たな疑問がわいてきた。二種類の記憶はいったいどこから生じているんだろう。
ことのはじめから、アニメを見たのと見てない記憶があったけど、自分が二人いるはずはないし、この二つは同時に成立するはずもない。見たのに見てないってどういう状態なのか自分でもきちんと理解できない。でもそうだった。物語もなにもかも思い出せるし履歴にも残っているのに見た覚えがない。あるいはその逆。
自分が二人いるはずはない。そもそもそれが本当なのかな。きょう技術で習った交流になぞらえて考えてみた。あれみたいに高速で切り替わっているんじゃないかな。でも切り替わる相手の自分もいるなんて信じられない。パラレルワールドはSFアニメだけでいい。
もうちょっとそのたとえを掘ってみる。交流で切り替わる瞬間に電圧なんかがゼロになるけど、それで自分の感覚がなくなっていたのかも。どんな波形かとか周波数は何ヘルツかなんてわからないけど。
なんだかけっこういい線いってる説のように思えたが、根本的な疑問が浮かんだ。交流に例えるとして、切り替わる先の自分はだれだ? それに、いま記憶に起きているのは交替じゃなくて混合だ、しかもちゃんと混ざり切ってない、と思う。
家に帰っても考え続けた。それでアニメは見なかったが、見た記憶と履歴があった。それと、夕ご飯のおかずの記憶も増えた。カレイの煮つけ、かき揚げをそれぞれ食べた覚えがある。今夜は親子丼で、どんぶりを洗って片付けたはずなのに。仮にいま吐いたらなにが出てくるだろう。一時は本気でそうしようかと思ったができなかった。
ある意味これは体じゃなく心が自分じゃなくなっているみたいなものだ。どの記憶が現実にそっているかいちいち確かめないといけないなんて。それに記憶が信用できないなら、いまここにいる自分だってあやふやになる。
そう、夢のように。
この一週間、夢をまったく見ていない。眠りは意識が真っ黒に塗りつぶされることとなっていた。枕に頭をつけて目をつぶると、つぎの瞬間、目覚ましのベル音とともに疲れがすっかりとれた自分が目を覚ます。そういうのがごく最近の眠りだった。そしてベッドの中で数分の間、混ざりあった数種の記憶と自分を整理する。
「だいじょうぶ? 最近元気ないよ」
「なんでもない」
そういうのが両親や友人たちとのふだんの会話になった。起きている間はいつも不安だった。複数の記憶にもとづく複数の自分がいるようなものだ。なにかをした自分としていない自分。数学の宿題をやった、やったがまちがっていた、どうせ当たらないと思ってやっていない、そもそも忘れた。それに絡んで、宿題をやったから配信のアニメは見なかった、ほどほどにしか見ていない、やらずにたくさん見た、やらなかったけどすこししか見ていない、見なかった。それぞれが重ねあわされて存在し、自分として主張している。どうしたらいいのだろう。
解決法は意外な方向からあらわれた。家具に足の小指をぶつけた。爪は剥がれなかったが、血がにじんだ。その痛みと衝撃が、重ねあわせになっている自分を統合した。すべての記憶が一致した。ぶつけて痛い、と。
同情と半笑いの母に手当てしてもらった。その夜ずきずきする足指を気にしながら眠ると夢を見た。つぶした段ボール箱を敷いてゆるやかな丘をすべる。ずっとずっとすべる。草の匂いとぽかぽか暖かい感覚まであった。
翌朝、やはりその痛みの記憶だけはひとつだったし、その瞬間の自分はひとりだった。
痛みのような強烈な体験は記憶、そして自分をひとまとめにするんだ、と感心した。しかもひさしぶりに夢を見た。なら、と手の甲をつねってみたがうまくいかなかった。そのていどでは足りないらしい。それともわざとはいけないのか。
その日、痛みの効果を再確認するできごとが起きた。プリントを整理していたら紙で指を切ってしまった。冷や汗が出るような痛みとともに記憶も自分もひとつになり、夜は夢を見た。
もう明らかだった。複数の記憶や自分がどこからきているのか、それとそういう状態の解消法がはっきりした。
なぜかはどうでもいい。自分は複数いて、それぞれがお互いを夢としていたが統合された。この混乱は耐えられないけれど、痛みのような生命、身体に危険が及ぶような強い現実で一時的に分離できる。夢は夢に追いやれる。
でも家具に足指をぶつけたり、紙で指を切るていどでは、その体験についてのみしか記憶や自分を分離できなかった。もっともっと強く。でもだれが、いや、どの自分がやる?
現実的にその行為が可能な場所といえば学校しかない。五階の理科実験室ならじゅうぶん高く、窓が開く。下はコンクリートで固めてあり、植え込みや花壇はない。そのうえそこへ行っても不自然ではなく途中でとがめられない。そんな条件がそろっている。刃物や紐も考えたが確実性がない。やりきれる気力が続かないかもしれないし、意識を失うだけで救命されてしまうこともある。それに比べると高所からの落下は足さえ踏みだせばあとは重力まかせでいいから楽なものだ。物理の授業がこんなところで役立つとは思わなかった。
さあ、もう一度考えよう。どの記憶が、いや、どの自分がやる?
あらゆる自分が手を挙げた。
了
夢の通い路 @ns_ky_20151225 @ns_ky_20151225
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